【28】 モルドヴァ地方 スチャバ

「龍の紋章の本、水晶、そして夢の啓示を受ける女・・・」

 ラドゥはバスローブのままソファにもたれながら呟く。先ほどシャワーを浴びたばかりの髪から雫が落ちた。グラスの中で揺れる琥珀色の液体を飲み干す。ホテルのスイートルームで白装束の男たちの報告を聞いた。またも龍の力の謎を解く水晶を奪われた。スーツに身を包んだメフメトは腕組みをして全面ガラス張りの窓から月を見上げている。


「我々はまだ何も手に入れていないぞ、ラドゥ」

メフメトはソファに足を組んで横たわるラドゥに問いかける。それはどこか挑発するような響きを帯びていた。ラドゥは濡れた唇を歪めて微笑む。

「本当に手に入れたいなら、いくらでも手荒な真似をしている」

「奴らを泳がせて、謎解きをさせるのか」

「そうだよ、埃と泥にまみれた廃墟を這いずり回るのはご免だからね」


 メフメトはソファの肘掛けに腰掛け、ラドゥの耳元で囁く。

「お前は悪知恵が働く」

 そして、ラドゥの艶やかな金色の髪に口づけた。

「だが、あの水晶の力は侮れない。あなたの部下の話によればエリックだけが力を使えるそうじゃないか」

「連れの若造が手にしても何も起きなかったようだ・・・あの水晶の力は一体何なんだ?」

「分からない、ただ周囲の人間に作用する。しかも敵対している相手に。フネドワラではエリックに対面した部下たちは頭が割れるように痛み、意識が朦朧としたという証言だったが、本当にそれだけなのだろうか」

 ラドゥは頬杖をつきながら考えている。憂いの表情もまた美しい。メフメトは思わず目を細めた。

「そう、ポエナリ城では亡霊を操った。奴らは500年も前からあの場所にまとわりつき、もはや意識レベルが低い。だからエリックが無意識に命じたことを実行したのかもしれない。敵を追い払えと」

「トゥルゴヴィシュテの公園では聖杯を持って逃げだそうとした者に静止を命じた」

「ふん・・・水晶が集まるにつれ、力が増しているのか。このままにしておくのはまずいかも知れないな」

 ラドゥはメフメトを見上げ、薄い笑みを浮かべた。


 朝のカフェで亜希はエリックとシュテファンと朝食を囲んでいた。焼きたてのクロワッサンにカプチーノ、店内のラジオからは古いアメリカンポップが流れてくる。ホテル近くのオープンカフェで迎える優雅な朝だった。

「気持ちの良い朝に何だけど・・・」

 亜希は昨夜見た夢の話をした。トルコ軍と戦う勇猛なドラキュラ公の姿、祖国を守るために立ち上がった兵士、強者スルタン・メフメト。そして丘にならぶ串刺しの森。

「トルコ軍を恐怖に陥れた夜襲ですね」

 エリックが興味深く亜希の話を聞いている。目の下にうっすらとクマができている。昨日の疲労が祟っているのだろう。

「ドラキュラ公は偉大な祖父ミルチャ老公の例に倣い、徹底してトルコ軍と戦いました。串刺しの森を目にし、恐れ絶望したメフメトの言葉を残して、トルコ軍が引き上げた話は有名です。ただ、トルコの陣営にペストが流行りはじめたという話もありますけどね」

 首都を目の前にしたトルコ軍が引き上げたのは疫病という理由もひとつあったのだ。

「このトゥルゴヴィシュテの近郊での戦いだったのね。首都までトルコ軍に迫られ、ワラキアの軍は龍の旗印の下に不退転の覚悟で戦っていた。ドラキュラ公の勇ましい姿はまさに鬼のようだった」

 亜希は大地に流れる血の匂いや燃えさかる炎の熱が感じられそうなほど鮮明な夢を思い出す。夢は謎を解く鍵だけではない、ドラキュラ公が語りかけている気がした。


「エリック、水晶はどうなってる?」

 シュテファンに言われて、エリックは黒いサテンの巾着から水晶を取り出した。手のひらに3つの水晶を転がしてみせる。

「やっぱり、色が変わっているよ」

「ほんと、3つとも赤色が濃くなったような感じね」

 シュテファンと亜希がエリックの手のひらを覗き込み、顔を見合わせた。エリックは水晶を巾着に入れて紐を引き絞る。

「龍の紋章の本によれば、あと2カ所、ドラキュラ公ゆかりの地を巡ることになる。水晶は全部で5つ、それを手に入れたら・・・」

 エリックの顔を亜希とシュテファンは固唾を呑んで見つめた。

「何が起きるんだろうね、私にもわからない」

 エリックは困ったように笑った。


「ここトゥルゴヴィシュテはもうブカレストに近いのね」

 地図を見ながら亜希はここまでの道のりを辿る。ブカレストを出発してシナイア、ブラショフ、ドラキュラ公の生家のあるシギショアラと北上し、そこから西へ要塞教会群のあるビエルタン、シビウの街からフネドワラ城へ。シビウから南東へ下り、クルテア・デ・アルジェシュとポエナリ城、ワラキアの首都トゥルゴヴィシュテへやって来た。

「そう、ぐるりと一周して来ましたね。ここからブカレストまで80キロあまり、1時間半ほどで到着できます」

 エリックが地図を指で辿りながら教えてくれる。

「ブカレストへ帰るの?」

「そうです。モルドヴァ地方の修道院へはブカレストから飛行機で向かいましょう」

「ああ、なるほど!」

 亜希は行程がルーマニア北部の修道院からどんどん離れていることを内心心配していた。ブカレストへ戻るのはそういうことだったのかと合点がいった。


 ホテルをチェックアウトし、トゥルゴヴィシュテを出発する。エリックが手に入れた金の杯は地元の文化施設に預かってもらった。施設長はすこぶる状態の良い中世の遺物に驚き、感謝の意を表した。ドラキュラ公の物語を伝えるために公的な場所に展示したいと意気込みを見せた。エリックも彼なら安心だと言う。もし仮にネコババしようものなら、ドラキュラ公の罰が下るだろう。

「エリック、体調は大丈夫?」

 ブカレストまでの道中もエリックがハンドルを握っている。亜希は後部座席からエリックに声をかけた。

「ええ、昨日の気疲れもあってよく眠れました」

「あの水晶の力が強くなっている気がして」

「エリックはどうやって水晶の力を使ってるの?」

 シュテファンが不思議そうに尋ねる。夜のキンディアパークで白装束の男たちに囲まれたとき、水晶の力を使おうと試したが何も起きなかった。

「水晶を握りしめて奴らに離れろ!と強く念じたんだけど効果なし」

 シュテファンはおどけて肩をすくめた。

「私にもわからない、あの時はアキの話を聞いて、金の杯を持ち出した者には罰が下されるのではないかと思って、咄嗟に叫んだんだ」

「必死さが違ったのかな」

 シュテファンは首をかしげている。亜希はエリックの赤い瞳を思い出した。水晶の力は選ばれた人間にしか扱えないように思えた。エリック自身は気がついているのだろうか。


 ブカレストへ戻ってきた。市街地へは入らず郊外のレストランで食事を済ませヘンリ・コリアンダ空港へ向かう。ここからモルドヴァ地方のスチャバという街へ国内線飛行機で移動する。直線で約360キロ、車で行けば一日仕事だが、飛行機なら1時間強で到着できる。

 スチャバ空港は地方の空港で、ずいぶんとこじんまりしていた。スチャバはハンガリー語で毛皮商人の町を意味する言葉に由来するとされている。14世紀から16世紀の半ばにかけてモルダヴィア公国の首都であった。地図で見ればルーマニアの北端で、ウクライナの国境が近い。

「今日のホテルはスチャバのペンションを予約しました。明日から修道院を巡りましょう」

 いよいよ、ルーマニアに旅するきっかけとなった修道院を訪問できる。亜希は楽しみに胸を躍らせた。シュテファンも久々に帰る故郷が懐かしいようだ。どこまでも続くのどかな牧草地をレンタカーで走る。なだらかな丘の向こうに夕陽が沈みかけていた。

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