【31】 モルドヴァ地方 修道院群
フモール修道院は最初に訪問したヴォロネツ修道院と比べてずいぶん小ぶりな印象を受けた。見れば、尖塔がない。地元の住民は近くにある別の教会を利用しており、現在ここは尼僧院として使われているという。しかし、修道院の壁全面を彩る壁画はやはり圧巻だった。
「フモール修道院は赤を基調にしていますね」
描かれた絵画のモチーフは“最後の審判”や“エッサイの木”というが、全体的にかなり浸食が進んでおり、掠れてしまっていた。それでも残る色彩からフモールの赤色は特徴的なのが分かる。
「これには“コンスタンティノープルの包囲”という壁画です」
7世紀、キリスト教の要塞コンスタンティノープルがペルシア人に包囲された。当時の総主教セルゲイは住民を励まし、厳しい籠城戦を乗り越えた。セルゲは街が救われたのは聖母マリアのおかげと感謝し、24の詩を捧げた。この詩をモチーフにした壁画はモルドヴァ地方に点在しているという。
「おもしろいのは、包囲しているペルシア人がトルコ人に置き換えられていることです」
エリックが示した壁画は頭にターバンを巻いて婉曲した剣を持つ姿が描かれていた。
「古典の宗教画に当時の脅威だったトルコ人を当てはめたのね」
亜希にとってエリックの説明は新鮮で、目からウロコの連続だった。こうした演出は他の壁画にも見られるという。フモール修道院の近くには鐘楼があり、鐘楼へ続く石畳の両脇に広がる庭に赤い薔薇が咲き乱れていた。黒い装束の尼僧が薔薇の手入れをしており、亜希に向かって優しく微笑んだ。田舎の人達の笑顔は素朴で温かい。亜希も思わずにっこりと笑顔を返した。
「次のアルボレ修道院も規模は小さいですね」
続いてアルボレ修道院へ向かう。フモールから約25キロほど、50分弱で到着した。田舎の農道脇にひっそりと建っており、ここが5つの修道院のひとつとは思えないほど閑散としていた。壁画の浸食も一段と激しく、風が吹き付けるという北側の絵はほとんど剥げており、何が描いてあったのか見る影もなかった。観光客も1組の老夫婦が散策しているのみだ。
「ここはシュテファン大公の時代の貴族、ルカ・アルボレが建てた修道院です。壁画の中にその姿が描かれていますよ。ここの壁画は十字架信仰をモチーフに描かれています」
「このアルボレのテーマカラーは緑かな」
比較的浸食の少ない西側の壁に描かれたパネル状の宗教画の背景には、美しいエメラルドグリーンが使われている。
「そうですね。ここに限らず、壁画の修復には当時使われた顔料の分析が必要ですが、以前はそれが分からずに作業はずいぶん難航したそうです」
「今では分かったの?」
「動物由来のものや、酢や卵、蜂蜜など30種類以上もの成分が使われていることが分かったそうです」
「卵に蜂蜜。なんだか美味しそうな壁だよね」
シュテファンの言葉に亜希は思わず頷いた。
「昔の人の知恵ってすごいわね」
3つの修道院を巡り、いつの間にか時間は午後1時を差していた。次に行くスチェヴィツァ修道院への道の途中で見つけたレストランへ入った。土壁には蔦が絡まり、店内は木とレンガで作られた雰囲気のある店だった。お客さんはまばらで、ゆっくりと食事を楽しんでいる。
パラソルのあるオープンテラスの席に着いた。メニューは文字ばかりで亜希にはどんな料理か見当がつかない。
「モルドヴァ地方ではよく鯖を食べるんですよ」
鯖と聞いて、亜希は味噌煮や照り焼きを思い浮かべた。エリックによればトマトソースをかけてあるという。鯖にトマトソース、日本では思いつかない組み合わせだ。
「肉じゃがに似た料理もあります」
スープと鯖のトマト煮込み、肉じゃがを注文することにした。ルーマニア料理はヘルシーでとても美味しく、日本人の口にも合う。しかし、海外旅行も日数が経てば味噌や醤油が恋しくなる自分はやっぱり日本人だな、と亜希はしみじみ思った。
空はどこまでも青く、白い雲がぷかぷかと浮かんでいる。周辺は低い山に囲まれて、ふもとには牧草地が広がり緑が目に眩しい。時折道路を通り過ぎる車ものんびりと走っている。田舎はいい。亜希も今は神戸で働いているが、もとは地方出身で地元県北の田舎と似たような時間の流れを感じて懐かしい気持ちになった。
料理がテーブルに運ばれてきた。ひよこ豆やキャベツ、タマネギと野菜たっぷりのコンソメスープに鯖のトマト煮込みは鮮やかな赤色のトマトペーストが切り身にたっぷりと乗せてある。皿の半分は黄色いママリガが添えてあった。肉じゃがはほろほろのじゃがいもに豚肉、タマネギ、にんじんと具材は日本と変わらないようだが、オリーブオイルとニンニクで味付けされており、斬新な味だが美味しかった。
「あれ、アキはレモネードじゃないんだね」
シュテファンに言われて亜希はよく見ているね、と思わず笑ってしまう。いつもレモネードばかり飲んでいたが、今日は店頭で見たフレッシュオレンジジュースを選んだ。生搾りで中には果肉が浮いており、自然な渋みと甘みが爽やかで感激だった。
「モルドヴァ料理も美味しいね。シュテファンの家でも肉じゃがを食べる?」
「日本ではこれを肉じゃがっていうんだね。うちでも良く作るよ」
日本の肉じゃがとは味が全然違うと教えると、日本に行くことがあれば肉じゃがを食べたいとシュテファンは無邪気に笑う。
「風味が違うから違いに驚くかもしれないね」
エリックは東京で生活していた歴があるので、日本の肉じゃがの味を知っていた。
「私は味噌汁が好きでしたよ。こちらではなかなか食べる機会はありませんけどね」
エリックの日本食の感想でしばらく話が弾んだ。
レストランから15分もしないうちにスチェヴィツァ修道院に到着した。ここは5つの修道院の中でも一番規模が大きい。山に囲まれた盆地の村に周囲を城壁に守られた広い敷地内にあった。壁により壁画が保護されたこともあり、保存状態も良いそうだ。
「スチェヴィツァ修道院は要塞を兼ねたつくりになっています。あそこには見張り塔もありますね」
修道院には高い尖塔が建っており、話に聞いたとおりで保存状態の良い壁画が見て取れた。青々とした芝生はきれいに手入れされており、あちこちに咲いているほのかな薔薇の香りが漂ってくる。
「こちらは薄緑をベースに、赤紫と青を中心した壁画です。中でも特徴的なのが金色を多用していることです。こちらに行ってみましょう」
エリックに導かれ、回り込んだ壁面には壮大な一枚絵が描かれていた。天国のはしごと題されたその絵には天に向かうはしごがかけられ、民が登っていく。それを赤い服の天使が導いている。天使の頭には金色の輪。はしごから脱落した罪人の行き先は地獄で、地下には悪魔が待ち構えていた。
「これは圧巻ね」
亜希は思わずため息をついた。天使の数が壁画の半分を占めており、金色のアクセントが効果的に使われている。
「ここでも地獄に落ちる人間をトルコ人として描いているんだよ」
それほど当時のこの地に人々にとってオスマントルコは脅威だったのだ。こうして絵画に描くことで民衆を奮起させたのだろう。
修道院の脇で売っていた蝋燭をエリックが買ってくれた。火を灯して立て、祈りを捧げた。亜希はクリスチャンではないが、その炎に旅の無事を祈った。シュテファンとエリックもそれぞれに火を灯し、十字を切って祈りを捧げている。
「見張り台に上がってみましょう」
石造りの外壁には木の階段がついており、見張り台へ上ることができた。城壁の周囲は見渡す限りの牧草地で、積み上げられた牧草と羊や牛の姿が見えた。
「ドラキュラ公やシュテファン大公が生きた中世も、こんな風景だったのかな」
「ここにいると時間が止ったような感覚になりますね。彼らが見た景色そのままなのかもしれませんね」
草原を吹く風が亜希の髪を揺らした。彼らが駆け抜けた美しい大地の風を感じて、心が熱くなった。
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