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わたしがスティーヴン・パトリック・モリッシーと出会ったのは、二〇〇二年の暮れだったと思う。当時七歳のわたしは、お父さんの車に乗ってふたりで水族館に行ったのだった。その道中、一時間ほどのドライブのなかで流れたCDのひとつが、ザ・スミスのファーストアルバム、『ザ・スミス』だった。何を思って娘とのドライブでこの曲を流したか分からないけれど。でも、父の影響を多分に受けたこのわたしが『スティル・イル』という曲にハマるまでに時間は要らなかった。聴いた瞬間にジョニー・マーのギターの虜になったし。そのうち英語を勉強するようになったわたしは、モリッシーの書く詞を読んでは、胸のすくような気持ちになった。
思うにモリッシーは、わたしたちが『死にたい』としか形容できない悲しみを、百通りの言葉でもって教えてくれるのだ。少なくともわたしにとってはそうだった。
*
「ただいま」
合い鍵で開けてアパートに戻ってきたけど、返事をする人は誰もいなかった。
基本的にこの家は無人だ。わたしが学校から帰れば人の手が入るけれど、それ以外はいつも死んだように静まりかえっている。
西川口の駅前から自転車で一〇分ぐらい。五階建ての築四十年ほどのアパートで、十年前にリフォームされたらしいけど、それでも部屋の雰囲気からはどこか昭和の匂いがする。
けれど、わたしの父の二人暮らしならそれで十分だった。リビング兼ダイニングと、こじんまりとしたキッチン。狭苦しいトイレに、足の伸ばせないお風呂。それからわたしの部屋兼寝室と、父の部屋兼寝室。それでも十分贅沢だと思うし。わたしの部屋なんかは、よくしてもらってる方だと思う。
わたしはリビングの電気もつけずに、一目散に自分の部屋に入った。元々は襖であったであろう引き戸を開く。部屋のなかは妙に熱がこもって、湿気でむわっとしてた。
「うわ、換気しなきゃ」
電気をつけ、カーテンを開け放ち、窓を前回にする。夕焼けが差し込んでまぶしい。真っ赤な夕日が壁に貼り付けたモリッシーとジョニー・マーのポスター、それからユニオンジャック柄のタペストリーを照らし出した。
実を言うと、わたしはこの部屋が好きだ。なんでって、わたしの好きなものにあふれてるからだ。好きなアーティストのポスターと、そのCDやレコード。なけなしのお小遣いをためて必死に買ったコレクションが並んでる。
わたしはiPodとスピーカーとをつなげると、いま一番聴きたい曲――ザ・スミスの『ディス・チャーミング・マン』を再生した。心地よいギターサウンドが鳴り出す。ジョニー・マーのギターはいつだって素敵だ。わたしも彼みたいに弾けるようになりたいけれど、残念ながらまだ練習が足りてない。
「さてと、昨日の続きを書かないと。メロはできたんだよね」
勉強机には、教科書の代わりにメモ帳とパソコン、それからギターアンプとマイク、そしてオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』が並んでいる。わたしはその机の前に腰掛けると、となりにあるギタースタンドから相棒を取り上げた。
去年、中学の卒業祝いといって父にせがんでかってもらったギターだ。フェンダー・ジャパンのジャガーモデル。ジョニー・マーが最近はジャガーを使っていると聞いて、欲しくなって買ったのだ。中古だけど七万円もして、わたしにしては痛い出費だった。でも、そのおかげでわたしはやっと音楽ができるようになった。
チューニングをあわせて、何となくコードを弾いてみる。つなげたパソコンが、フェンダーのアンプシミュレーションをした。心地よいリバーヴが効いている。
「さあ、曲を書かないと。詞を書かないといけないのよ、わたしは」
そう、わたしは詞を書かなくちゃいけない。
いつもは詞先で曲を作るわたしだけれど、今回ばかりは妙にいいフレーズが弾けたので、メロディが先行して曲を作り始めることにした。ほら、なんていうか、『ディス・チャーミング・マン』みたいな曲が書きたくて。それにいままでじゃじゃ馬で使いこなせなかったジャガーが途端に言うことを聞くようになったから。楽しくて弾いてたら、なんだか素敵なメロディができてしまったんだ。
「らら、らーら、らーららら、らーららー……」
ぽろん、ぽろん、とジャガーを弾きならす。
授業中に思いついた言葉を書き込んだメモ帳とにらめっこしながら。わたしはしばらくのあいだ曲を書いていた。
*
一時間くらい格闘したけれど、なんだかいい言葉が思い浮かばなくて。結局、ギターもパソコンの電源も落とした。
こういうときは無心で別のことをやると、突然いいアイディアが思い浮かんでくるもの。わたしはそう思ってる。
iPodをスピーカーからイヤホンにつなげなおすと、スミスを聞いたままキッチンに向かった。ちょうど曲は『ビッグ・マウス・ストライクス・アゲイン』に切り替わった。マー師匠の小気味よいコードストロークがカッコいい。それに、やはり詩が好きなんだ。
「ビッグマウス、ビッグマウス、また余計な言葉が口に出る。僕には人類の仲間入りをする権利なんてないんだ」
一度、中学の時に言い寄られた男の子がいて、その子に「純はどんな曲がすきなの?」と聞かれたことがあった。そのときに比較的ポップで聴きやすいと思って、この曲のことを教えてあげたんだけれど。彼は苦笑して「そうなんだ」って言うきりだった。それきり彼はわたしに話しかけてこなかったし、わたしの好きなバンドや音楽について興味を持つそぶりもしなかったな。
「ああ、そういう感情を曲にしたらいいのかな」
お米を研ぎ、炊飯器に二人分の白米を仕込みながら、とつぜん思いついた。
今日の夕飯は、昨日のカレーの残りと、総菜のコロッケ、それからコンビニで買ってきたサラダだった。
*
父が帰ってきたのは午後九時過ぎのことで、わたしはもうカレーを食べ終え、風呂に入っていた。
「ただいま。お、純、今日はカレーか?」
「昨日もカレーだったでしょ」
脱衣所で髪を乾かし終えて、寝間着にソニック・ユースのTシャツに着替えてから、わたしはリビングに戻った。
お父さんは汗のしみこんだスーツにファブリーズをかけて回っていた。
「仕事、最近大変なの?」
「ああ? まあ、いっときよりは収まったけれどな。しばらくはこんな感じだよ。それに……」
「お母さんがいなくなったぶん、稼がないといけない? またそれ?」
わたしが唇を尖らせて言うと、父は申し訳なさそうにうなずいた。
「しょうがないだろ。でもまあ、俺たちはうまくやってけてるさ」と父はスーツをクローゼットに片づけながら。「そういえば部活はどうしたんだ? けっきょく軽音に入ったのか?」
「うん、まあ。これから正式に入部届を書くことになるけれど」
――ウソだ。
わたしの机の
なんでって? わたしのやりたい音楽がそこになかったからに決まってる。
……でも、お父さんにそんなこと言えるはずがない。七万もするギターと、それからお下がりとはいえ一〇万以上もするパソコンと、アンプと機材を一式買ってもらって。
それなのに――
『いいえ、わたし帰宅部です。だって軽音部がクソだから。モテたいだけのクソヤロウばかりだから。だれも抑圧された“死にたい”の感情を一千通りの言葉にして、ロックにのせて表現したいだなんて。抑圧されたわたしや僕らに手を差し伸べようだなんて、思ってないから』
……なんて言えるはずがないでしょ。
「そうか。じゃあ、文化祭でライブするのが楽しみだな」
「そうだね。でも、お父さんそもそも文化祭見に来れないでしょ。仕事忙しいんだから」
「そこは強引に休むさ」
「ほんと?」
「ほんとだ。地の果てまでも部長を追いかけて、殺してまで休むよ」
「さすが、やるじゃん」
わたしはニッコリ笑って、部屋に戻った。詞の続き書かなくちゃいけないし、これ以上お父さんと一緒にいたらボロが出そうだったから。
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