第2話

 薄く瞼を開いた。意識の取り戻されるのに任せていると、きちりと端を揃えられたレースカーテンから仄白い朝の光りが部屋に入り込んできていた。浮き上がる室内にはぺしゃんこのダンボールが散在している。それ以外はいつもと変わらない六畳の部屋だ。本棚も机上も日常を示す以上のことはなく、整然としている。手を動かそうとしたがうまくいかず、目だけが開いたまま視覚の運動を知らせていた。天井の染みを数える時間が過ぎ、金縛りみたいな感覚が続いた。頭の中は違和を思わせず、慣習通りの淀みに充たされ、ぼんやりとしていた。

 唐突に脳裡を過善症というタームが風のようによぎり、神経はそれについての執着を表していた。「愛」、「無」、それに「過善症」という単語が肩を並べる。それは人に敷かれたレールなのだろうか。ふとどこからか人が人を裏切るのも過善症の一種のような錯覚があぶくのごとくせり上がってくる。それは罪のようなものだろうか。キリスト以来、あるいは釈迦以来、人の運命とされてきた咎であろうか。そんなことを聞けば、精神科医はどんな顔貌を見せるだろう。あるいは昔の恋人は「またか」と苦笑いをして見せるだろうか。

 気がつけば両の瞳はまばたきをしていて、僕は定められた刻が来たのを悟った。身を起こし、肩を回すと思ったよりも重くないことが分かった。机に置かれた飲みかけのコーヒーを呷り、布団が湿ってるのを触ると、脳に針で刺したような鋭い刺激を覚える。布団の微かな濡れは何か不吉なものを予感させた。いつからか携帯が鳴っている。手に取ると、着信は途絶え、そこには「河島百合」と記されていた。その下には知らない男の名前が連なっていたが、それが他人の携帯電話だとは不思議と思わず、変だなと部屋を仰ぎ見ると、そこにダンボール男が立っていたのである。

「やあ、空野ケラ美」彼は言った。

「うん」僕は自然と返事をした。その男はダンボールを頭部にかぶって肩まで隠し、服装はジーンズに赤っぽいギンガムチェックのシャツを着ていた。根暗な大学生っぽい容姿だった。

「僕は君の妄想の産物だよ」僕の考えを見透かしたように彼は言った。「君が経験から目を逸らそうとして作り出した君の影だ、仮想敵だ。あるいは仲間と呼んでもいいし、同居人と言ってもいい」

 僕は妙に納得した。つまり僕が現世に強いルサンチマンを持って破滅願望に到ったから出現したタルパというとこなのだろう。しかし次の言葉はそれを脆くも否定するものだった。彼は言った。

「君は矢森修人に犯されたことをいまだに受け入れられてない。しかしそれは仕方のないことだ。異物が混入されれば体内の細胞は拒絶反応を示す。そういう原理になってんだ」

「はあ?」僕は途方もないことに驚いた。「なんだって? てゆうか誰だよそれは」僕は眉を顰め、怪訝の意を訴えたが、矢森という名に覚えはあった。知らない名前のはずだったが、心当たりはあったのだ。僕は携帯を確認した。

 正解だった。着信履歴の欄には確かに「矢森修人」という名前が並んでいる。

「誰もそんなものさ」ダンボール男は胸ポケットから煙草を取り出すと火をつけて、ぷかぷかと煙を吐き出した。ダンボールのすべすべした表面の一か所が、ヤニに汚れて濃い点となった。「じきに慣れていくしかない。体内に取り込むんだ。しかしこれからのことはケラ美、君に委ねられている。大丈夫さ、過度に心配するこたぁない」

 僕は頭を抱えた。が、そうすると、またあることを発見した。指に伝わる髪の感触がいやにすべらかなのだった。首筋で止まるはずのその先を辿ってみると、後ろ髪は背に落ち、肩甲骨の辺りまで伸びていた。

「なにこれ――」僕は絶句した。その声は自分のものではないほど、高く柔らかな響きを伴っていた。僕は急いでユニットバスに飛び込んで洗面台の鏡面の前に立った。

 そこには見も知らぬ、細くて若い一人の女が驚いた顔で立ち竦んでいた。顔に手を当てる、鏡の中の女も同じ動作をする。右手で天井を指して左手で床を示す。鏡の中で自分が変なポーズをしている。

「どうしたんだ」後ろでダンボール男が声をかけた。僕は鏡を凝視したままに叫んだ。

「わたしはどこ? それともここは夢の中なの!」

 僕は自ら発した言葉に気がついた。これは夢だ。

「ここは夢だし、どこだって夢さ。現実は覚めない夢なんだ……。空野ケラ美、これが君の名前だよ。どうしたんだい、そんなに血相を変えて。ほら、もうすぐ時計女の鳴く頃だ。挨拶しておいで」

「私はケラ美……、空野ケラ美……」

 覚めない夢。空野ケラ美。それは、その事実は無限に檻のようなアーチをくぐることを、それの果てないことを知らずに、解放を目指して走り続けることを思わせた。それは完全な現実だった。蜂蜜が瓶に詰められるくらい当たり前のことだ。有耶無耶な気持ちを抱いたまま、僕は玄関を出て、マンションの螺旋階段を上がって、五階に着くと、壁に取り付けられた梯子を伝って、貯水タンクのある屋上に出た。昇ることを想定されてないのでフェンスなどは取りつけられていない。肌寒い風が心地よくパジャマの裾を揺らした。白んだ街がそこから見渡すことができ、東の地平から丁度太陽が昇ってくる頃合いだった。そこに胸元に赤いリボンを付けた黒いセーラー服の時計女が体育座りしていた。細く棚引く淡い紫雲は、ゆっくりと低く動いて比叡山の方へ、嶺を越えようと空を這いまわっている。北大路のここからでは遠く見える駅前の京都タワーは忘れたように灯りを消した。散歩に引き摺られているであろう犬の声と自動車の唸り声が路地のあちこちから湧きあがってくる。その時、時計女がすっと立ち上がって直立し、顔を空に向けた。それを合図にして地平からはみだしてきた太陽がその光線を彼女の横顔に当てた。

「ケ~? コココ、コケケッ、ケカー」と視線をうろつかせ息を整えてから、

「――コケー!」と彼女は上を向いて高く叫んだ。

 その澄んだ声は町中の朝を舐め、人々を生活へと呼び戻すものだった。それを聞いて、自分には「僕」ではなく「私」がしっくりくることを思い出したのだった。

 時計女は一分おきに三度叫んだ。その間は息を乱すどころか、呼吸すらしてないようにじっと南の空を睨んでいた。そして、三度目が終わると、小学生がそうするように膝だけ使ってすっと元の体育座りに戻ったのだった。私は、時計女の隣に腰掛け、自分に割り当てられた街を眺めた。

「これはひとつの輪ってことだね。可能世界がいくらあっても、自らに直面する世界が自分の世界なんだね」

 私が訊くと、時計女は表情を少しも変えることなく押し黙っていた。いけすかない女だった。それは私の声など聞こえていない風で、まるで飲みきられたチューハイの缶と投げられる壁の混合物であった。懐かしい孤独の味が込み上げてきて、私は朝に閉じる花のように、しおれてひとり俯いた。俯くとそこには小さな二つの膨らみがあった。自分の胸部にそれはあった。私は気づいて、パジャマの胸元を覗きこむと、小学生のように顔を赤くした。それすら誰にも見られてないのは紛れもない幸運であった。


 私はとりあえず、階段を下りて部屋に戻った。洗面鏡の前に立つと、自らの姿形を確認した。どう角度を変えて見ても、二十歳そこそこの女だった。いくらか普通よりは痩せていて、目つきが鋭い、ただの女だ。不思議な感覚は残るものの、先程に比べれば全くと言っていいほど異物感というか、私が私でない感覚は拭い去られ、消尽していた。「なんだ、私か」と私は思った。

「さあ、お茶を飲みなさい」ダンボール男は言った。

「ねえ、時計女って屋上から降りてこないの?」

「降りてこないね、だって上にいるのが彼女の役目だもの」

 私は、湯呑に注がれたお茶を冷ましながら啜って訊いた。

「彼女はあそこで何をしてるの」

「見たらわかるだろう、人々に時を与えているのさ。そして昼間は眠っている……」彼も自ら注いだ湯呑を口に当てた。今度はダンボールの下に湯呑を持っていったが、少しお茶がズボンに零れたのか、「アヤヤ!」と幾分取り乱した声を上げた。

「ねえ、なんで私は時計女に挨拶すべき人間なの? どうして彼女といるべきだと指示されたの?」

 湯呑を机上に戻すと、彼は神妙そうに頷いた。

「それは君が疲れてしまっているからだ。時計女は規則正しい。なんたって彼女が規則なんだからね。だから彼女の傍についていれば、傷は癒え、力は次第に戻ってくるんだ。今の君にはそれが最もいいと思われるんだ。だから僕もここにいるし、時計女も存在する」

「ふうん」

「まあ、そこにある煙草でも咥えてみればいい。朝のひとときにはピッタリだろう。こちらの生活習慣に従えば、順応もそれだけ早くなる」

 私はオレンジ色の百円ライターを壁の隅から拾いながら、彼をまじまじと見つめ、言った。

「それにしてもダサい格好ね」

「ああ?」彼はどもりながら怒鳴った。「お、お前に言われる、筋合いなんてないね! いつも男のことしか考えてない、この淫乱野郎が!」

 私は笑って、バージニアスリムを喫んだ。

 その時だった。脳内に雷鳴が轟き、閃光が走った。まるで、巨怪な天啓が我が身に降ってきたかのようだった。この世界のことがすべて分かったような錯覚が、私の脳と身体を縦横無尽に貫いたのである。煙が喉を過ぎ肺にたまった瞬間に、多くの眩暈の中に身体の外から経験が到来して私を壊し、別の私にしていった。その隕石はこの世界での記憶だった。それは他に選択肢を欠いた唯一の真実在であり、数値的情報が整形する私のスキンの全体、それであった。

 矢森修人というイメージもまた、明確な輪郭を伴って与えられた。与えられた、というよりはまさに経験が蘇ったという方が正しい。矢森修人は、私の親しい人だった。私は大学を二年で中退したけれど、その頃の朋友で、彼とは珍しく気心の知れた関係を築いていた。その間柄がその後二年にわたってだらだらとも続いていたのは、地理的な要因もあったからかもしれない。私は大学を辞めてからもそのまま堀川北大路にあるマンションに住んでいたし、彼はといえば船岡山の下辺りの細かな路地にあるアパートに下宿をしていたから、その間自転車で十五分もあればという距離であった。彼は私と同じ学年で、一年浪人をしていたからひとつ年上ではあるものの、彼特有の他人に気を遣わせない仕草や打ち解けやすい気性で、私は別段気兼ねする必要もなく、彼と戯れていられた。いや彼が年上だといった印象は確実に私の脳に根を張っていたのかもしれない、そこで私は何らかの安心を見出し、自分に言い訳をしていたのかもしれない。ぬかりがあるからああいったことになったのだ。私がちゃんとしてさえいれば……。


 私は日付と時間を確認し、顔を洗って服装を整えた。

「ねえ、昨日まで私って職場に通ってた?」

 キッチンに寄りかかって腕を組んで考え事をしていたダンボール男は、首肯した。それにしてもよく突っ立ってる男だった。彼はほとんど床に座ることがなく、家事に目をやる他は立って腕を組んでいた。おそらく、それが彼の癖なのだろう。

「昨日までもこれからと変わることはないね。今日は本屋だけだったと思うな」

「そっか。分かった、ありがとう」

 私は家を出ると、京都駅を経由する循環バスに乗り、四条河原町で降り、近くのカフェに入った。腕時計を見ると、十一時近くになっていた。コーヒーと野菜と卵の入ったサンドイッチを咀嚼して時間を潰した。人つきはまばらで、食べた後は深々と煙草の煙を吐くことができた。続けざまに三本吸ったが、朝の時のような激烈な感じはなく、それらは普通のバージニアスリムだった。

 十三時からはその近くにある本屋で働いた。午後一時から午後五時までの四時間の固定シフトで、私は週に五回ほど入っている。わざわざ三十分くらいかけて四条までくだるのが面倒だが、ここら辺までくれば職がいくらもあるのだ。実際に私は内密にもうひとつバイトを掛け持っていた。まあフリーターでやっていくには仕方のないことだ。

 今日は本屋だけだったので、終わると高瀬川の近くにある喫煙所に寄って、集められた人たちに紛れて煙草を吸った。飲み屋のキャッチが出始め、夜の街のランプが灯りだしていく雰囲気が漂っている。高瀬川の浅く細い川底はそんなランプと崩れる太陽との間で、白けた顔で流れていた。

 私が家に帰ると、丁度日没の時刻と重なっていて、屋上にいると眠っていた時計女が立ち上がり、気を付けの姿勢で肘から先の手を微かにひらいて「ホ、ホ、ホ……」と軽く息を整えてから、

「ホォ~~~」と鳴いた。どうやら梟のようだった。朝の鶏よりは随分声量を落としていたが、日が沈み暗がりに埋もれた京都の街並みも時計女の合図で、多くの家々がパチパチと灯りを付け加えた。彼女は朝と同じく三度鳴き、そうして街に夜が来た。

 その夜の眠り際、矢森のことが脳裡に投影されていた。矢森が私の身体におおいかぶさり、私の反抗する指先を握りつけ、キスを迫り、ブラウスを外そうと手を伸ばしてくる。矢森は陶酔している。目は、真っ直ぐ進んだ場所が此処であるという具合を物語り、手つきは、選んで掴み取った紳士的獣のそれになっている。私の心の音は遠のいていく。私がこれから期待し、あるいは過ごしてきた日々がどんどん不明瞭で実体の把握できない影の塊に腐敗してくる。私は為されるがままだ。すべてに絶望し、底に沈む。私は何も聞こえなくなる、私は何も見えなくなる、私は何も感じなくなる……。


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