エピソード 1ー3 アイスフィールドの氷解

「わたくしがザカリー王太子殿下をこっぴどく振った、ですか?」


 父親からの予想外すぎる詰問に、アイリスはらしくもなく聞き返してしまう。

 事実はザカリー王太子殿下がアイリスに婚約破棄を申しつけた、だ。アイリスが手ひどく振られたと中傷されるのならともかく、手ひどく振ったとはどういうことか。


「そのような根も葉もない噂を信じるなんてお父様らしくありませんわ」

「……ふむ。ではそのような事実はない、と?」

「ザカリー王太子殿下との婚約は破棄されました。ですがそれは、ザカリー王太子殿下から申し渡されたこと。決して、わたくしが貴族としての責務から逃げた訳ではありません」


 婚約を破棄されるという不名誉よりも、責務から逃げたと思われることを嫌う。

 これがアイリスの価値観である。

 もっとも、今回に限っていえば、公爵が追及するべきなのはそこではない。


「ザカリー王太子殿下に婚約を破棄されたと申したか?」

「はい。しかとこの耳で本人の口から伺いました。正式な通知は後ほどでしょうが、これは決定事項だとお考えください」

「つまり、振られた当てつけに別の男とダンスを踊ったと言うことか?」

「……はい?」


 なんてことはない。

 アイリスに別れを告げたザカリー王太子殿下は、アイリスとの婚約を破棄したと周囲に吹聴した。だが、王太子殿下が賢姫との婚約を破棄するなど前代未聞の暴挙だ。

 これは一体どういうことか――と、皆が頭を抱えたそうだ。


 そこに現れたアイリスが、隣国の王子とダンスを踊り始めた。しかも笑わない賢姫と揶揄されている彼女が、明らかに楽しそうに笑っていた。

 誰がどう見てもお似合いの二人で、アイリスが王太子殿下に振られたようには見えない。


 ――結果、その場にいた者達は次のように理解した。

 そうか、賢姫との婚約を破棄したというのはザカリー王太子殿下の強がりで、実際に振られたのはザカリー王太子殿下の方なのだな――と。


「わたくしが賢姫としての責務を放棄したと思われるのは心外です。後でザカリー王太子殿下に抗議してもよろしいでしょうか?」

「傷口に塩を塗るのは止めておきなさい」


 辟易した顔で忠告され、アイリスはコテリと首を傾げる。


「傷口に塩を塗られる程度、彼の自業自得ではないですか。それよりも、噂を放っておけばわたくしだけでなく、アイスフィールド公爵家の不義理になるのではありませんか?」

「振ったのは自分だと、ザカリー王太子殿下がしきりに騒ぎ立てているそうなので問題あるまい。あまりに騒ぐので、自室での謹慎処分を申し渡されたという話しだぞ」


 アイリスは言外に含まれる意味を正確に読み取った。

 国の象徴である賢姫を手放すのはあまりにも愚かで、王族が賢姫を手放したなどという噂が広まれば陛下の政権を揺るがしかねない。


 ゆえに、陛下はいまある噂を利用することにした。王太子殿下個人が振られたという噂を前面に押し出して、国家としてのダメージを軽減しようとしているのだ。

 アイスフィールド公爵家はそれに話を合わせることで陛下に恩を売る、という算段だ。


「わたくしには、傷口に塩を塗るのは止めろとおっしゃったばかりですのに。お父様は傷口をえぐるような真似をなさるのですね」

「陛下に手を差し伸べて恩を売るだけだ。とどめを刺しにいくおまえと一緒にするな」

「そうでしょうか?」


 振ったのは自分で、振られた訳ではないと王太子殿下が騒げば騒ぐほど「王太子殿下はこのように傷付いておられるので、そっとしておいてください」と周囲が誤解させるのだ。

 国家としてのダメージは緩和されても、王太子殿下のプライドはズタズタだろう。それに、矢面に立たされた王太子殿下は切り捨てられたも同然だ。


(でも、わたくしにとって悪い話じゃありませんね)


「そなたが責務を放棄したと周囲に思われることには申し訳なく思うが――」


 アイスフィールド公爵は口を閉ざした。アイリスが不満を滲ませるどころか、珍しく機嫌が良さそうな素振りを見せていることに気付いたからだ。


「……なにを企んでいる?」

「いえ、わたくしが振ったにしろ、振られたにしろ、当事者であるわたくしがこの国に居続けるのは、王族にとって都合が悪いのではないか、と思っただけです」

「……つまり、そなたはアルヴィン王子のもとに嫁ぐのか?」

「はい? アルヴィン王子といいお父様といい、なぜそのような勘違いをするのでしょう?」

「アルヴィン王子が勘違いをした、だと……?」


 公爵の言葉は、アイリスの踊った相手を知っていたがゆえの軽口だった。

 ゆえに予想外の返答が返ってきたことに公爵は困惑したのだが、アイリスにとってはどうでも良いことである。きっぱりハッキリ「それはあり得ません」と否定する。

 前世の自分を追い落とした裏切り者に嫁ぐなど業腹なのだ。


「わたくしが望むのは、フィオナ王女の教育係です」

「……いや、それは無理であろう?」


 反射的に否定したアイスフィールド公爵だが、本当に無理だろうかと考えた。

 たしかに、賢姫が他国に姫の教育係になるなど聞いたこともない。だが、王太子殿下が賢姫との婚約を破棄することだって、公爵はいままでは聞いたことがなかった。


 それに、賢姫というのは魔精霊の加護を受けた女性の魔術師に与えられるこの国の称号で、類い希なる力を持つ賢姫には一定の裁量が許される。

 アイリスの場合、王太子殿下に嫁ぐ以外は自分の意思で行動することが許されていた。ゆえに、相手の都合で婚約を破棄されたいま、彼女を縛る鎖は存在しない。


 賢姫としての責務という鎖から解き放たれたアイリスがなにをするかは彼女の自由だ。残された問題は、レムリア国が受け入れるのかという問題だが……


「まさか……?」

「はい。アルヴィン王子には快諾していただきました」


 アイスフィールド公爵の口から乾いた笑いが零れた。


「ずいぶんと動きの速いことだ。以前からそうするつもりだったのか?」

「いえ、そういうわけではありません」

「だが、ザカリー王太子殿下が愛人を作っていたことは掴んでおったのだろう?」

「掴んではいましたけどね」


 賢姫の責務として婚約を受け入れたが、ザカリー王太子殿下に対して恋愛感情はない。ゆえに、ザカリー王太子殿下が愛人を作ることをアイリスが嘆く理由もない。


 だが、王太子殿下の愛人であるヘレナは男爵令嬢で、第一王妃になるには身分が足りない。

 ゆえに、アイリスは自分が第一王妃として責務を果たし、第二王妃辺りに据えたヘレナにザカリー王太子殿下の心と体を満たしてもらおうと考えていた。

 それがまさか婚約破棄になるとは、さすがのアイリスも期待(・・)していなかった。


「賢姫であるそなたの判断だというのなら、陛下にも引き止めることは出来ぬであろう。わしも、あのぼんくら王太子に嫁がせるよりは気が楽だ」

「……お父様、いくらなんでも口が過ぎますよ?」


 親子の会話とはいえ、言って良いことと悪いことがある。

 たとえ心の中で思っていようとも、たとえそう言っているも同然の言葉を吐こうとも、言質を取られるような言葉を口にしないのが貴族である。

 だが、よほど腹に据えかねているのか、彼は「事実だ」と続けた。


「そなたを手放すなど愚か者のすることだ。……もっとも、今回はそれがそなたにとって望む結果だったようなので、婚約破棄を取り消させるつもりもないが、な」

「では、わたくしが隣国に渡ることを、お父様はお許しくださるのですか?」

「許すもなにも、いまのそなたを止める権限をわしは持ち合わせておらん。それに二度と戻らぬつもりではないのだろう?」

「もちろんです。それと……権限はなくとも影響力はございますよ」


 目を細めて微笑む。

 初めて見る娘の柔らかな微笑みに、アイスフィールド公爵はしばし目を奪われた。


「わしに影響力があるとは……どういうことだ?」

「だって貴方は、わたくしの尊敬するお父様ですもの。わたくしを心から愛し、大切に育ててくれたお父様の言葉なら、わたくしは無下にいたしません」

「王太子との婚約を強要したわしを、そなたは嫌っているものと思っていたが……」

「まぁ、そのようなことはありません。たしかに利害の相反で対立することもございましたが、わたくしにとっては尊敬するお父様ですもの。嫌うことなどございませんわ」

「そ、そうか……っ」


 アイリスには自覚がないが、いままでの彼女はこんな風に愛情を表に出さなかった。この辺り、確実に無邪気なフィオナとしての記憶が影響を及ぼしている。

 フィオナは幼くして両親を失っているために、父に対する愛情は特に大きくなっている。

 また、笑わない賢姫が柔らかに微笑むものだから、その破壊力も凄まじい。


「困ったことがあれば言いなさい。アイスフィールド公爵家の当主としてではなく、そなたの父として、いつでもおまえの力になると約束しよう」


 アイリスは目を見張った。

 公爵の言葉はつまり、公爵家の責務よりも娘への愛情を優先するという宣言に他ならない。感極まったアイリスは、公爵の胸へと飛び込んだ。


「お父様、ありがとうっ」

「う、うむ。陛下の説得も任せておくが良い。だから、気を付けて行ってくるのだぞ」


 愛娘のストレートな愛情表現に、アイスフィールド公爵家の当主は陥落した。こうして、公爵の協力を得た賢姫の出国許可は驚くほどあっさりと下りた。

 向かうはレムリア。前世の自分が暮らす国である。

 

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