【35】 スチャバ 故郷の家
カーテンの隙間から差し込む光に亜希は目を覚ました。窓辺に立てば、豊かな牧草地が広がり、馬が遊んでいるのが見えた。どこまでも高い青空には雲が流れていく。スマホの時計を見れば、朝8時半。昨日ベッドに入ったのはいつだったのだろう。まだ夜は明けていなかったとは思う。亜希は眠い目をこすりながら顔を洗い、出発できるよう支度を調えた。チェックインのときに朝食は食堂でと聞いていたので、階段を降りていく。
食堂にはシュテファンとエリックが座っていた。亜希は思わず駆け寄った。
「おはよう、エリック、大丈夫なの?」
こちらに顔を向けたエリックはやや疲れが見えるが、顔色は悪くない。ぎこちない笑みを浮かべている。それよりもシュテファンの方が落ち込んでどんよりしていたので、彼の方が心配になった。
「シュテファンはどうしたの?」
「ええ、昨日水晶を取られてしまったのがショックらしくて、ずっと自分を責めているんですよ」
シュテファンが亜希を見上げてばつの悪そうな顔をする。
「みんな無事だったからいいじゃない」
「でも・・・大事な水晶が」
「3つはこっちにあるでしょう。きっとこういうのは全部揃わないと何もできないのよ」
亜希はシュテファンを元気づける。
「アキ、ありがとう。奴らから取り返せるように考えるよ」
「そう、一緒に考えましょう」
朝食は簡単なビュッフェ形式だった。ペンションの主人が作った無農薬野菜のサラダや地元のハムなどが並ぶ。亜希はルーマニアの濃厚なヨーグルトがお気に入りだった。取れたてのベリーをたくさんいれてテーブルに戻ってきた。エリックもシュテファンも食欲はあるようで、パンをほおばっている。
「エリックは熱は下がった?」
「ええ、大丈夫です。一晩寝たら落ち着きました。それよりも、背中にこんな痣があったなんて・・・」
エリックも背中の龍の形の痣にショックを受けているようだった。シュテファンがスマホで撮影した背中を見たときに、温厚な彼が聞いたこともないような叫び声を上げたという。
「私も自分がこの先どうなるのか、わかりません」
安易に水晶の力を使えば、薬に副作用があるように、何か悪いことが起きることも考えておかないといけないのかもしれない。
「あのう、エリックは気付いているのかな。水晶の・・・いえ龍の力を使うとき、あなたの目は赤く光っているのよ」
食後のコーヒーを口に含んだエリックはそれを聞いて吹きそうになった。
「そ、そうなんですか・・・」
「まあ気付いてないか・・・自分の目じゃあ見えないものね」
シュテファンもそれには気がついていたらしく、亜希と顔を見合わせる。エリックは余計に落ち込んでいる。
「でも、トルコのお守りがエリックの力を防ぐなんて・・・なんだか皮肉ね」
「それなんですが、今私の目が赤く光ったと聞いて考えました。“龍”という言葉、ドラゴンの語源はギリシア語で“鋭い眼差しで睨む者”という意味なのだそうです。龍の力が目に宿っているのかは分かりませんが、目には目を、邪視を防ぐナザールボンジュを使うとはなかなか考えましたよね」
エリックは感心しているが、亜希は渋い顔をしている。ラドゥの方が狡猾で賢い。
「悩んでも仕方ありません、最後の地へ向かいましょう」
エリックは穏やかに微笑み、地図を広げた。
「またブカレストへ戻ります。次の行き先はブカレスト郊外のスナゴヴ修道院。ドラキュラ公の墓があるとされる場所です」
いよいよこの旅の最後の行き先だ。それが彼の墓とは、最後を飾るのにふさわしい場所だ。スチャバからブカレストまでまた飛行機で戻り、スナゴヴへ向かうという。飛行機の便は夕方で、ここからゆっくりドライブして帰っても時間はゆとりがあるということだった。
「じゃあ、シュテファンの家に行ってみましょうよ」
亜紀の突然の提案に、シュテファンが顔を上げる。
「え、いいよ。こんな状態で父や母に顔を合わせられないよ」
「せっかく家の近くまで来たんでしょう?両親もあなたに会いたいんじゃないの?」
「それは、久しく帰ってないからきっと喜ぶとは思うけど・・・」
エリックもシュテファンが実家へ立ち寄るのは賛成のようだった。亜希と一緒に説得して、実家訪問を旅程に加えることにした。彼の実家はスチャバ、空港のある街だ。プトナからまっすぐ戻れば1時間半ほどで到着できる。シュテファンは気恥ずかしいな、と言いながらもその気になった。
亜希は部屋に戻ってスーツケースを整理して、チェックアウトの時間までゆっくり過ごした。龍の紋章の本を開いてみる。フネドワラ城、ポエナリ城、トゥルゴヴィシュテ、そしてモルドヴァの修道院。残る一つは湖に浮かぶ島にあるスナゴヴ修道院だ。彼らとの旅もこれで終わりと思うと寂しくなった。しかし、ラドゥが最後まで邪魔をしてくるだろう。彼に本や水晶をすべて奪われてしまったら?龍の力が復活したら一体どうなるのだろう。考えると恐ろしい。この本や水晶を彼らに渡してはいけない。亜希は本を握りしめた。
体調が回復したエリックの運転で東へ向けて出発する。なだらかな緑の丘に、花のある木の家、果物畑・・・のどかな農村風景もこれで見納めとなるとまた寂しい気持ちになった。いつも何かとおしゃべりなシュテファンは窓の外を眺めながら静かに物思いにふけっている。
スチャバの街に到着したときは昼12時前だった。
「今日は土曜日か、多分家族は家にいると思う」
シュテファンの案内でポプラ並木の住宅街へ入っていく。白い柵のあるオレンジの屋根の2階建ての家の前に車を停めた。シュテファンはちょっと気恥ずかしそうだ。小ぶりの庭には花が咲き、よく手入れされているようだった。玄関の呼び鈴を鳴らすと、ふくよかな女性が扉を開けた。
「まあ!シュテファン」
「ただいま、たまたま近くに寄ったんだよ」
豊満な胸にシュテファンが抱きしめられている。
「あら、こちらはお友達?」
シュテファンの母は輝くような笑顔をエリックと亜希に向けた。
「なんで言わなかったの!?お昼はまだよね?さあ、入って!」
盛大な歓迎にエリックと亜希は恐縮して家の中へ入った。エリックも亜希もシュテファンの母の熱い抱擁を受け、リビングのテーブルに座った。
キッチンからは美味しそうな匂いが漂ってくる。木張りの床には絨毯が敷かれている。木のテーブルに、木の椅子、赤色をメインにした鮮やかな文様の刺繍の施されたクッションは手作りのようだ。白い壁には絵皿や刺繍のタペストリーなど民芸品が飾られている。素敵な家だな、と亜希は思った。書斎から父親が出てきた。
「おお、シュテファン!久しぶりだな、元気だったか?君たちもようこそ」
豊かな髭を生やした彼の父は物書きなのだという。地域の文化誌などに寄稿することもあるらしい。彼はすぐに妻の料理の手伝いを始めた。テーブルに絵皿とナイフ、フォークが並ぶ。亜希とエリックも手伝おうと立ち上がったらお客さんだからと無理矢理着席させられた。目の前にはかわいいガラスの器でチャイが出てきた。
鍋から湯気があがり、盛りだくさんの料理が並ぶ。ボルシチに、トマトとキュウリの野菜サラダ、モルドヴァ風肉じゃが、パンの中に野菜や肉を詰めたベリャシュ、牛肉のステーキと料理でテーブルが一杯になった。
「すごい、美味しそう!」
「ママの料理は美味しいよ」
シュテファンも久しぶりの家庭料理を前に嬉しそうだ。大勢で囲む食卓は賑やかで、シュテファンの両親も嬉しそうだった。
「アキは大学生かって聞いてる」
「そんな馬鹿な、32歳です」
そう言うと驚かれた。東洋人は若く見えるらしい。ついでにシュテファンも驚いていた。自分より少し年上と思っていた様子だ。日本からこんなところまでよく来てくれたとまた歓迎された。食後のデザートに手作りクレープとコーヒーが出てきた。もう充分お腹はいっぱいだが、美味しそうなので別腹だ。
シュテファンの母親が書斎から木箱を持ってやってきた。昨日、不思議な夢を見たという。
「赤い龍がこの箱に入って行く夢だったの」
彼女が箱を開けると、エリックと亜希、シュテファンは同時に声を上げた。そこにはピンク色の水晶が入っていた。
「こ、これどうしたの?ママ」
シュテファンが震える声で訊ねる。彼の父親が話し始めた。
「これは我が家に古くから伝えられてきたものだ。おそらく何百年も前から」
「どういういわれがあるのですか?」
「これはある修道院にあったもので、ヴラド公との盟約の証なのだと」
エリックと亜希、シュテファンは顔を見合わせた。
「我が祖先が修道院を建て直すときに、密かに持ち出したものらしい。ただの水晶にしか見えないが、これを守り抜くことが我が家の使命だと聞いていた」
「きっと、君の祖先が修道院の壁に隠された水晶を持ち出したんだ。それをずっと守ってきた。とても素晴らしいことだよ」
シュテファンは両親にこれまでの旅の出来事、龍の紋章の本や水晶を狙うラドゥの存在を話した。両親はそれを頷きながら真剣に聞いている。
「この水晶は君が持つべきもののようだ」
シュテファンの父はエリックに水晶を差し出した。エリックは3つの水晶と合わせて手のひらの乗せてみる。4つの水晶は深みを増してより赤く輝き始めた。
「君はヴラド公の血を引くものだろう、これは君に返そう。我々の絆は目に見えなくとも繋がっている」
「しかし・・・私が本当に血筋の者かどうかなんて分かりませんよ」
私にはわかる、と父親はエリックの手を握りしめた。シュテファンの両親に別れを告げ、空港へ向かう。
「まさか、シュテファンの家族が守っていたとは」
亜希はこの偶然がまだ信じられない。
「私も知らなかったんですよ」
シュテファンは奪われた水晶が偽物と知って元気が出たようだ。
「ラドゥに一泡吹かせたね」
エリックも愉快そうに笑っている。
「でも、アキが言ってくれなかったら私は家に立ち寄ろうと思わなかったよ。アキ、ありがとう。両親に会えて良かった」
「せっかく故郷に帰ったのに、会いにいかないなんて寂しいじゃない」
夕方17時台の便でブカレストへ飛んだ。到着は日が暮れてからになるので、空港の近くのホテルへ宿泊し、翌日スナゴヴ修道院を訪問することにした。
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