2-4
そうして夜明け前の街を、わたしたちはキコキコと漕いでいくことになった。京浜東北線の線路沿いをなぞるようにして走った。もちろん客車はもう走ってなかったけど、ときおりたくさんのコンテナを積んだ車両がガガガタと音を鳴らしながら通り過ぎていった。
夜明け前の冷たい空気を吸い込むと、ちょっと心地よかった。
「ねえ、芹澤君はさ、こういうとこでポートレートの撮影ってしたことあるの?」
「え? いや、ないよ。僕は写真部の幽霊部員って言ったじゃないか」
「そう。じゃあ、こういうとこの風景写真は?」
「あるよ。というか、このへんはよく撮りに来るんだ。鉄橋の下とか、電車の通り過ぎていくとことか、夜更け前の通勤ラッシュの時とか、そういう風景はね。スナップ写真とか適当に撮っているとたのしいんだよ」
「へえ。芹澤君ってどういう写真が好きなわけ?」
「うーん、どうだろう。決まりきって好きな写真家がいるわけではないけれど。でも、後世までその切り取られた一瞬が語り継がれるような、そんな瞬間を撮ってみたいとは思うよ。たとえばそう、のちのグラミー賞歌手ジュン・アマミヤのファーストライブとかさ」
「バカ言わないでよ。ねえ、もうすぐ着くんじゃない? 河川敷が見えてきたけど」
「あ、そうだね。そこのスロープから降りてくんだ。暗いから気をつけて。なんなら自転車降りたほうがいいかも」
河川敷は真っ暗。わたしはいったん自転車を降りて、ゆっくり歩いていった。川沿いの道は昨日一昨日と降り続いた雨のせいか、すこし湿っていて、ふんわりしていた。荒川も心なしか増水しているし、川辺はなんだか荒れている気がした。まさに荒れた川って言う感じがした。
鉄橋下までたどり着くと、自転車を立てて機材をおろした。ちょうどコンクリートの階段があったから、そこにカメラとギターと、そしてグラジオラスを立てかけた。
「まだ暗いね。日の出ってあとどれぐらい?」
「もう二十分くらいかな。そうしたらじきに明るくなるよ。そのうちに下準備だけしよう」
「下準備って?」
「カメラの準備と、それからいろいろ」
言って、彼はリュックサックの中からカメラと三脚とを引っ張り出した。いつも使ってる小さめのフィルムカメラと、それから一回り大きいデジタル一眼レフまで出てきた。三脚をコンクリートの上に立てると、まさにカメラマンって感じになった。大きなレンズが鉄橋と川の方に向けられると、なんだかいよいよって感じがした。
「それからさ、こんなのも持ってきたんだ」
「なに?」
「これさ」
リュックサックの中身、てっきり彼のことだからレンズとかが出てくると思ったけれど、まったく予想外のものが出てきた。
それは、瓶に入ったビールだった。緑色の瓶、ハイネケンってビール。よくクイーンのフレディ・マーキュリーがライブ中とかに飲んでたっけ。
「どこから盗んできたの、それ。わたしたちまだ未成年じゃない」
「おじいちゃんの冷蔵庫からくすねてきたんだ。飲まない?」
「犯罪」
「でも、興味はあるでしょ、ロックンローラー?」
わたし、本当なら首を横に振って断るべきなんだと思う。中学のとき警察の人が来て、そういう講習をやっていた。親戚の人とかに「なめるだけだから」とかって勧められても、絶対に断りましょうねって。
でも、あいにくわたしはハイネケンを受け取った。そして芹澤君の持ってた十徳ナイフで栓をあけると、二人で瓶をあわせて乾杯した。
『チアーズ』っていうふうにさ。
初めて飲んだビールは、それはそれはまずかった。なんだか苦い葉っぱを煮出して、炭酸と混ぜたみたいな味がした。
「変な味。大人はこういうのが好きなわけ?」
「かもね」
「わたしビールは一生飲まないかもね。紅茶のほうが好きかも」
「紅茶ね。そのほうが雨宮さんらしい気がする。でも、なんだかアルコールって飲むと、すこし気分がよくなるね」
「芹澤君ってば酔いやすいほう?」
「かもね。そういう雨宮さんもいつもより饒舌だよ」
「そうかな」
「そうだよ。ねえ、せっかくだから饒舌な雨宮さんに聞いてもいい?」
「いいけど、なにを?」
そう言うと、彼はもう一口ビールを飲んでから。
「雨宮さん、なんで自分の曲をネットにアップしないの?」
「これからあげるよ」
「そう。でも、作品ができたらすぐにでも人に聴かせたくならない?」
「なるけど……。でも、わたしイヤなの」
なにが? と彼は聞いた。
わたしはしばらくのあいだ答えるのをためらった。どうして人にわたしの歌を聞かせたくないのか。昔はわたしだってそうしたかった。中学生のこと、よく携帯に歌を吹き込んだりしては自慢げにネットにあげてた。けれど……
「わたし、『女』って色眼鏡で見られるのがイヤなの。中学生の頃、大好きなスミスの曲をカバーして、ネットにあげたりした。でもね、誰もスミスをカバーする『シンガー』としての雨宮純じゃなくて、スミスをカバーする『女の子』としての雨宮純を見ていたの。コメント欄には、声がかわいいとか、若い女の子なのに珍しいねとか、そういう声ばっかり。イヤになる。わたし、一人のスミスのフォロワーのシンガーとして見られたいのに。女ってだけで性的な目で見られるんだもの。それがイヤで、曲をあげる気になかなかなれないのよ」
「そう、だったんだ」
「うん。だからさ、いま書いてる曲だってすごく良い曲だと思う。でもね、いつかそれも語頭に『スミスにあこがれる”JK”シンガーソングライター』ってつくのよ。一言余計なのよ。わたし、そういう評価をされたくない。だからいろいろ考えてるの。……うん、わたし意外と女であることがコンプレックスなのかもね。もっとしゃがれて、酒やけした声だったらよかったのかも」
「B’zの稲葉浩志は、ロッド・スチュアートみたいなハスキーボイスにあこがれて酒でうがいしたりしたらしいよ」
「なにそれ」
「やってみたら? あと、ハスキーボイスになるならこんなのもあるけど」
と、彼はまたリュックサックの中から何かを取り出す。今度は小さな赤い箱。酒ではなくて、タバコだった。マルボロ。むかしお父さんが吸っていたのと同じやつだった。
「なに、芹澤君って意外と不良なんだ?」
「こう見えてね。だから写真部のイイコちゃんとはそりが合わないし。じゃなきゃロックスターを撮影したいだなんて言わないよ。吸ってみる?」
「酒うがいしてみたらね。火も貸してよ」
「もちろん」
芹澤君はそう言うと、慣れた手つきでマルボロを一本取り出して、百円ライターで火をつけた。彼は一口目にゲホゲホむせてたけど、三口、四口目にもなると自然に吸い始めていた。
一方でわたしはハイネケンを含んでから、鉄橋の裏側を向いてガラガラと喉を鳴らしてみた。炭酸が発泡して口の中でアルコールの泡がはじけていく。喉奥にじんわりとアルコールの熱さが感じられて、飲み込んだころにはずいぶんと酔っぱらった気がした。
そうしたら気持ちよくなって、タバコを吸ってみたいって思った。
「ねえ、タバコちょうだいよ。その吸いかけのやつでいいから。わたし、一本まるまる吸えないと思うから」
「いいけど、僕の吸いかけでいいの?」
彼は紫煙を吐きながら、そしてコンクリートの地面にすこし寝転がった。
「いいよ、ちょうだい。芹澤君は新しいのに火をつければいいし」
「わかったよ。はい、どうぞ」
「ありがと」
芹澤君の指が伸びて、わたしはそれを受け取る。彼の唇がついばんでいたそれを、わたしの唇が握りしめた。
『鉄橋の下でキスをしたけれど、お互いの唇が痛んだだけだったね』
モリッシーはたしかにそう歌ったけれど、わたしたちはお互いの肺が黒く痛んだだけだったかもしれない。
わたしも一口目はゲホゲホと大きく咽せてしまった。タバコの味、よくわからない。でも、嫌いじゃなかった。
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