【37】 ブカレスト 旧王宮跡
「エリック、どうしよう?私は泳ぎは得意じゃないよ」
シュテファンがエリックに話かける。私もだ、と言いながらエリックは何か思案している。庭の隅で買われているヤギがのんきな鳴き声を上げた。
「そうだ、思い出した!」
エリックが亜希とシュテファンの方を勢いよく振り返った。
「鐘は別の場所にある」
「どういうこと?」
「行こう」
エリックについて車まで戻ってきた。
「一体どこに行くの?」
亜希はエリックに尋ねる。
「博物館だよ」
シュテファンはもしかして、という顔をしている。知らないのは亜希だけだ。車は農村を抜けて広い国道を走る。道路標識を見れば、ブカレスト方面へ向かっているようだ。市街地が近づくに連れて車が多くなってきた。車は街の中心部へと入っていく。正面には亜希がブカレストにやってきて初日に見た凱旋門が見えた。その手前で曲がり、狭い駐車場に車を停めた。
「ここは何があるの?」
「農村博物館だよ」
入場料を支払い、門を出ればそこはまるでお伽話の世界にでもやってきたような景観が広がっていた。敷地内は緑豊かな公園になっており、古い木造の民家や教会が立ち並んでいる。
「ここは18~19世紀の民家や教会を移築した博物館です」
博物館というと、建物の中で展示品を見学するイメージだったが、ここは建物自体が見学対象の屋外博物館ということだった。いくつかの民家は中へ入ることができ、実際の農村の暮らしで使われていた古い道具が展示されている。手作りのカラフルな織物や刺繍細工が白い壁に温かい色合いを添えている。木でできた椅子や机、ベッド、織機など当時の部屋の様子を再現してあった。
広場では絵皿やつぼ、刺繍製品などの民芸品を販売するマーケットが開かれていた。その場で刺繍をするおばあさんもいる。
「面白い博物館ね、あの高い屋根は何?」
亜希はすっかり目的を忘れて楽しんでいる。天気が良く、木洩れ日の下を歩くと風が吹き抜けて気持ちが良い。
「あれは教会だよ、木の教会。ルーマニア北部のマラムレシュ地方に見られる特徴的な建築だよ」
高い尖塔を持つ教会はすべてが木で作られているという。うろこのような屋根はよく見れば木を組み合わせて作られており、釘も使っていないとシュテファンが教えてくれた。教会の中に入ればシャンデリアまでも木で作られていた。
「マラムレシュもモルドヴァ地方と同じくらい北にあって遠いから行くのが大変だけど、ここに来れば都会の中で本物の木の教会を見学できるんだよ」
民家や教会の他には水車や酒樽など、かつて人々の暮らしに使われていた大型の道具類が展示されている。
「あ、もしかして、スナゴヴの鐘がここに?」
亜希ははっと思いついて、エリックの方を振り返った。
「そう、幼い頃に父にここに連れてきてもらいました。これは秘密だよと言って、私に教えてくれたのです」
小屋の中に農具などの雑多な鉄製品の展示に交じって大きな鐘が置かれていた。説明文も特に書かれていないところを見ると、所属不明だがとりあえず置いてあるといった趣だった。古ぼけた鐘は表面の彫刻もぼんやりとかすれており、鉄をいう以外は価値もなさそうに見える。
「ここに地図が描いてあるのかな?」
目を凝らしてみても錆びて傷だらけの鐘の表面には何も見えない。
「もしかして、この内側に…」
亜希の言葉にシュテファンがこんなの持ち上げられないよと悲観的な声を上げる。
「今夜も月がよく見えそうだよね」
エリックはにっこり笑った。
「あ、そうか片目のレンズを使えばここに何か浮き出るかもしれない」
亜希とシュテファンは鐘を持ち上げなくて済むことに安堵した。
園内ですこし遅めのランチにする。茅葺き古民家のウッドデッキに用意された席に座れば新緑の木々に囲まれた教会が正面に見えた。スープはチョルバ・デ・ブルタという牛の胃をサワークリームを混ぜて煮込んだものにニンニクとビネガーを加えたもの。白っぽいクリーム状のスープで、臭みは無くさわやかな味だ。新鮮な野菜サラダにルーマニア風ロールキャベルのサルマーレ、ソーセージ盛り合わせが並ぶ。自家製ナスのペーストはパンにつけて食べるとマヨネーズの酸味が隠し味に効いており、美味しい。亜希はついついパンを余分に食べてしまった。
木漏れ日がゆらゆらときらめいて、その眩しさに思わず微睡みの中に誘われそうな気分だ。遠くからどこか懐かしいルーマニアの民謡が聞こえてくる。近くに湖があるらしく、涼しい風が吹き抜ける。
「そろそろ行こうか」
エリックが席を立つ。
「ブカレストの旧市街にドラキュラ公の史跡があるんですよ」
それはぜひ行かないと。亜希は目を開けて立ち上がった。農村博物館を後にして車で市街地を通り抜ける。噴水のある大通りの向こうに白い大きな建物が見えた。
「あれはチャウセスク元大統領の建てた国民の館です。歪んだ権威の象徴です」
エリックは革命に良い思い出がないようだった。
狭い駐車場に車を停め、石畳の通りを歩く。この一帯は旧市街で、首都の中でも古い街並みが残るエリアだという。アラベスクが綺麗な小さな古い教会や、伝統的なゴシック建築の街並みは風情があった。カフェが軒を連ねており、オープンテラスは若者で賑わっている。エリックは細い路地へ入っていく。柵の向こうに遺跡が見えた。
「ここはドラキュラ公のブカレストの宮殿跡地です」
赤いレンガで作られたアーチ状の入り口が見える。手前の狭い庭には折れた列柱がいくつも展示されていた。エリックは門の入り口でタバコを吸っている男性に話しかけている。
「本当は改装中で入れないと言っていますが、今日は作業をしていないので見学して良いそうです」
「良かった!ありがとう」
亜希はシュテファンと手を取って喜んだ。門が開き、特別に王宮跡に入れてもらえた。
庭にドラキュラ公の胸像が建っている。見開いた大きな目は虚空を見つめている。
「まさか、ブカレストにも宮殿跡が残っているとは、知らなかったわ」
そういえば、調べたガイドブックに小さな写真が載っていた気がする。観光スポットとしては地味なのか、大きく取り上げられてはいなかった。そのときは気にも留めていなかったのだ。
「地下に降りてみよう」
エリックとシュテファンについて地下への階段を降りていく。改装中といいながら大した作業をしていない雰囲気だった。
「この秋にはリニューアルオープンすると聞いていたけど、3年ほど前からその調子なんだよ」
エリックが警備員に話をつけた訳が分かった気がする。火事や崩落で痛みが激しいということは本当らしい。地下はひんやりと冷たい空気が流れていた。地上の明かりを取り入れる小さな窓があるので思ったほど暗くは無い。アーチ天井の通路にいくつかの部屋が左右に伸びている。この感じはトゥルゴヴィシュテの王宮跡にも似ていた。
宮殿地下は何本かの通路と空の小部屋があるだけで、何も無かった。埃っぽい乾いた空気が鼻腔をくすぐる。
「地上部分には豪華な宮殿が建っていたのかもしれないね。今はほとんど崩れて残っていないけど」
シュテファンの話に夢がある。地上の宮殿が残っていればブカレストの観光名所になったかもしれない。
「ブカレストの礎を築いたドラキュラ公の宮殿、きちんと保存してもらえたらいいけどなあ」
亜希はしみじみ呟いた。
旧王宮跡の隣にはブカレスト最古の教会、クルテア・ヴェケ教会があった。1559年に建てられたというので、ドラキュラ公より後の時代になる。赤いレンガと白い石を積み上げて作られた建物は縞模様に見えるユニークな外観を持つ。尖塔は一つ、さほど大きくはない。この教会は観光スポットになっており、写真撮影をする観光客もまばらに見かけた。教会の中には壁一面のフレスコ画が尖塔に穿たれた窓から漏れる太陽光に浮かび上がっている。正面には大きな十字架を掲げた豪華なイコノスタシスがあった。参拝客は厳かな祈りを捧げている。エリックとシュテファンも十字を切っていた。
教会を出ると、ずいぶんと日が傾いていた。夕暮れの街並みもまた美しい。日が落ちるまでカフェでコーヒーを飲むことにした。亜希はカプチーノ、エリックとシュテファンはアメリカンを注文する。
「日が暮れたら農村博物館へ行ってみよう」
「開館時間は何時?」
「夕方5時、閉まってからの訪問になるね」
エリックはさらりと言うが、勝手に入ってしまおうというわけだ。飄々と人がよさそうに見えて、これまでもそうだがずいぶんと度胸のある行動をする、不思議な男だった。
「最後の水晶が手に入ったら、次はどうするの?」
シュテファンの疑問は亜希も気になっているところだった。
「それを集めたあとのことが龍の紋章の本には書いていないんだよ」
「それが切り取られたページ・・・」
亜希の言葉にシュテファンも頷く。
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