第3話
※
私は徐々に規則正しい習慣へと身体を順応させていった。世界を移動した時点を焦点とするならば、焦点以前のことの方がむしろ夢のように思え、霞んでいった。バイトを続け、できる限り時計女の傍で彼女の数少ない声を聞き、朝と夜の始まりと終わりを確かめた。そんなことよりも頭を悩ますのは、矢森のことだった。彼と今後どういった関係を織りなしていくのか、私の決意が求められていた。
「ならばなんで彼と、矢森修人とセックスしたんだ? ケラ美、君は断りの意志すら見せなかったじゃないか。本当に拒もうと思えば、拒めただろうに」
「別に。どうでもよくなっちゃったからだよ」
「まさか彼がそんなことするはずないと思ってたのかい? あんなに一緒にいたのに?」
「私とあいつは単なる友人関係だったんだ。普通のとりとめない、ありきたりの、どこにでもいる……、それでよかったんだ。それなのに、どうして――」
「じゃあ拒めばよかったじゃないか」
「そうしたとしても、矢森が私をそういう対象にいれてたことは覆らない」
私がためいきを吐くと、ダンボール男は首を振った。
※
電話が鳴った。私はその番号を見ると、眉を顰めた。朝の七時だった。
電話が鳴ることはよくある。大抵は矢森だ。その内、いくらかは実際に取り、彼と他愛もないことを話した。彼はこないだの情事については敢えて避けてるような調子だったので、そのことに追及するのは気が削がれた。今回はそれとは違う、最近たまにかかってくるものだったが、めんどくさそうなので取らないでいた。私は誰かに気を遣うのがとりわけできないタチであったので、私を取り巻く関係性を、特に今はあんまり拡げたいとは思わなかった。しかしこう何回もかかってきては、取るしかない。
「あ、もしもし」柔らかな若い女性の声が受話器から漏れる。「ケラちゃん? 久し振りー、覚えてる?」
それは河島百合だった。低血圧で動かぬ頭にイライラだけを回しながら、私は応えた。
「百合? どうしたの、こんな早くから」
「ねえ、今日会えない? こないだ街でちょっと見かけて懐かしくなっちゃってさ。そのときはあたしも友達といたから見過ごしちゃったんだけどさ」
あー、とか、そー、とか、うんうん、とか適当に返しながら、話はまとまり、結局二時間後に一緒にお昼を食べることになった。着替えていると、お茶を啜りながら窓の外の交通量の一気に増え始めた交差点を見ながら、ダンボール男が言った。
「どうしてそんなに不機嫌なんだ? GABAが足りてないんじゃないのか」
「別に……」
「そういや、こないだテレビで鰹節がいいって言ってたんだ。ストレスは、多量のビタミンとタンパク質を消耗するんだけど、鰹節にはタンパク質が豊富なんだってさ」
「うるさいよっ!」
飲み干したポカリを投げると、ダンボールの角にカンと当たった。彼が無言になると、急になんだか申し訳ない気分が湧いてきて、私は煙草を吸うと、ふらふらとそばに寄ってダンボールをそっと撫でた。
「ごめん……」
「ぼ、僕も悪かったよ。卵食べる?」
「うん」
「じゃあ朝ごはんにしよう。卵にもタンパク質はたくさんあるはずだ」
彼はキッチンに立つと、目玉焼きとベーコンとトーストを焼いてくれた。私はコーヒーを二人分淹れた。二人でニュースを見て、朝ご飯を食べると、たしかに気分が落ち着いてくるのだった。
「さっきはごめんね」
私が言うと、彼は手についたパンの粉を払ってから、右手を振った。
「いいってことよ! 仕事、頑張ってきな!」
機嫌は安定したものの、バスが河原町を下り、四条に近づくにつれて景色の揺れとは反対に心は固まり、何となく緊張していることが分かってきた。
粘土の匂い。ロッカー上の彫像たち。割れ目の入った木のテーブル。小学校の図工室の風景が頭にのぼる。私と彼女はペアを組んだことがある。そう、河島は小学校の同級生だ。中学生になってからはクラスが同じになることもなく疎遠になったのだが、小学生の頃はそれなりに会話もしていた気がする。図工室は校舎の隅っこにあって、プールが近かったな。静物画のスケッチをして、影の練習をしたり、紙粘土でなんらかの動物をつくったりしていた。私が河島と組んだ時はおそらく、互いの似顔絵を描いたときだ。何か嫌な感情が時間に埋め込まれている。なんだろう、と気になったが、バスを降りるくらいになって、先生が怒っていたのを想起した。
近くの喫茶店に着き、私がうろうろしてると手が挙がった。
「あ、ケラちゃん! ここここ」
河島百合は記憶に留めない容姿をしていた。なんせしっかり会うのは十年以上前なのだ。もう私たちは大人になってしまった。なる前となった後では、住む世界も目に映る光景までもが違う。
「あたし、今、大学の四年生でー、就活で大阪行ったり、東京行ったりで大変なんだよねえ。まあ、内定はひとつ出てるんだけど。そっちはいまどんな感じなの?」
「フリーターでダラダラやってるよ」
「あー、やっぱりー! たくましいねー、働いてるって感じするもんね」
河島は歯を見せて微笑んで見せていた。私たちはパンケーキを食べ、紅茶を飲んだ。河島は垢抜けて、就職活動のためだろう髪の毛こそ黒いものの、かわいくてまるいものが好きって感じのキャピキャピした女子大生になっていた。最近の芸能人の話や、好きなブランドの話なんかをしていると、いつの間にか恋愛の話になった。女子が集まれば自然な流れである。
「ケラちゃんは? 今、彼氏とかいるの? もしかしてもう婚約とかだったり?」
「いやいや、いないって。私の周りは不毛地帯だよ。明けぬ荒野が広がってるよ。百合は? 女子大生だったら辺りの奴ら釣り放題でしょ」
「あたしもダメダメ、というか大学の男なんかロクなのいないから」
「はりゃー、そんなもんかー。好きな人もなし?」
私がこっそり腕時計に目をやりシフトの時間が近づいてきたなーそろそろ追い払わなきゃーと思いながら訊くと、河島は慌てて首をふるふると振った。小動物のような仕草で、いかにも男にモテそうだなと思った。あざといけれど、こういうのに男はすぐに騙される。
「好きな人は、いるの。予備校の時の同期なんだけどね。違う大学で、メールしててもなかなか会ってくれないの。片思いの夜はつらいよお」
「そうなんだー、まあでもそんなに可愛いんだし、何度もアタックしてればそのうち成就するんじゃないかな」
河島は首を傾げた。
「ねえ、なんでそんなにケラちゃんはサバサバしてるの? 昔もそうだった気がする、一人でいるのも気にならないというか……。寂しくない?」
「そりゃあ寂しいよ!」私は思ってもないことを言った。「私だってすぐにいい人見つけるよ、百合に負けないようにしなきゃ!」
「ふうん」と気のない返事をすると河島は携帯を弄り、あるデータを呼び起こし、それを私に見せた。
「この人、狙ってるの。ねえ、かっこよくない?」
河島は怪しく目を輝かせ、私は心を見透かされているのだと思った。
「確かにルックスはいいかも。どの辺りが好きなの?」
「包容力があって、弱いとことかも受け入れてくれそうなとこかな。ねえ、あたしのこと応援してくれる?」
「うん、そうだね」
店を出て、本屋に向かう頃には胃が痛くなっていた。また面倒なことに巻き込まれた。なんでこんなことばっかり振りかかってくるんだろうと空を見上げてみると、硬いビルで切り取られたそれは、夏を思わせる快晴だった。あの時見せた河島の携帯に映っていたのは、見間違いも許さないほど、確かに矢森修人だったのである。
それは太った中年である。
鼻息を荒くし、目をギラつかせ、髪を薄くし、口元をにやつかせ、口臭を撒き散らし、太ももから腹から二の腕から脳の血管に到るまでをドロドロの糖分と脂で充たし、不躾に不気味に肥やしている。冷静に、無感情に、そう思う。地上で最もおぞましい醜さを誇る生き物だ。
私は彼の横に座り、二三の談笑を交わし、キスをしてから、そっと自ら胸をはだけさせる。その生きるべきでない不道徳的生物代表みたいな男は、目を輝かせて、私の胸をさわり、子供を真似するように、そこに口唇をつけ、乳頭を吸い、さも死にかけの老婆が無作法に、無遠慮に、身の程をわきまえずにおびんずるさまを叩くように撫で、生気を吸い取るかのごとく、乳房を揉みしだいた。乳房で一旦の回復が得られたのか、少し落ち着くと今度はキスに力を入れてきた。口臭が酷い。私は、ムードのためを装って目を閉じる。男は舌をねぶり、下にも手を伸ばしてくる。そこで、十五分が経ったため、私は男に確認を取った。結果はノーチェンジ。あと二十五分の辛抱が追加される。男は下着に伸ばす指先に精神を集中させている。強引であれば、店側からのお咎めが出るが、そんなのは客も承知だ。生かさず殺さずのような生地獄が、私を蟻地獄の外にのがすことはない。キスをされ、乳房を触られ、性器をまさぐられる。ホールには狂気じみたどでかい音楽が鳴り響いている。男が何かを言う。私は曖昧に「えへへ」と笑う。その口は望まぬ接吻で塞がれる。しかし、まあ営業時間だけ耐えればよいのだ。同伴やアフターがないのはすっきりしてて良い。労働なんてどこも苦行なのだから、それなら高いのがいいに決まってる……。
何人かの相手をしてようやく店を出ると、私は肩を回して煙草を吸った。月の見えない夜だった。本屋のバイトを終えてから夕食を摂って、働いて、もう零時をまわって一時になっている。この時間にもなれば四条河原町といえど昼間の呑気な人混みはない。歩いてるのは酔っ払いと、風俗、カラオケ、飲み屋のキャッチと、タチの悪い奴らくらいだ、喫煙にいちいち文句を言うものなどいない。
ぐったりとして座りこみ、壁に背を凭れる。冷たい感触と共にひどい眠気が浸み込んでくる。煙草の煙は細く、白く、心臓の欠片が宙に溶かされていくようだ。
慣れてきたとはいえ、身体を売った仕事は厳しい。心にダメージはなくとも、身体の疲れは誤魔化せない。河島のことを考えようとする。彼女はどこで私を見て声をかけようとしたのだろう。しかし、それ以上はあまり疲弊した頭では考えられず、夜風が吹けば私は空っぽなのであった。
私はためいきを吐くと、タクシーを呼んで下宿まで帰った。終電もないから仕方ない。それにセクキャバの収入に比べれば、それくらいどうってことはない。タクシーに乗り込むと、身体はくたくたに疲れていた。家で飲み直したい気持ちにも駆られたが、下鴨あたりの閑静な景色を見ていたら、そんな気も通り過ぎていって、いつの間にか眠ってしまい、運転手に着いたことを知らされて起きる。
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