記憶

1-5




 ◇





「さおりんてさー、悠人はるとくんと付き合っているの?」


 気がつくと、目の前に中学生の頃の同級生が立っていた。

 見覚えのある校舎、体育館の掃除をしているときのことだ。

 ほうきを持って体育館の掃除を、班の6人くらいでそれぞれ与えられた分担通りに行っている。

 毎度言われる言葉に内心うんざりしていたけれど、お決まりのテンプレートに則り、今日も私は張り付けたような笑顔と共に言うのだった。


「付き合ってないよ。あいつはただの幼馴染なだけ」


 私、どうしてこんなところにいるんだろう。

 卒業したはずが変な懐かしさを織り交ぜたその空間に、疑問を抱きながらも、足元の埃を掃き続けながら、私は不思議なことにこの後の展開を知っていた。


「えー、本当に?今まで好きになることもなかったの?」


 ちらりと彼女が見やる先に悠人の姿があった。

 大きなモップで床を掃除している。


「ないない。幼馴染って言っても、兄弟みたいなものだし。恋愛感情なんて一切ないよ」


 一切ない。

 自分で言った言葉が頭の中でこだまする。


「良かった!」


 嬉しそうに胸の前で両手を合わせる彼女の顔は、影が落ちて見えない。

 口元の両端が上がっているのを見て、喜んでいるのだけは分かる。

 手招きをする彼女に従って耳を差し出すと、小さく彼女が言った。


「実はね…私、悠人くんのことが好きなの」


「だからこれ、さおりんから悠人くんに渡してくれない?」


 差し出されたのは、可愛らしい封筒に入れられた便箋びんせんだった。

 いわゆるラブレターってやつだ。


 自分で渡しなよ。


 喉まででかかった言葉を飲み込んで絞りだすように「いいよ」と言った。



 場面が変わり、私は部活に向かっている。

 通りがかった教室の中で私にラブレターを悠人に渡すよう依頼してきたあの子が他の女の子たちと一緒に話をしている。


「それで、ラブレター渡したの?」

「直接渡すのは恥ずかしいから、さおりんに頼んだよ」

「えー、直接渡したら良かったのに」

「なんかさおりん信用ならなくない?悠人くんと幼馴染っていったって、本当に好きだったらどうするの?」

「そうじゃないって本人言ってたよ」

「でも、嘘かもよ」

「っていっても、さおりんじゃ悠人くんには釣り合わないよね」

「〇〇ちゃんの方が可愛いしお似合いだもん」

「そんなことないよ」


 そんなことないよと言いながらまんざらでもなさそうな彼女の名前が、もやがかかったように思い出せない。まるで、名前のところだけ黒の鉛筆で塗り潰されているみたい。



 あの子、何て名前だっけ。





 ◇





 スマートフォンから流れるアラームで目が覚める。

 いつもは、不快な目覚めを呼び起こすそのアラーム音が、今日だけはありがたく感じた。


 嫌な夢見ちゃったな。


 少し早めに起きたその日の朝は、寝汗をかいていて気持ちが悪かった。

 昔のことを思い出したせいなのか、夏の暑さのせいなのかは分からない。


 シャワーを浴びて、身支度を済ませて簡単な朝食をを作る。

 時計を見ると、6時を指していた。

 夜勤の母は、私が学校を出る頃の時間に帰ってくる。

 そのため、三人分の朝食と弟と二人分のお弁当を作るのが、私の日課だった。

 ほどなくして、裕太が制服姿で自室から出てくる。


「おはよう」


 朝練があるため、7時には学校についていなければならない裕太は、歯磨きと寝ぐせを直しに洗面台へ向かう。朝食の入ったおにぎりと、昼食のお弁当を風呂敷に包み、玄関へ置いておく。


「弁当ありがとう」

「んー」

「行ってきます!」

「行ってらっしゃーい」


 なんとなく玄関で裕太を送り出すのは、母の真似をしていたのが最初だったけれど、最近では夜勤でそれができない母の代わりだと思っているのかもしれない。

 裕太を見送って、自分の朝食をゆっくり済ませた。


 30分ほどして、母が裕太と入れ違いで帰宅する。


「ただいまー」

「おかえりー」


 ジーパンに半袖のTシャツで帰宅した母は、目の下に薄っすら隈が見えていて、ちゃんと寝れているのか心配になった。


「ご飯できているよ」

「うん。いつもありがとう。手洗ってくる」

「うん」


 母が洗面所で手を洗いに行っている間に、ご飯と味噌汁をよそい。

 少し時間が立って冷めたおかずは電子レンジで温めておいた。


 テレビの液晶に映るキャスターの「7時をお知らせします」の言葉に一階に持ってきていた鞄を持って、玄関に向かう。


「行ってきまーす」


 洗面所にいる母に聞こえるように声を投げると、母は必ず小走りで玄関まで駆けてくる。


「いってらっしゃい、気をつけてね」

「うん」


 玄関の脇にかけてある靴べらを手に取って、右足から順番にローファーに足を通す。


「最近学校はどう?」

「いつもと同じ。普通だよ」

「そう」


 お母さんてすごいな。

 あまり普段話せないから急いでこしらえたようにたまたま聞いただけだったのか、それともなんとなく、私の変化に気がついていたのか。


「うん、じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい」



 気をつけてね、かぁ。


 夜勤明けで疲れて帰ってくる母に、昨日あんなことがあったなんて言えない。


 父が単身赴任でいない間、母は私や裕太との接する時間がないことを気にしているのは知っている。余計な心配はかけたくない。ただ、それだけだった。


 家を出て斜め向かいの家に目がいく。


 今朝見た夢のせいか、今もそこに住んでいる幼馴染の悠人のことを思い出していた。


 高校が少し離れたところにある悠人は、部活の朝練もあって私が朝起きる時間よりも早くに家を出ているらしい。

 小学校の頃から続けている野球を高校に入ってからも続けているらしく、中学を卒業する頃、悠人のお母さんが教えてくれたっけ。今は学校でどんな風に過ごしているのだろう。元気にやっているのだろうか。

 会いたいとまでは別に思わないけれど、たまにふと考える。


 登校の方法についてだけれど、自転車で学校に行くことも考えたが、体力のない私には無理だと断念して諦めた。

 母に頼んで車を出してもらうわけにもいかないし、結局いつもと同じ電車の駅へととぼとぼ向かっている。


 電子機器を改札の機械にかざしてホームで電車を待つ。

 「絶対安全の保障」がないことに気づいてしまった駅のホームは、昨日とはまるで違うように見えた。

 いつどこで誰がどんな考えを抱いているか分からない不安を押し消すかのように、気づくと私は夏服の制服から見える腕をさすっていた。


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