第4話

 時計女が朝を知らせる声が遠くで聞こえる。眠りは濃くなり、昼前に目が覚めた。夜の仕事の翌日はどうしてもこうなってしまう。

「おはよう」ダンボール男が言った。

「うん」私は布団の中で目を擦って、返事をした。

「昨日もいたく疲れてたみたいだけどセクキャバなんて辞めれば? 金、余るでしょ」

「一〇〇万貯まったら辞めて旅でも出ようかな」

「それはいいね」彼は親指を立ててグッドを示した。

 その日は、本屋のバイトを終えると、一旦帰宅し時計女の時報を聞き、それから久し振りに矢森宅まで自転車を走らせた。壊れそうにタイヤは回転し、ダイナモは控えめに存在を照らした。夜風は涼しく服の裾を揺らし、天にはいい按配に星が煌めいていた。彼に会うのは、電話は多くあれど、あれ以来実に二週間ぶりだった。

 玄関に出た矢森は私を引き入れると、丁度映画を見ていたところだったんだと言った。そして部屋に戻ると、彼はDVDリモコンの再生ボタンを押してから、口先の細く曲がったポットでお湯を沸かした。水が沸騰すると、キッチンに立ち、ドリッパーに粉を入れて、一旦湯を垂らして蒸れるのを待ってから、何回かに分けて丁寧にお湯を注いだ。私はその間、テレビに映る洋画を見ていた。そこでは夏の木立で、顔立ちの端正な外国の少年が熱心に捕まえた蝉を眺めていた。ビー玉のように青く澄んだ二つの瞳が、太陽の光りを受けて輝いている。次のシーンではその少年は大通りに繰り出して、古道具屋を丹念に調べているかと思えば、合流した同年代の男子らと、青果店で陽気に盗みを働いたりしていた。

「はい、どうぞ」彼は二つ持ってきたマグカップのひとつを私に寄越した。

「何の映画?」

「アメリカ映画さ。戦死した英雄の一生を綴ってるんだ」

「ふうん」

 部屋はきちんと整理されていた。不要なものは捨てられ、要るものだけがあるべき場所に仕舞われている。ギターはギターケースに、ペットボトルは資源ゴミの透明な袋に、使ってないハンガーは一か所に寄せられクローゼットの中に、それぞれ定められた居場所に身を横たえている。それに矢森は本を読まなかった。使い終わった教科書も他人にあげるか捨てていたから、棚には両手で数えるほどの本すらなかった。

「うーん」矢森は私の方を見ると、服の裾を見つめて唸った。

「どうしたの」

「ねえケラ美、君、煙草吸いすぎじゃない?」

「そうかな」高瀬川でバイト終わりに喫煙したときのだろうか、と思って嗅いでみたけれど分からなかった。家でも毎日吸ってるし、分かるわけがない。

「たぶんね。ケラ美もさっさとやめた方がいいよ。中毒は理性を奪っていく」

 矢森は煙草を吸わなかった。「いつかやめるのであれば初めからやらない方がいい」という信条を掲げて、健康的ではないことを忌み嫌っていた。アルコールにおいても、外では周りの付き合いに合わせて飲むものの、一人では滅多に口をつけることはなかった。しかし、忌み嫌っているとは言ってもそれは彼自身に対してという話で、彼が他の人間に口出しすることはほとんどなかった。彼はいくらかよくない方へ心境を変化させているようだった。ここでひとつ釘を刺す必要があることを私は悟った。テレビではさっきの少年が高校生くらいになり、女性に一目惚れをする展開になっている。

「あのさ、前まではそんなこと言わなかったじゃない?」

「そんなことないと思うけど」

「……じゃあなんでこないだはあんなことしたの?」

 怒りが漏れないように抑えて言うと、彼は黙って液晶に目を向けた。映画では、軽快な音楽と共に主人公が仲間たちと楽しげに酒場で酔っ払っている。

「ここは山に囲まれている」矢森はふと思い出したように言った。

 私が何も言葉を継がずにいると、彼は続けて言った。

「京都の盆地は山に囲まれて行き場がないんだ。ここは閉ざされた土地だよ、本当にね。東を向いても山、西を向いても山。あるのはささやかな池や沼だけだ。比叡山がなんだ、修験がどうしたって言うんだよ。僕はね、自由が好きなんだ。誰にも捉われない、咎められない場所が欲しい」

「自由はいいね」

「そうだろう、なあ海を見たいと思わないか。こんな鬱病みたいな山並みなんかよりよっぽどさ。僕は、実のところは海外で暮らしたいんだ。アメリカのような広大な大地でさ。ビーチにパラソルを立てて寝そべったり、犬を放し飼いにして芝生の公園を歩いたり、大きな河にボートを浮かべるのもいい。夜には火を焚いて、億千の星を眺めるんだ。きっと楽しいだろう、こんな閉ざされた部屋は抜け出して、もっと多くのものを見て、もっと多くのことを知ろう」

 彼は夢を語るように呟くと、言葉を失くしたように沈黙に堕した。

 私も彼も自由を眺望する者としては同輩であった。その大まかなひとつの領域においてのみ、私たちは価値観を共有し関係を繋いできたのである。矢森は細々とサークルの仲間や学校の友人たちと関係をうまくやる一方で、若者特有の大きな夢を描いていた。しかしそれは私に言わせれば、厳密には観念に寄りかかる楽観主義に過ぎなかった。同じく自由を求めてはいても、私は一〇〇万を貯めたら国内を旅する、そのくらいでよかった。別に山に囲まれてたって構わない。そもそも彼は手の届かない景色に憧憬を抱くことで自分を保ってるだけなのだ。私は身を売ったとしても生活をこなしていく、それだけだ。矢森なんかに広い世界は似合うわけがない。荒野を夢見る潔癖症の小心者なんて惨めなだけだ。

 しかし、そんなこと口に出して何になるというのだろう。ドリップコーヒーのよく分からない苦さだけが空間を充たしていく。心を落ち着かせてから私は訊いた。

「ねえ、これからどうするつもり?」

 矢森はじっと私の目を見つめた。何かに縋りつくような瞳だ。映画では、灰色の戦争が始まっていて、同朋の亡き骸を背に果敢に戦う主人公の勇姿があった。矢森と主人公の間には海溝ほどの距離がある。そのことに微塵も気づかず、矢森は言った。

「分からないかな、僕は君が大切なんだよ。君を失いたくないし、汚れたり傷ついて欲しくないんだ」

 分かっていないのはどっちだろう、という本心を飲みこむと妙に喉が苦しくなった。

 帰りしな、彼は気遣うような手つきで私の背中をそっと抱きしめた。私はまたそれを拒まなかった。これも過善症というものだろうか。しかし上塗りされる悔悟の予感は全くなかった。私はもう何も感じたりしなかった。矢森の腕の感触は、明日同じようにして抱いてくるであろう男共と判別不可能になっていた。私にしるしなど必要なかった。

 下宿に帰るとシャワーも浴びずに布団に倒れ込み、灰皿を寄せて煙草に火を点けた。煙草の先端の炎はクーラーの排気に呼応して、揺れるひとつの鼓動と化した。


  ※


 何日かが過ぎたが、もはや私は矢森の電話を取ることすらなくなっていた。もう彼と話すことなどなくなっていた。彼が自分の中で私との人間関係をどのように決算するのかには興味がなかったし、私にはそれまで通り生活は変わらず自然に続いていくだろうという信念があった。しかしそれは予兆もなく裏切られることになる。いや単に私がその兆しを見逃していただけかもしれない、あるいは無意識に避けていたのかもしれない。いずれにせよ、それは突発的に、素早すぎる雲が少量の雨を勢いよく振り撒いていくかのようにして、私の元に降りつけたのである。


 私はその日、セクキャバで飢えた男共の相手をしていた。汚らしく、厭らしい、風俗にでも行かないとたちまちに存在理由を見失ってしまうクズたちだ。天井のミラーボールが紫やピンクの光りを反射し、キャストたちが多くの男の欲望をコントロールしている。ボーイがホールを行き来し、新規の客を案内したり先客に延長するかどうかを訊いたりしている。

 私は何時間か働いて、三十分程度の休憩をしに裏に戻った。店長がデスクでパソコンを打ち、他には二つ先輩の高槻さんがテーブルで煙草をくゆらせていた。休憩室に来ると肩の荷が一気に下りる。たかってくる蠅は消え、ここではただの人になる。私は端の椅子に腰かけ、バッグのミネラルウォーターを飲むと、煙草に火を点ける。少しすると携帯を弄ってた高槻さんが顔を上げた。

「ケラちゃん、上がったら暇? たまにはどっかで飲まない?」

 どうやら彼女も同じ時間であがりらしかった。翌日は本屋のバイトもないし、そう誘われるとモヤモヤした思いを払拭するために酒を飲みたい気分に駆られた。

「いいですよー、たまには」

「おー、マジか。言ってみるもんだね。ケラちゃん、あんまり仕事終わってから飲んだりしてないっしょ」

「疲れてくたくたですからね」

「激わかる、それ」

 高槻さんはやがて仕事に戻っていき、私もぼんやり時間を潰してから表にでる姫に戻った。

 零時になろうかという頃合いであった。もうすぐあがりかーと呑気に思っていると、指名が入った。時々勘違いしたカモに指名され、私の地位が上がることがある。嬉しいことだ。しかしそのシートに行った私はその前で凍りついた。

「おい、何してるんだ」その客は言った。そして続けた。「何でここにお前がいるんだ?」

 それは矢森修人だった。

 私は、我を取り戻すと彼の横に滑り込んだ。

「わあ、かっこいい人だ! わたしもサービスしちゃおっかな!」

 彼は完全に目が据わっていた。よほど私がここで働いてるのがショックだったのかもしれない。でもこの店に来たということはそれなりのことをしてもらいたいということだろう、と思い、私が彼の膝に乗ろうと身を動かすと、彼はいきなり立ち上がった。そして私の手を取って引き上げた。

「おい、出るぞ」

 矢森は私の手を引いて、出口に向かおうとしていた。

「ちょっとお客さん!」異変に気づいたボーイがすかさず彼の前に立ちはだかった。

 矢森は空いた右手で、思いっきりボーイの横っ面を叩いた。ボーイは一瞬たじろいだが、「なにしてるんですか!」と怒鳴って、矢森を取り押さえようとした。すぐに他のボーイたちにも連絡がゆき、暴れる彼を取り押さえにかかる。矢森は抵抗を見せたが、三人の男に勝てるはずもなく、騒然としたフロアから入口の方へ引っ張られていった。私が一旦フロアの端で待機していると、最初にいたボーイだけ戻ってきて、「大丈夫か?」と訊いてきた。

「危なかったな、俺が不注意だった。悪い。怪我しなかったか?」

「ええ……、平気でした」

「まったく、危ない野郎もいるもんだ。さっき、店長が来て、今の客を叱りつけてたからもう心配ないと思うんだが。帰りとかも送ってもらった方がいいな」

「いや、あの。あれ、知り合いなんです」

 私が恥ずかしくも打ち明けると、ボーイは、

「あー、うん、そうか」と納得したようで、もう一度大丈夫そうか確かめたので頷くと、「うん、……まあ気をつけるんだぞ」と言って仕事に戻っていった。

 私は突然のことにまだ意識が遅れていたが、仕事場に戻るとあまり関係はなかった。身体の仕事で頭の仕事ではない。

 しかしなぜ矢森はここに来たのだろう、と私は思った。サービスを受けるためでないなら、私を探していたことになる。それならなんでここが突き止められたのだろう。

 矢森のことを考えていたら、あとの仕事はすぐに終わった。裏に戻ると、高槻さんが着替えていた。私は店長から二三質問を受けたが、あまり時間を取られずに解放され、店を出ると、高槻さんに連れられ木屋町にあるバーに入った。店内は薄暗く、客は私たちの他にほとんどいなかった。穴場なんだ、と高槻さんは言った。私はジントニックを、高槻さんはアペロールモーニを頼み、お疲れさまと乾杯した。

「他の人ともよく来るんですか?」

「来るよー、店長に奢ってもらったり、みんなとわいわいしたり、いつも送ってもらってるボーイの奴らに奢ってやったり……、あれ? ケラちゃんてそういえば、あんまり送迎してもらってなくない? 勤めて長いのに」

「ああ」私は頷いた。「なんか一人で帰りたくて、タクシー呼んでるんです」

「そっかー、まあ気持ちは分かるな」と彼女はうんうんと唸ってから、「でも、高いだろうし交通費の相談してみた方がいいよ」と言ってくれた。

 話していると、私は彼女の物腰の柔らかさに驚いていた。単に仕事だけの関係だから、キャストのことはあまり深くは知らないけれど、どの人も素っ気ないか自己中心的に過ぎる感じがする。多分、その中で高槻さんは姉御肌として慕われてるんだろうと想像した。

 高槻さんは話の持ち運びもうまく、話していて安心した。私たちは、働くことのだるさを言い合ったり、家でも簡単にできるカクテルを教えてもらったり、客の悪口をあげつらったりして私たちは更けゆく夜を堪能した。

 三時を過ぎた頃、携帯が鳴った。見てみると矢森だった。私は無視して、携帯の電源を落とした。

「誰? 彼氏?」

 高槻さんが煙草を吸いながら訊いた。

「いや、そんなんじゃないですよ……。あ、高槻さん聞いてくれます?」

「なになに」

 話を切り出すと高槻さんも聞いてくれそうだったので、私は矢森との間であった顛末を彼女に話した。

「友達のつもりだったんですけど、なんかどっかで歯車が噛み合わなくなっちゃったんですよね」

「そりゃ一回セックスしたら男なんてその気になっちゃうよ。単純で馬鹿な生き物なんだから」と高槻さんは笑った。「未練もないなら、早く鞍替えした方がいいんじゃない?」

「鞍替えって、だからそんなんじゃないんですってば」

「あー、ごめんごめん。でもさ、相手はもうケラちゃんに惚れてるんでしょ」

 話を打ち明けたら、私も矢森のことなんてどうでもいいような気がして、腹にたまった重い鉛が溶かされたような思いがした。矢森なんて世の中に比べれば取るに足らない微細な部分であるに過ぎないのだ。

「どうやって店舗まで分かったのは謎ですけどね」

「ああいう男はその気になるとしつこいんだって。私にもいたわ、そういうの」

 高槻さんは昔の記憶を思い返したのか、苦々しい顔をしていた。


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