第37話

 いきなり、瑠衣は目が覚めた。












 ここが、現実。




















 見覚えのない、広い部屋。

 薄暗く、少し冷えている。







 目の前に、狂気が潜む笑顔を静かにたたえる男。


 黒い椅子の背もたれに腕を載せて、瑠衣を見つめながら座っている。





















「やっと起きた」




















 男は、笑う。


 自然な笑顔で。



















 白いリネンシャツに、黒い革紐のネックレス。

 グレーのジーンズを履いた長い脚が、後ろ向きの椅子からはみ出している。













 その魅力あふれる姿は、映画に出てくる主人公の相手役にも見えてくる。




















 瑠衣は動こうとしたが、体が何か固いものにガムテープで巻かれており、

 全く身動きが取れない。





 どうやら、この部屋のベッドのパイプ部分のようだ。
















「拓也」





















 目の前の男は、自分が座っている椅子ごと瑠衣の方へ、

 さらに近づいた。















「やっと、喋ったな、オマエ」


















 拓也は瑠衣に顔を近づけ、優しそうな雰囲気すら漂わせ、



「オマエと話したくなったんだ」



 と言った。























 本当は、こんな男と決して話などしたくない。



「多忙な芸能人が、一般の女を拉致する暇なんてあるの」

















 話をしたところで、得るものが何も、無いからだ。



「この間、九州で会った時ドラマ撮ってたろ。あの仕事はあれで出番終わりだから、しばらくオフ」















 ただ、トオヤと理衣が助けに来てくれるまでは、たくさんの時間がかかるかも知れない。





「だから、オマエの相手してやる時間は今たくさん、あるわけよ」















 助けに来てくれるまで、

 何としても時間を稼がなくてはならない。




「…」
















 どうすればいい。





「怖いだろ、俺が」

















 この男は、人が怯える表情が大好きだ。




 恐怖や苦痛に歪む表情。









 悲しみのあまり、心が壊されそうになる、本物の表情。














 瑠衣は頷いた。


「怖いよ、これ、ほどいてよ…」




















 普通の人間が狂気に侵されるその瞬間を、この男は見たいのだ。






「嫌だ」















 だけど、自分にはそれほどの演技力は無い。
















 表情では怖がりつつ、

 徹底的に話を引き延ばすしかない。















「オマエさ、小さい頃俺の事、好きだったろ」







 瑠衣は、頷いた。



 それは嘘ではない。












 もし。









 あの住所が、ここじゃ無かったら。



























「いっつも俺と一緒にいたよな。俺の仕事にも興味持ってさ」























「うん。拓也の仕事の話を聞くのは、楽しかった」


 それも、本当だった。

 普通の話をしている時の拓也は、子供とはいえ本当に、魅力的だったのだ。















「もっと色々な事を教えてやろうとしたのに、オマエ逃げやがった」




 あの時の事を、言っているのだろうか。








「怖かったから」





 恐怖しかない。












「怖くないよ、気持ちいいことをやってやろうとしただけじゃん」












 瑠衣は徐々に、この状況が心底気持ち悪くなってきた。





「兄と、兄の友達に無理やり体を押さえつけさせて?」











 拓也は、可笑しそうに笑った。





「その方がスリルあって楽しいだろ?」













 …バカもここまで来ると、吐き気しかしない。






















 拓也の顔がすぐ近くにある。


 息がかかりそうな距離。















 この状況を、

 決してまともに受け止めてはいけない。















 ゲームだとでも、思うしかない。




















 生きるか、死ぬか。

































 トオヤとぬいぐるみ姿の自分が話したあの出来事が、もし、ただの夢だったとして、
















「私が何より悲しかったのは、あの日」














 自分がもう、

 助からないのだとしても。
















 この男に対する自分の気持ちと、正面から向き合う時だと、覚悟しなければ。












「友達だと思って、あなたを信じて遊びに行った。それなのに、こちらの気持ちなど考えもせず、兄たちと一緒にあなたは、私と、私の妹を、簡単に傷つけようとした」














 拓也はそのまま、黙って話を聞いている。













「あなたを見る目が無かった自分が、本当に悲しかった。…優しそうなあなたの演技に騙された事が、本当に悔しかった」




















「…ふうん」
















 拓也は笑った。



「面白い事言うね、瑠衣」















 拓也は、瑠衣の頬を、ゆっくりと舐めた。





「やっぱり俺、オマエ好きだよ」





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