第24話 龍神の想い出 1 偶然

大空を高く飛ぶ。今日は雲が少ない…青空が広がっている。

風が強いためか、それとも鱗が一つ取れかけているせいか、いつもよりスピードが乗らない。

銀色の大きな身体を風に乗せながら、考える。遥か下方には、恐らく人間が住んでいるだろう縦穴式住居がいくつも見えるが、向こうからは此方は見えていない。

人間の目には映らない存在…。

見えないが、常に近くにある存在…。


◇◇◇


本来ならば、人里近くにまで遠出をする必要はない。耳を澄ませば人間や動物がやっていることなど分かるからだ。筑波山の周囲でゆっくり旋回しながら、緑多い山から沸き上がる自然の力を確認するだけで、私は満足できるはずだった。


動物の生き死になどは、日々当たり前に起きていることだ。風が強い、雨が降った、日照りが続いた、食い物がない…。成れの果てには同族で争う、種族保存のための諍いなどはどこにでもあるから、気にすることではない。生き物は、目の前にあることに熱心で、その日々の中で暮らし、自らの命を次に伝えるためだけに生きている。

私はそれを見るだけのモノ。干渉してはならない。できるだけ、近づかないよう、知られないよう過ごし、どうしてもってときにほんの少し手助けをするだけだ。


自然の力は時に脅威である。洪水も干ばつも、誰のせいでもなく起きる。動物たちは、自然の中ではこれに適応しようとして、もがき苦しむ。大雨や落雷、雹にあえば、通り過ぎるまでただじっと待つしかない。火事や洪水の濁流などに直面すれば、ただその身が消えていくのを受け入れるしかないのだ。


人間は、特に弱い生き物だから、自然に逆らって生きることが難しい。飢えや渇きに弱く、病や怪我に負ける。少しの知恵を持って、火をおこし、住む場所を作り、他の動物や植物をエサにして生きている。いつの間にか集団で過ごすようになり、力のないモノたちが『言葉』を作り出し、それを『意志』にまで高めてしまった。

そう、何かの気まぐれで『意志』を持ってしまったが故に弱いのだ。

本能のままに生きる他の動物と違って、より護るべき存在でもある。


人間の『意志』は時に力強く、私を動かすことがある。集団での祈りは、何故が叶えなくてはならないという衝動を私に与える。これまでの集団の『意志』は簡単なものが多かった。

「雨を降らせ!」や「太陽を取り戻せ!」など…。

私にとって他愛もないことであったが、この世界は簡単に変えることはできない。

変えることが、次の変化をもたらすからだ。


また、死んだ後の『意志』も強く残ることがある。

「恨めしい!」や「呪ってやる!」など…。


私は、これら人間や動物の祈りを成就させ、怒りや怨念を吸収して浄化させることで生き永らえている。

いつからか…。いつまでか…。


◇◇◇


その日は100年に一度ある、鱗が生え変わる日であった。しかし、緑が深い山々の上を早いスピードで通り過ぎ、何度となく強い風に身をくねらせても、鱗が取れる様子が無かった。

もう少し風に乗れば、取れるだろう…。気が付くと縦穴式住居がある集落近くまで飛んできてしまっていた。



やっと…。外れかけた鱗が動いた…。

チリン…。微かな音と共に鱗が外れた。やれやれ、今回は手間がかかった。

 

私は自分の鱗がどこに落ちていくのか、見届ける必要があることを知っていた。時に落とした鱗たちは、儚く消えていくだけに見えたのに、のちに見ると大木となっていたり、小さな沼を清流に変えたり…、生命の源となるべく形を変え、この世界に影響を与えていた。そして、それは今もきっと残っている。あまり良いことではないだろう。いつものように自分に取り込んでしまった方がいい。私は自分の鱗を追った…。



風が舞い、銀色の小さな破片が飛ばされ、ひらひらと落ちていく…。

風に引っ張られ、ゆらゆらと揺れながら、みすぼらしい縦穴式住居のそばへと…。

そこには、もう間もなく命が消えようとする赤子を抱く、粗末な布をまとった痩せぎすの女が座っていた。

恐らく夜通し子どもを抱いてあやしていたのだろう、ぐったりと疲れ果てていた母親の顔は、泣きはらしたのか目が腫れていた。


煌めく破片に気づくことはない。

…。 風が舞った…。銀色の破片は、最期の息を吸い込む赤子の口に…。


「ふぎゃー、ふぎゃー…。」


突然大きな声で泣きだした赤子に母親が驚きと喜びの声を上げた。

「あんたー。この子、ちょうこが…。ちょうこが泣いているよ。」


いそいそと着物の肩を下げ、乳を服ませた。

「吸ってくれた。元気にお乳を吸ってくれたよ…。」

泣き笑い顔で話す母親の声は、喜びで溢れていた。奥から慌てて飛び出してきたのだろう赤子の父親と抱き合って、そして二人は天に向かって合掌した。


「あぁー。神様はこの子を見捨てなった。ありがとうございます…。」


◇◇◇


遥か上空からこの光景を見ていた銀色の大きな身体は、事の顛末を見届けるとくるりと踵を返して、筑波山の深い森へと戻っていった。


『あのとき、鱗を取り返していたら、あの赤子の命は消えてしまっていただろう。

しかし、消えるはずの命を伸ばすことが、この世界に何をもたらすのか…。

いや。いっそ、赤子をそののまま飲み込んでしまってもよかったのではないだろうか。

飲み込んでしまえば、何もなかったことになるだけだ。

たかが一つの命の行方など、取るに足らない…。

では何故、私はそうしなかったのだろう…。』


筑波山の森の木々は応えない。

生きていこうとする強い意志だけを空に向かって放っている。


『そうか…。この森と同じだな。

あの赤子は生きたいと願ったのだな…。強く願ったのだな…。

では、止めることは出来ない。

私は、ただ在るだけなのだから…。


そう、気にすることでもない。何も変わらない…。恐らく…。』


◇◇◇



大きな声で泣く赤子の名は『ちょうこ』

小さな手を空に向けて伸ばして笑っている。

自分の意志で手を動かせる喜びを、手を口元に持っていって含むことの楽しみを味わっている。

そう、全身で生きていきたいと願っている。



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