第4話 羽生結弦の足元

 妊娠出産で仕事を辞め、赤ちゃんだった娘を育てている間に、私は自分が何を好きでどんな人間だったのかが、ガチで分からなくなった。

 ただこの目の前の儚くて無力な生き物を死なせないために存在しているシステム。

 そういうものに自分が成ってしまったと本気で思った。

 けど、あの頃はそれでよかったのだ。

 授乳、抱っこ、移動。

 とにかく身体がしんどくて、システムのまま潔く電源を落とし、一秒でも長く眠りたかったから。


 娘が一歳半になり、手が離れてきたと感じた途端、私は愕然とした。

 自分が空っぽであることに。

 産前に好きだった漫画は、もう何巻も進んでいて追いつけず、ドラマは何クールも入れ替わり、世の中の話題からは置いてけぼり。

 十年以上仕事にしていたはずの英語は、全く聞き取れなくなっていた。

 TOEICを受けたら、200点も下がっていた。200点。


 現実を受け入れられないまま呆然とテレビを付けたら、24時間テレビをやっていた。

 チャリティーアイスショーのコーナーで、ちょうど羽生結弦が演技を終えたところだった。

 私はため息をついた。

 ……前なら、絶対に見逃さなかったのにな。

 昔はフィギュアスケートが好きで、よくテレビで見ていたから。


 羽生結弦は敬虔な表情で、氷上から客席に向けて手を振っていた。

 私の目は、羽生結弦本人よりも、その足元に釘付けになった。


 銀盤。

 氷が、発光していた。まるで全ての光の源みたいに。

 あの上を、スケーターは滑っていくのだ。

 陸上では不可能な、滑らかな動作の連続性。

 天使が空でも飛ぶように。


 唐突にCMが挿入され、私は我に返った。

 重い身体をソファーに埋め、私は思った。

 この重く鬱屈した心も、あそこへ行けば軽くなるのかもしれない、と。

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