【32】 モルドヴァ地方 プトナ修道院
スチェヴィツァ修道院から南下すること30キロあまり、標高約1100メートルのチュルムナ峠を通り、モルドヴィツァ修道院に到着した。ここに来るまでにもずっと伝統的な農村風景が続き、見事な木の彫刻の門や庭に咲き乱れる美しい花を眺めながらの気持ちの良いドライブに1時間ほどの道程もあっという間だった。途中、荷物や人をを載せた馬車にも何度もすれ違った。
「モルドヴィツァ修道院はシュテファン大公の息子、ペトル・ラレシュ公が16世紀に建てたもので、彼が建てた修道院のうち一番美しいところです」
車を降りて、エリックの説明を聞きながら修道院の門へ向かう。モルドヴィツァ修道院も高い城壁に守られた作りで、要塞としての機能を兼ね備えていた。
「ここのテーマカラーは分かりますか?」
「えっと、難しいなあ・・・カラフルだからどの色が特徴なのか」
エリックの問いに亜希は外観を全体的に眺めてみたが、その答えが分からなかった。
「そうですね、赤、青、緑と鮮やかな色調を使っていますが、ベースの色は黄土色です」
やっぱり分かりにくい。そうといわれたらそうかもしれない。
立派な高い尖塔を持つ修道院で、ここでも“コンスタンティノープルの包囲”の壁画が大きく描かれていた。ペルシア人の顔はやはりトルコ人を模している。
「絵の中の民衆は当時のこの地方の民族衣装を着ています。当時のモルドヴァの敵、オスマントルコへ服従しないという意思が表れていますね」
こちらにも面白い絵がありますよ、とエリックが案内してくれた。
「これは“天国の関所”をモチーフにしています。死者が死の直後に審判を受け、悪魔に貢ぎ物を支払った後に天国に連れられて複数の関所を通る様子を描いています。古代ルーマニアには、死者の棺桶にコインを投げる風習がありました。聖書にはないこの場面は土着の神話を取り入れたものだと言われています」
「悪魔に賄賂を払って天国へ行くのか・・・日本の三途の川にも似ているわね」
地獄の沙汰も金次第、という言葉は世界共通なのかもしれない。
修道院の脇にある十字架の石碑の脇に、深い赤色のドレスに銀色の大きなストールを羽織った女性が立っていた。鮮やかな色彩に思わず目を留めた亜希はあっと小さく叫んだ。
「アキ、どうしたの?」
シュテファンも亜希が注視している方を見た。シュテファンは女を見て、エリックの上着の裾を引っ張った。
「彼女だよ、フネドワラ城にいた」
エリックも警戒している。あの時は助けてもらったが、敵か味方か分からない。女は大ぶりのレンズのサングラスを外し、こちらに向かって真っ赤な唇に妖艶な笑みを浮かべた。
「そろそろ自己紹介をしておこうかしら、私はエリザベス」
ゆっくりと聞きやすい英語で話しかけてきた。エリックに言わせるとハンガリーなまりというが、亜希にはそのニュアンスは分からない。
「私はエリック、ブカレストの大学で講師をしている。彼女はアキ、日本から来たお客さんだよ、そして彼はシュテファン、大学生だ」
亜希とシュテファンはエリックの背後に一歩下がって様子を伺う。
「ドラキュラ伝説を巡る旅ももう終盤にさしかかっているわね」
「何故それを知っているのですか」
エリックが険しい表情になる。
「彼女の持つ本に書かれている内容は私も知っているのよ」
エリザベスは笑う。涼やかな夕暮れ時の風に艶やかな髪がなびいた。亜希は思わず龍の紋章の本を入れたバッグを両手で押さえる。
「あなたたちは何を求めてこの旅をしているの?」
「それは・・・ラドゥやメフメトに龍の紋章の本や集めた水晶を奪われないため・・・」
シュテファンが反射的に答える。
「でも、それだけじゃないか」
「私のきっかけは修道院の絵だった、何か行動を起こしたいと思ってルーマニアへ旅することを決めたわ。そして、串刺し公という恐ろしい異名を取り、悪魔とも恐れられたドラキュラ公を知った。でも彼は国を守った英雄でもある。この旅で彼の生き様をもっと知りたいと思った」
亜希は自分の言葉を確かめるように答える。思わず日本語で話してしまったが、エリックが彼女に英語訳してくれた。シュテファンも頷いている。
「それに、エリックやシュテファンと旅をするのはとても楽しい」
亜希の言葉に2人は微笑んだ。
「そう、あなたたちはドラキュラ公の真実を辿る旅をしているというわけね」
エリザベスは穏やかに微笑む。そして顔を上げて真っ直ぐにこちらを見つめた。
「でも、彼らはそうじゃない。古の龍の力を復活させてそれを利用しようとしている」
「龍の力って一体・・・」
シュテファンが訊ねる。
「龍の力の片鱗を使っているエリックには分かっているんじゃないかしら?」
亜希とシュテファンはエリックの顔を見上げた。水晶の力のことだ。
「私にも分からない・・・制御はできていないと思う。だからこそ恐ろしい。ドラキュラ公がその力を恐れて封印した訳が分かる気がする」
「ラドゥとメフメトはあなたたちを狙っている。この龍の力を巡る戦い、最後まで見届けることが私の使命なの、また会いましょう」
そう言ってエリザベスは去って行った。
「彼女は一体何者なんだろう」
シュテファンがぽつりと呟いた。
スチェヴィツァ修道院を後にして、最後のプトナ修道院へ向かう。プトナ修道院は山の北側に位置するため、スチェヴィツァから北上し、大回りで向かうためここから70キロ程度、1時間半ほどのドライブとなる。
「営業時間内に一度見学しましょう」
エリックの言葉に亜希とシュテファンは顔を見合わせる。
「つまり、夜になってからもう一度忍び込むというわけ?」
「日中に水晶が見つかればいいのですが」
エリックの運転する車は緑眩しい峠を越えていく。
プトナ修道院に到着したのは午後4時だった。太陽はゆっくりと西へ傾き始め、少し肌寒い風が吹き始めていた。プトナ修道院はオブチナ・マレ山を背にプトナ川に囲まれて建っていた。ここにはシュテファン大公と家族の墓所がある。並木通りを歩いて正面の立派な門をくぐる。修道院は城壁に囲まれており、見張り塔も見える。観光客もこれまでの修道院より多い気がした。
「あれ、壁画がない」
修道院を見上げて亜希は思わず声を上げた。尖塔に大きな屋根を持つ立派な造りで、壁はレンガで組まれ、窓が開いている。壁画は描かれていなかった。
「プトナには外壁の絵はないですね。中へ入ってみましょう」
修道院の中はダウンライトの明かりに照らされており、内壁一面に鮮やかなフレスコ画が描かれていた。柱から天井まで及ぶその絵は新しく、近年修復されたもののようだ。最奥には金色のイコノスタシスがあり、頂点には十字架、その下にキリストと多数の聖人達が緻密な装飾の枠の中に描かれている。天井からつるされたシャンデリアの光に美しく輝いていた。
聖堂の脇に石棺が設置してあった。シュテファン大公の名が刻まれている。墓石には祈りの文字と植物の彫刻が施してあった。
「これが英雄シュテファン大公のお墓ね」
シュテファンは十字を切って祈りを捧げている。敬愛する祖先の墓に来るのは感慨深いものがあるのだろう。
「憂いの王の墓、はここで間違いないでしょう。しかし、天の光の中はどういう意味なのでしょうか」
エリックが壁画を見渡す。聖人が一面に、天井にはキリストや聖母が描かれている。天の光と言えばキリストの光輪なのだろうか。
「あの天井に水晶があるとして、どうやって登っていく?肩車じゃ遠すぎるよ」
シュテファンが天井を見上げて呟く。
「この修道院は新しく建て直されて、壁画も最近のものだね。どうも違う気がします」
修道院を出て、他の建物も見学してみるが、どれも新しい施設で古いものは残されていないようだった。気が付けば閉館時間となっており、大柄な女性係員に笑顔で追い出されてしまった。
「今晩はこの近くのホテルに宿泊しましょう」
プトナ修道院から7キロほど離れた村のペンションに宿を取った。周囲は山と牧草地に囲まれた自然豊かな場所にある。3階建ての建物で、小さなフロントでパスポートを出してチェックインした。部屋の床は黒木、壁は白のかわいらしい造りで、ベッドには可愛らしい模様の布団がかけてあった。素朴で狭い部屋だがこのくらいが落ち着けるので亜希にはありがたかった。
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