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「それより2人で何話すわけ?」


 キャップを開けたまま置いていたペットボトルのお茶を口元へ運ぶ。


「特に大したことは話していないけど、ファンクラブがあるって話をしたら初めて聞いたような感じだったよ」


 彩りで添えたブロッコリーを摘んで口に入れる。


「え、知らなかったの?」


 意外そうに眉を上に上げて、こちらをみる友里子。

 奥二重の目がぱちぱちと上下の睫毛をくっつける。


「うん、そうみたいだったよ」


「あんなに騒がれているのに、本人知らないとかあんの?」


 さあ?と首を傾げて2つ目のブロッコリーを口は放り込む。


「…沙織はさ、彼氏とかつくらないの?」


「今は欲しいとも思わない…かな。大和くんと一緒に帰ってるときもそうだったんだけど、他の人にどう思われているのかとか気になっちゃって、どうしても悠人とのときのこと思い出しちゃうんだよね」




 ◇




 市川悠人いちかわはると

 斜め向かいの家に住む幼なじみ。

 幼稚園に通う頃から一緒で、家族ぐるみで仲が良かった。



「わたし、おおきくなったらハルトくんのオヨメさんになる!」

「いいよ!」



 昨日まで、将来はパパのお嫁さんになると言っていた4歳の女の子は、たった1日の間に公然とそんなことを言い放ち、嫉妬に燃える父を差し置いて両家の家族公認の小さな許婚候補になった。


 子どもの言うこと。戯れ。


 その場にいる誰もがそんなことは分かっていながらも、純真無垢に寄り添って遊ぶ2人の子どもたちを微笑ましく見守っていた。

 それから、もしもと続けて2人の将来を想像しながら会話を楽しんでいた。父はちょっと涙目だった。


 小学校にあがってからも、仲の良さは変わらず一緒に登校していた。

 弟の裕太も入学した頃にはよく3人で一緒に登校したものだった。

 裕太を間に挟んで3人並んで歩く姿に、なんだかお父さんとお母さんみたいだと思っていると、恥ずかしそうに「なんだか、お父さんとお母さんみたいだね」なんて笑っていた悠人の顔が眩しかった。


 それから学校帰りには、そのままお互いの家で宿題をして遊んでご飯時には帰るのが日課だった。たまにご飯をご馳走になったり、ご馳走することもあったな。


 悠人は地元の野球チームにも入っていて、よく庭に作った簡易的なバッティングセンターで一緒にバッティングをしたり、キャッチボールなんかもした。


「今度の日曜日に試合があるから、さおりちゃん応援に来てよ」

「行きたい!お母さんに聞いてみる!」

「俺、試合中にさおりちゃんのこと見つけたら、こうやって合図するね」


 すると、野球帽を被ってツバを少し前に引く仕草をしてみせる悠人。


「うん!私もいつもみたいに返事するね」


 被っていない帽子のツバを掴むフリをして、少しそれを前に引いてみせる。嬉しそうに笑う悠人を見て、私も嬉しかったのを覚えている。


 中学校に入る頃には、悠人は野球部に入ることになり、私はソフトテニス部に入部した。

 朝練がある悠人とは違って、私の部活には朝練がなかった。

 そのため自然と朝は一緒に登校することはなくなっていき、帰りも部活の終わる時間帯が違かったりそれぞれ友達と一緒に帰ることが多く、あまり会話もしなくなっていった。


 そんなある時、1人の同級生の女の子が私に近づいてきた。



「ねえねえ。沙織ちゃんてどうして市川くんと仲良いの?」



 同じクラスのクラスメイトだった岡田志穂おかだしほだ。クラスのカースト上位の子たちとよく一緒にいるのを見る。

 そんなに仲が良いというわけではなく、ただクラスが同じというくらいだ。

 連絡先は持ってはいたけれど、クラスLINEから友だち追加されただけで、一度もプライベートで連絡を取り合うことはなかった。



「家が近いから幼稚園から一緒で」

「じゃあ、幼馴染みたいな感じ?」

「まぁ、そんな感じ」

「へえ」

「でも、中学に上がってからはそんなに話さなくなったし、そんなに仲が良いわけでもないと思う」

「そんなことないよ。市川くん、あんまり女子と話さないけど、沙織ちゃんとはよく話しているし」

「え、そうなのかな…」



 確かに中学校で悠人が女子と話しているところはあんまり見たことがないけれど、それはクラスも違うためにお互い学校でも顔を合わせることが少ないからだと思っていた。

 女子と話す以前に悠人の顔を見ないのだから、私とは話せていると言われてもよく分からなかった。



「あんまり学校でもそんなに会うことないから、分からなかったなー」



 私、別に面白いわけでもないのに、何で特に仲良くもない子にこんなへらへら笑いながらこんな話してるんだろう。



「そうなんだ。沙織ちゃん、市川くんに今彼女がいるとか知っている?」


「え?彼女?うーん、さあ、どうだろう?さっきも言ったけど、全然話していないから分かんないなぁ。ていうか、どうしてそんなことが知りたいの?」

「うーん、なんとなく?」


 なんだそれは。


「…ああ、そうなんだ」


 そう言いながら、どうしてそんなことを聞いてくるのか、大体理由は分かっていたような気もする。


 別に言いたくないなら、それはそれで構わないのだけれど、とってつけたような笑みを顔に乗せた表情に、ささやかな畏怖の念を感じずにはいられなかった。

 なんだろう、早くこの場から立ち去りたい。



 岡田さんと別れてから私は自転車置き場に向かっていた。

 今日は顧問の先生の都合がつかず、他の先生も代わりに部活を監督する人がいないため部活が休みになった。


 いくつも並んだ同じような自転車の列から、自分の自転車を見つけてポケットから鍵を取り出して、ぴったりハマった穴に差し込んでくるりと回した。

 カシャンという音と共に、後輪からロックが解除される。


 自転車を押しながら校門へ向かう道を歩いていく。

 自転車置き場の向かいには、グラウンドが広がっていて、目の前をフェンスが張られた野球場では、野球部が活気のある掛け声を放ちながら練習に勤しんでいた。

 その反対側ではサッカー部が広がって練習をしている。

 目の前を陸上部員が一人、また一人走って通り過ぎていった。

 小さい頃よりも逞しく伸びた背中、こめかみを汗が伝って、鋭い真剣な目線は、練習の様子を食い入るように見ている。

 


「お願い!市川くんに好きな人がいるかどうか知りたいの!幼馴染の沙織ちゃんが聞けば応えてくれるだろうし」



 頭を下げながら、私に向かって両の掌を合わせる岡田さん。彼女から言われた言葉を思い出す。



 悠人の好きな人、か───。



「…そんなの、私が1番知りたいよ」



 フェンスで仕切られた奥に見えるしっかりした背中が、今ではとても遠くに感じる。


 私の方が先に好きになったのに。


 そんな私の思いが伝わったのかなんなのか、不意に後ろを向けていた背中が横を向いて、悠人の視線がフェンスの向こうに立つ私を捉えた。


 あ、やば。

 見ているのバレた。

 どうしよう。


 急にこちらを向いたものだから、その瞬間だけ踏み出す足を引っ込めた。

 右隣に並んだ自転車のハンドルを掴む指先がきゅっと内側に入り込む。

 握った掌にじんわり汗をかき始めたことには気がつかなかった。


 周りの声や音やら重なる雑踏を耳で聞きながら、目線は悠人を捉えて、悠人の目にも私が映っていた。


 野球帽のツバを掴んで、少し手前に引く仕草。


 あ───。



 誰も知らない。

 私たちだけにしか分からない。

 サイン。


 周りを見ながら、部活の声出しを続ける悠人。

 一瞬目だけをちらりとこちらに向けた。

 やっぱり、私に向けてやっていたんだ。

 胸のあたりがきゅうっと締めつけられる。


 私もすかさず自転車の籠に入ったヘルメットを手にとって、留め具もしないまま頭の上に被せた。

 悠人がこちらに顔を向けるのを見計いながら、ヘルメットのツバを少し前に落とす。


 ボールをキャッチして投げる。

 フェンス越しに覗いた悠人の口端は少し上に上がっているように見えた。


 陸上部の団体が私と悠人の間を通って、悠人の姿が見えなくなる。


 私はそのまま校門に爪先を向けて歩き出して帰路についた。


 なんか、良かった。

 中学校に上がってから、あんまり話せなくなっちゃっていたけど、ちゃんと悠人は悠人だった。背丈や見た目は変わっても、悠人は私が小さい頃から知っている悠人のままだった。

 会話が少しずつ減っていった期間の中で、眠りにつき始めていた気持ちがぱっと目を覚ましたような気がした。


 校門を出てから、自転車に跨ってペダルを漕ぎ始める。

 途中の横断歩道が赤に変わって、カーブミラーが設置された歩道の前で信号待ちをした。

 カーブミラーに映った自分の頬が真っ赤になっているのを見て、そっと手を添えた。

 熱がこもって、手の甲に少し感じた冷たさが気持ちよかった。

 きっと、これは夏の暑さの所為ではないことを、中学2年生の私は知っていた。




 ◇




 それから次の日も、その次の日も、大和は同じように駅で私を待っていて、一緒に学校がある最寄りの駅まで一緒に行き、他愛もない話を重ねて、一週間が過ぎた。


 連続した日々の一部の繰り返しに、いつしか私も少しずつではあるけれど、大和との電車での通学に慣れ始めてきたようだった。まだ完全に周りの目が気にならなくなったわけではないけれど、それでも心を開き始めたような感覚があった。


 そんなある日の放課後。

 下駄箱からローファーを取り出して、コンクリートで舗装された地面に置いた。


 いつも一緒に帰る友里子は、赤城くんに漫画を返しに行ったきり戻ってこない。


 あの二人、お似合いなのだけれど本当に何もないんだろうか。


 勝手な期待と想像を膨らませながら、履いたローファーの爪先をこつこつ叩く。



「井上さん」


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