1-6
「井上さん」
名前を呼ばれて振り向くと、日陰になっているホーム内のベンチから立ち上がる大和がこちらに手を上げていた。
「おはよう」
今日は制服姿だ。
昨日のジャージ姿とはまた雰囲気が変わる。
「井上さん、この時間なんだね」
大会では、県大会通過の期待の星である彼も、自分と同じ高校生であることを改めて思い出させる。
180cmの身長が横に並ぶ。
「うん。本当はいつも、もう少し遅めなんだけど、昨日あんなことがあったから人の多い時間帯には乗りたくなくて」
見上げる大和の顔は、昨日よりもはっきり見えて少し緊張する。
大きな瞳に陰る長い睫毛が上下に揺れた。
「そうだよね」
控え目に笑った彼に気を遣わせてしまったかと、言ってから後悔する。
二人で反対側のホームへ向かうため、改札から入って、すぐ右手に備え付けられた連絡通路の階段へ歩を進めていく。
「今日一緒に学校まで行こうよ」
「え」
コンクリートで塗り固められた古い階段を登りながら隣を歩く大和を見た。
大和よりも階段を一歩上がるごとに、見上げる身長が同じくらいになって話しやすくなる。
「ほら、俺がいた方が何かと便利でしょ。昨日みたいなことも、俺がいたら手出さないだろうし」
確かに、言われてみればそうかもしれない。
けれどそれだけじゃなくて、朝の登校時に大和と一緒にいるところを他の人に見られて変な噂が立つのが怖い、なんてとてもじゃないけど言えない。
「なんか、大和くんを利用しているみたいで悪いよ」
1番上の段を上がると、身長の差がまた開く。
「そんなことないよ。俺二つ上の姉貴がいるんだけど、よくそれで使われ慣れているから」
それは良いことなのだろうか。
とにもかくにも、大和家の
古い駅の連絡通路は、あまり掃除をされていないせいか、いつも砂埃で曇った窓ガラスの周りには蜘蛛の巣がいくつも纏わりついていた。
壁には、犯罪防止を謳った張り紙や交通安全を謳ったポスターがいくつか貼られている。
古いものはすっかり色褪せて、スローガンの重要性までもが軽薄になってしまっているようだった。ポスターの中で、小さく拳を突き上げて笑う女性警官の凛々しさがなんだか頼りなく見えた。こういうポスターってどうして決まって女性ばかりのものが多いのだろう。
「朝練とかは大丈夫なの?」
反対側ホームへ続く下り階段を差し掛かる。
すぐ横をサラリーマンの男性が早足で駆け下りていって、ついそれを目で追ってしまった。
「俺らの部活、朝練ないんだ。部活の練習も市の体育館でしてるから」
「そうなんだ」
「どうせ目的地は一緒だし」
結局はそこに辿り着いてしまうんだよね。
「昨日俺がたまたま助けたっていうのもあるけど、顔見知りがまたあんな目に遭うかと思うとやっぱり後味悪いしさ」
ただの好意で他意はない。
そんなこと分かっているのに、どうしても悠人の面影が脳裏をちらつく。
「ありがとう。でも、今日友里子と最寄り駅で待ち合わせしているから途中まででもいいかな?」
「…うん、分かった」
快く承諾してくれた大和に嘘をついてしまった罪悪感はあったけれど、昨日話したばかりでそこまで仲が良いわけでもないし、と自分に言い聞かせて電車に乗り込んだ。
電車での移動において大和の言う通り、気持ち的にはとても救われていた。
警戒の気持ちはもちろんあるけれど、もしも何かあれば大和が何かしら応じてくれる拠り所があるだけで、あまり気を張り詰めずに済んだ。
それと同じくらい気になっていたのは、他愛もない話で最寄り駅を目指す間に、大和ファンの同じ学校の生徒に見られてはいないだろうかということだった。
最寄り駅は私たちの駅から三つ目の駅。そこから歩いて20分ほどしたところに学校があるのだけれど、その間二つの駅から乗車してくる生徒や後車する際に特に注意が必要だ。
一つ目の駅に電車がゆっくり停車する。
進行方向に沿って、私たちの体も少し傾いて吊革を掴む手に力が入る。
自動ドアが開いて降車する人と、その次に乗車してくる人。
「ん、大和。うっす」
思った矢先に、私が知らない大和の友だちと思われる男子が乗り込んできた。
大和も応じて挨拶を交わしている。
すると、横にいる私に気がついたのか、目があった。
体格が良く、短髪の黒髪で、眉間に皺を寄せた表情が怒っているみたいで少し…いや、かなり怖かった。
「今日昼休みミーティングな」
「分かった」
特に何も言われることもなく一言要件だけ言って、「じゃ、また後でな」と、隣の車両へ移動していってしまった。
「今の、水泳部の次の部長になる黒崎」
「じゃあ同級生?」
「そうそう。顔は怖いけど、すっげぇ優しくていい奴なんだ」
「そうなんだ」
嬉しそうに話す大和を見て、2人の仲の良さを少し知れた気がした。
あまり口が軽いような人には見えなかったけれど、一緒にいるところを見られてしまった。
最寄り駅に到着して電車を後にする。
ホームから階段を使って階下の改札まで下りていく。
通勤通学の人混みに身を任せて、改札を抜けていく。
「それじゃあ、私ここで」
「うん」
「ありがとうね、大和くん」
彼はにこりと微笑むと、駅の目の前にある横断歩道を渡って行った。
一気に肩の力が抜ける。
こんなこといちいち気にしていたら身が保たないよ。
10分ほどしてから、大和が渡っていった横断歩道の前に立つ。
別に悪いことしているわけでもないのに、こんなにびくびくする必要なんてないじゃないか。そうだよ。堂々してろよ、沙織。
青信号になった歩道を渡っていく沙織の後ろ姿を、離れて歩く女子生徒が訝しげな顔つきで見ていた。
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