ケラ美の一生

四流色夜空

第1話

 女性は自由だ、と思うことが自分はそうでないことを表している。

 小学校の高学年からだろうか、女子であれば周囲から好意を掻き集めることができる。女の子はいつから自らの魅力に気づくのであろうか。女はどういうわけか、肌を出して化粧することを覚え、毒蛾のように燐粉を振り撒き、あるいは犬のマーキングのような、媚びへつらいの方法論を体得するようになる。そして男子はそこに自然に引き寄せられる。それはカブトムシが樹木に隠された蜜を探り当てるようでありながら、実のところ雀蜂がオフリスに惹きつけられるようなものだ。雄蜂は雌と交尾しているつもりなのに、知らないままにその蘭の一種に花粉を運ばせる手伝いをさせられてしまう。男であることの悲哀。若い女は輝く燐粉を振り撒く素振りをしながら、男の本能を欺き、利用し続ける。それは一方でひどく醜悪な姿態であるとも感じるものの、他方でそれこそが生き物として自由な形なのではないかとも思われるのだった。道徳的な規律や戒律や凝り固まった欲望の荊棘線をひらひらと掻い潜り、何ものにも捉われないように僕には見えた。比例して僕の目には、踊らされる男たちの滑稽さは際立って映った。思うがまま、と信じていることが実は他人の指示に従っていたときほど、決まりの悪いものはない。そのために男はふとそれに気がつくと、暴力をかざしてみたり、神を呪ったり、もうひとつの理想に鞍替えしたりして、運命に抗おうとする。それは甚だ不細工な所業であり、もちろん若き日の僕も例外ではない。中学生の頃の初恋と呼ばれる体験からもう八年も経とうとしている。過去の時間とはひときわ無常なものであり、空っぽな宝箱のようなものだ。表面に施された唐草文様の精緻な彫刻が好奇の視線を欲しいままにするが、錠を開けばいつだってそれは手応えのない空き箱である。

 中学一年の秋、僕は美術の時間の終わりに、後ろの席に座る背の高い女子に懸命に勇気を振り絞って、ノートの一切れを渡そうとしたことがある。そこには放課後に焼却炉前で待ち合わせをする旨が記してあった。

「あの」と僕は言って、その紙を差し出した。

「アンパン買ってきて」彼女は紙に目を通すと、席を立った。

「わ、わかった」

 僕はドキドキしていた。胸の高まりを感じていた。自分が未知の領域に繋がる高い壁の前に到達しているのを思った。この佳境を脱すれば自分はさぞ素晴らしいところに行けるのだろう。それはどんなものだろう。僕は柔らかくて、眩しくて、そして目に映る何もかもが新鮮な世界をイメージした。昼休みに僕から購買で買ったアンパンを受け取ると、彼女は袋を開けても何も言わなかったので、僕も静かに鼓動を高鳴らせながら放課後を待った。多くの悪しき女のように約束を無視することなく、彼女はホームルームが終わったあと、焼却炉前に姿を現した。

「ねえ、時間がないんだけど」彼女は困ったように言った。「私、友達に待ってもらってるから」

 彼女と僕はそれほど悪い間柄ではなかった。僕は彼女が好きだったし、彼女は僕にしばしば購買への使いを頼んだ。それに宿題の答え合わせをすることもあったし、彼女が日直のときには僕が雑務をこなしていた。そんな親密な関係なのにどこかしらおかしな距離を感じるところがあった。僕の告白はそれを埋め合わせる、些細で自然なことであった。だからどれほど怯えを感じようとも、それは執り行なわれるべき約束事であったのだ。

「僕は君のことをよく知ってると思うんだ、だからいい付き合いができるはずなんだ」僕は反射的に目を瞑り、なけなしの気概を込めて言った。

「ふーん」彼女は腕を組んで、僕の全身を舐めまわすように見つめた。彼女のうしろ、遠くに体育館へ部活に向かう生徒がちらほら見えて僕は不安になった。何か自分が悪いことをしているような気分になる。

「今の関係は悪いものなの? このままでもいいんじゃない?」彼女は訊いた。

「それでも! 一緒にいたいんだ!」

「それは今のままじゃ充たされないこと?」

「好きだ!」頭を真っ白にさせながら僕は叫んだ。「ぼ、僕はさ……色々考えたんだ、でも、だってさ、気持ちを抑えるのは大変な労力を要することで……」

「うーん、困ったなあ」

 空はとても晴れていて、遠かった。いい天気の十月のことだった。彼女の頬に一線の綻びが走るのを僕は見た。それが恵みであることを僕は祈った。彼女は言った。

「そうだね、仕方ないね」彼女は僕の肩に手を置いた。

「いいよ、付き合ってあげる」

「ヨッシャ!」

 僕の歓声は蒼天の彼方に吸い込まれた。

 彼女はひとつの真理を示すように人差し指を立てて僕に見せた。

「ねえ、でも条件があるわ」

「なに?」

「このことはみんなには内緒にしよう」彼女は微笑みながら僕に諭した。「心で繋がっているなら、周りに知らせる意味なんてないよね?」

 僕は周囲の奴らにカップルとして認められたい気持ちもあったが、すぐにそんなことは取るに足らないことだと思い直した。それよりも好きな彼女と付き合えることの方が重要なことなのは明らかなので、「それもそうだ!」と僕は応えた。僕は心の小躍るのを止められず、手をはたはたさせていた。彼女はそれを見てにやにやしていた。

 大きな願いごとのひとつが叶った僕は、彼女と晴れてデートすることもできたし、彼女と手を繋ぐこともできた。僕は嬉しくなって、彼女に色んなものを買い与えた。中学生の間で人気のブランドのバッグやビジュアル系バンドのCDやドクターグリップのシャープペンシルを買った。お菓子やジュースもいつも僕が支払った。僕は彼女にそれらを与えるたびに、またひとつ彼女の内側へ踏み込むことができるように感じた。彼女は涼しい顔をして、それらを受け取った。

 二人は愛で繋がった唯一無二の形となった。彼女は冬のある日、僕の取ったチケットで観賞した映画の帰り道、マクドナルドで僕の買ったチーズバーガーとバニラシェイクを口にして、僕の与えた八〇〇円のパンフレットをぱらぱら捲っていた。僕はさっき見たロードムービーの運命論的ラブストーリー解釈を意気揚々と垂れていた。

「しかし確率論的に言って、主人公の目指す未来像が幼児期の姿と鏡合わせになってるのは驚きだよね。僕たちもそうなのかもしれない。でも妙に納得してしまうけど、それだけで世界が説明されてしまうのもなんだか窮屈って思うよね。ただね、僕は成長っていうのはある意味そういったものかもなとも思うんだ」

「ふーん」彼女は器用にピクルスを包装紙に除けていた。

「というのもだよ、重要なのは線路を見定めることなんだ。なにが自分の考えの主軸になっているか、自分はどの牢屋にいるのか、何が自分の行動原理の根拠を為しているのか、そういったものたちを探り当てることは自らの経験を塗り替える契機を模索することとほぼ同義なんだ」

「なるほどー」

「でも映画というひとつのフィルム、これこそが人生そのもののメタファだと取ることもできて、その観点からすればさきの映画の主張はまた違った見方ができるんだ。それはね――」

 彼女はバニラシェイクを飲み干すと、鞄にパンフレットを詰め込んで立ち上がった。僕は口を開いたまま言葉を見失ってしまった。彼女は「私、友達と約束あるから。じゃね」と言って出口に向かった。振り返ることはなかった。そうして僕はひとりになった。

「今日はいい日だったね」

 チキンナゲットは僕を無視して干からびていた。


 その後、付き合いは一年にかけて続いたけれど、僕の多くの金が失われ、小金を借りまくったせいで他人の僕に対する信用も同じほどに損なわれた。しかし得たものは極僅かだった。ただ、それは人生においてとても価値のあることなのかもしれない。「アイドルは手に入らない」、これが初恋における最も大きな教訓のひとつだ。あるいは、テレビドラマでも得られる無価値な道徳のひとつかもしれない。


   ※


 続く日々の間隙に六畳の部屋があって、僕が閉じ込められていて、外で季節が流れていた。もう五月も終わりだった。部屋から出ない僕に春はおとなわず、蕾は終ぞ芽吹かなかった。講義ももう始まっている大学三回生の貴重な時間がこうやって無碍にされているのを見ると、それがなにより自分の所為というのも相俟って、余計に窓に映る夜の遠のきを眺めることしかできなくなるのだった。気がつくと、先週に二十一年目の年月を迎えた。もうすっかり大人になってしまった。多くのものを失った気がする。それはおそらく可能性という名の時間を経るための代償だ。

 しかし僕はその時間で一体何をしてきたのだろうか。結局ここに残ったのは、引きこもりを拗らせた自称ナーバスなゴミクズ人間。

 夜になると罪悪感が誇張されて楽になる。むしろ途方もない勘違いですら一周回って現実的な気がしてくるからサイコーだ。僕の頭に羨ましいものが次々浮かんで弾けて消える。生きるものすべてが羨ましく見える。生きてることは僥倖だ。その身に熱い血流を滾らせ夢を追い、恋をして愛を知り、些細なことで一喜一憂、泣き笑いを楽しむことができるのだから。そして死んだ者たちも幸運だ。世間のしがらみを忘れ、記憶だけを食べ、もう裏切られることがない。何より時を刻んだ骨の眠りを妨げる者などいないのだから。

 缶チューハイの二つ目を飲みながら、大学へ入学したときのことを思い出していた。どうしたら僕はうまくいったのだろう。どうすれば、他人と打ち解け、経験を共有し、好きなものを追いかけ、苦いものも昇華できる体つきになれたのだろう。今の僕には好きなこともなければ、目標もない。眠剤が欠ければ寝れもしない。なぜだろう、なぜなんだろう。

 もしかして、と僕は思う。それは他愛もない妄想に過ぎないことは分かっている。けれど、それでもそれは寄る辺のない僕にはとても魅力的に思える。浮かんで弾けるシャボン玉の理想のひとつ。

 もしかして僕は女性だったらよかったのではないか。僕はそんなことを思って過去の記憶を参照する。悲しい気持ちが蘇る。中学校の時の淡い思い出だ。確かに女性は自由なのかもしれない。いつだって彼女たちは景色の中で笑ってる。そして僕は大学のキャンパスを闊歩する女子大生たちを思う。服装に気を遣い、他人の素振りに身を合わせ、心を切り売りする彼女たち。彼女たちは一見、不幸にぎこちなく、人形のように思われる。しかしそれはその深奥、日常の地下では逆に確固とした本心をもって、周りを欺いてるということなのではないだろうか。そして僕も女性の性をもって生まれていさえするならば、その自由な本性をそなえ、明るく楽しく純粋で無垢な、人間の生活なるものを手に入れられたのではないだろうか……。

 しかしどうしようもなく、女性は自由だ、と思うことが自分はそうでないことを表している。そうしてシャボンはパチンと弾ける。

 投げつけられた空き缶は壁にぶつかり、不愉快な笑いを谺させた。


   ※


 ある日、元気が出てきた。不意にエネルギーが身体に充ちて、僕の手は棚にしまってあったクレモナロープをユニットバスの内側のドアノブにかけ、その先をドアの上辺にまわしてこちら側におろした。自然と重みがかかれば絞まるよう輪っかをつくって、首を掛けた。足から体重を抜けば、絞首台と同じ仕組みになる。首が次第に絞まりゆくのが分かる。痛みが脳に走ってやめる。その前に座りこんで煙草に火をつけると、今度はすべてがどうでもよくなってきた。理想が生まれ、そして弾ける。もうたくさんだ。悲しい、虚しい、もう結構だ。掲示板で誹謗中傷をするのも、ネットで個人情報を特定するのだって結局何にもならないつまらないことだ。ふざけるな、と思い、煙草を風呂に放り投げると立ち上がって部屋へつかつかと進んだ。

 まずは床に落ちた大学のレジュメやノートをびりびりと引き裂いて、棚に山積しているものも無造作に破った。どうせ全部出席したものなどなく、自分と同じように不完全なものを壊すのは小気味が良かった。破っていると楽しくなって、机のスピーカーを掴んでアニメを録りためたレコーダーにぶつけ、入学祝でもらったプリンターを洗濯機に投げつけた。酷い音がしても、気にはならなかった。隣人が来るかもしれない。だからどうだというのだろう! それがなんだというのだろう! 立てかけてあったギターは糸巻きに近いネックの部分を手に取って、両手で掲げて振り下ろす標的は本棚にした。本がばらばらと床に落ち、弦が二本切れて跳ね、手のひらを軽くなぞった。血が滲むと、変な快感がした。本棚から仏教の研究書が落ちてめくれ、不動明王の睨み顔が目についた。へへんと笑ってやった。その面にギターの先をガンガンぶつけてグシャグシャにした。

 それからも夢中になって僕は気の向くままに手当たり次第に物を壊した。カーテンレールを落とし、シャワーノズルをハサミで切った。気がつけば、部屋はばらばらになった。一か所に繋ぎとめていたアマゾンの箱も床に散乱していた。することがもうなくなっても、重い頭には軽妙な爽快感が漂っていた。扉の壊れた冷蔵庫はもはやオレンジの光りを溢す電燈となっている。そこから発泡酒を取り出し、喉に注ぎ込むと、頭は一層重くなり、自分はやってやった、何かは分からないが敵を倒したという気持ちが強くなった。壁に凭れ、呆然として酒をぐいぐい飲んだ。そして暗い気持ちになる前にと思い、眠剤をワンシート、ぷちぷちとあけ、その今にも這い出しそうな錠剤たちを喉に勢いよく流し込んだ。しかし、既に遅かった。景色が揺れ、吐き気が疼いた。脳髄が酩酊に溺れる頃、横になって天井を見ていた。天井を見て、死のうと思った。

 僕は久し振りに夢を見た。それは長い夢だった。近くの寺で鐘の鳴るのが聞こえた。

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