夢追人
日当たりの良いこの明るい部屋が大好きだった。
おしゃれな部屋にしたかったのに、お金がなくて結局ちょっとずつ買い足して揃えたチグハグな家具。
窓辺で育てはじめたパセリとバジル。
料理なんてこれまでしたことがなくって、初めての恋人と2人で作ったパスタは少し芯があって硬かったけど、美味しくないねって言いながら、残さず全部食べたんだっけ。
そこは、日差しと音楽に溢れた部屋だった。
彼はフルートとピッコロを弾いて、わたしは歌を歌った。
完全防音ではなかったから、他の部屋のピアノやギターの音も少し漏れ聴こえてくる。
ここでは誰もが音楽と共に生きているのだという安心感があった。
彼は音楽事務所に身を置いて演奏の依頼をこなし、わたしは音楽とは関係のないバイトもいくつかしながら、教室に通ったりオーディションを受けたりして過ごしていた。
わたしは元々クラシック畑の人間だったけど、音大を卒業する頃からジャズに興味がわいて、知り合いの
クラシックをそのまま続けていれば、人との繋がりで今より歌の仕事があっただろうけど、そこはどうしても譲れなかった。
それでも、このまま続けていけばいつか実を結ぶのだと信じていた。
人は成長していくものだと思っていた。
――だけどある冬の日、彼の父親が倒れたという連絡が入った。
故郷へ戻った彼は、音楽をやめて父親の友人の会社に勤めはじめた。
お金が必要なのだと言っていた。
先日久しぶりに彼から聞いた話では、どうやらあれからもう長いこと楽器には触っていないらしい。
今は楽器に触れない生活が当たり前の日常なのだ、と。
そしてそれは同時に、地元の女性との結婚の報告でもあった。
幼少期からずっと生活の一部だったもの。
自分のこれまでの人生を培ってきたもの。
これを失くしては生きていけないと思うもの。
わたしにはそれを手放してこれからの人生を歩む想像など出来ない。
いつだって、思い描く未来に音楽のない生活などあり得なかった。
そうして今では、取り敢えず歌の仕事だけで生活出来るようにはなったけれど、未だに日当たりの良いこの明るい部屋でひとり、チグハグな家具に囲まれた変わらない日々を過ごしていた。
◇ ◇ ◇
「木曜日、店を開ける前に新しい人の面接をやろうと思うんだ」
ずっとお世話になっているジャズバーの店長から、そう声を掛けられた。
ここはわたしが初めて歌の仕事をいただいたお店で、今もなお、週に2回、水曜と土曜の夜に歌わせてもらっている。
「ほら、
店長の
権之助、と聞くとかなり年配のような感じだけど、実際にはわたしより7つ歳上なだけで、大学卒業前から働いているわたしを未だにちゃん付けで呼んでいる。
「ありがとうございます。わたしも聴いてみたいです」
土曜日の夜というのは、音楽家にとって非常に重要な活動時間帯だ。
これまで他からの誘いもあったけれど、お世話になっているこの店の仕事を優先して泣く泣く断ってきたのだ。
それが自分で選んだり企画したり出来るようになると、すごく有り難い。
「まだ19歳。って里絵ちゃんがここに来たのと同じくらいか? 専門学校生だと」
わたしがここで働きはじめたのは20代になってからだ。
それだって最初は歌の仕事じゃなくて雑用だった。
19歳でバーで歌おうっていうのは、何かしらの実績に伴う自信があるか、無謀なだけかのどちらかだろう。
「その人って、紹介か何かですか?」
「いや。直接店で言ってきたんだ。里絵ちゃんのファンだってさ」
◇ ◇ ◇
――木曜日。
現れたのは、小柄で落ち着いた感じの女の子だった。
19歳というが、化粧っ気のない顔はあどけなく、まだ高校生にも見える。
そして権之助さんの言っていたとおり、口先だけでなく本当にわたしのファンだったらしい。
入口でたまたま居合わせて挨拶するなり、わたしの歌の良さを熱く語りだした。
「ほら、セッションする時ってどうしても『自分が自分が』ってなる人いるじゃないですか。それはそれで良さがあると思うんですけど、里絵さんのは周りの音をすごくよく聴いていて、全体でひとつの完成された音楽っていうか、ものすごく計算されていて、本当にすごいなって思うんです」
そう語り続ける
「友達と初めてここに来た時に歌ってたのが里絵さんで、他の曜日の人のも聴いたけど、やっぱり里絵さんが一番好きです。こないだの不協和音の後に和音がきれいにはまった時なんてもう、全身ビビビッってなって、鳥肌立っちゃいました」
不協和音で不安を煽っておいて、その後和音で安心感を取り戻し解決させるというのは、聖歌などの宗教曲でよく使われるテクニックだ。
ジャズというのは、その場のノリやパッションでアドリブが多用される。
わたしはその中で、これまで音大で培ってきた技術もふんだんに取り入れて歌ってきた。
「麻倉さんは、音楽の勉強は長いの?」
細かいところまでよく聴こえているということは、歌に限らず何か楽器などを習っていた可能性がある。
そう思って訊いてみたのに、
「いえ、高校からです。友達に誘われてゴスペルのグループに入って、それから。ソロも歌わせてもらってます」
という答えが返ってきた。
「そこの先生がジャズをやってて、それでここのお店も教えてもらったんです」
だったらここの面接を受ける前に先生にも話をしているだろうし、それで止められなかったということは、それなりに実力があると思われる。
それからわたしと権之助さんは客席に着き、麻倉さんはピアニストの伴奏に合わせて、ジャズの定番曲『星に願いを』を歌いはじめた。
わたしが音楽を作るときには、ただ音符どおりに歌うだけではない。
フォルテやピアノ等といったダイナミクスはもちろんだが、それ以外にも、どうしたらその曲の良さや感情を伝えることが出来るかを考えて、細かい技術を取り入れて作り上げる。
麻倉さんの歌は、技術的にはまだまだ向上の余地があった。
リズム、テンポ、それから……。
――だけど、世の中にはいるのだ。
ただ音を付けるだけで「音楽」になる声の持ち主が。
聴く意思などなくとも耳に入ってくる。
技術以上に人を惹きつけてやまない声。
それに、声だけではない。
あの大人しそうな身体から放たれる熱量が、胸を揺さぶり、聴かずにはいられなくさせてくる。
彼女は耳もいいし、技術は後から身に付けられるだろう。
けれどわたしは、一生掛けて勉強したところで、あの声を手に入れられることはないのだ。
麻倉さんは、当然採用となった。
客入りの多い週末の夜は、華のある歌い手が求められる。
だから初めてわたしにその土曜日担当の話があったときは、本当に嬉しかった。
まだ他でまともにライブもやっていない頃だった。
時々音楽関係者も訪れるこの店。
彼女なら、スカウトされるのも時間の問題だろう。
麻倉さんが嬉しそうに頭を下げて帰った後、少し食欲の落ちたわたしがカウンターでクラムチャウダー風スープパスタを少しずつ口にしていると、カウンターの向こうから権之助さんが声を掛けてきた。
「里絵ちゃんが週一になるとあんまり会えなくなるから言っておこうと思うんだけど」
「何ですか?」
「結婚しない?」
「…………は?」
◇ ◇ ◇
「いいんじゃない?」
久しぶりにあった高校の音楽科からの友人
「いいと思うよ、権ちゃん。音楽やること理解してくれる人って貴重だよ? それにお店だってただ好きでこだわってるだけじゃなくって、どうやったら客が来たくなるか相当考えられてて、経営手腕もあるし。これでダメならどんな人がいいってのよ」
バイオリンを専攻していた時子は、音楽を続けるために、音楽とは無縁の企業に勤める安定した収入の男性と結婚した。
それから出産をして、子育てしながら定期的に仲間と演奏会を開いている。
紹介で知り合ったというその男性は「音大出身でバイオリニストの奥さん」がちょっと自慢らしい。
今日は旦那さんが家にいて、こどもを見てくれているのだそうだ。
「いや、権之助さんがどうとかっていうんじゃなくって、わたしのね、恋愛のスイッチがね、入らないのよ」
「贅沢ぅ。そんなの付き合ってから考えればいいのよ。実際うちはそれでうまくいってるし。……もしかして、まだ彼のこと引き摺ってるの?」
「そういうわけじゃないけど、なんかもう恋愛っていう気持ちが生まれてこなくって」
「恋愛じゃないの。結婚! 里絵、音楽だけで食べていけてるっていうけど、貯金はできてるの?」
「うっ」
そこを突かれると痛い。
結局はお金だ。
音楽を諦めて別の職に就く仲間たち。
家庭が生活の中心となった友人たち。
これまで何も言うことのなかった両親が年を取り、わたしの同級生の結婚と出産について語りはじめた。
中には音楽だけで安定した生活が出来ている知人もいるが、決して多い数ではない。
「いい加減大人になったら?」
大人になるってどういうことなんだろう。
夢を諦めて安定した生活を送ること?
恋愛感情にこだわらず結婚すること?
「老後どうなるか分からないんだから、貯金はしておいた方がいいよ」
そう言った時子は、明らかにわたしより大人の顔をしていた。
◇ ◇ ◇
その土曜日は、店での最後の土曜日だった。
大勢の常連さんが来て、平日に来ることの出来ない人たちが惜しんでくれて、いつになく賑わっている。
普段はお酒を断っているわたしも、今夜は断りきれずに少しばかり口にしてしまった。
「でも他で土曜日にライブするときはここにチラシ置かせてもらうから、ぜひ聴きに来てください!」
「こらこら里絵ちゃん。うちから客奪わないでくれよ」
あははと笑って盛り上がって、そして今夜も聴きにきていた麻倉さんを、権之助さんがみんなに紹介した。
彼女の若さに、店内はまた別の盛り上がりを見せる。
「おい、権ちゃん。こんな若い子働かせて大丈夫? 捕まんない?」
「いやいやいや。19歳だから。歌聴いたらそんなこと言ってられなくなりますよ。楽しみにしててください」
権之助さんは白い歯を見せて意味深に笑い、それから麻倉さんと目を合わせた。
それを見ると、なんだか胸がチクッとした。
彼女の緊張が伝わってくる。
今後、この音楽好きな人たちの前で歌っていくのだ。
それは怖くもあり、期待にも似た、えも言われぬ高揚が胸を支配する。
来週彼女の歌を聴いた客たちは、それからも土曜日の夜にこの店に通い続けるだろう。
多分、きっと。
閉店の時間となり、客やスタッフの帰った後も、わたしと権之助さんはまだ店に残っていた。
それは今までもよくあったことで、夕方から何も食べていないわたしのために権之助さんが作ってくれたカルパッチョをカウンターで
なのに、今夜はなんだかしんみりと静かになってしまった。
「……よく考えたら、土曜日はもう賄いの料理がなくなってしまうってことなんですよね」
「やっと喋ったと思ったらそれか。もっと他に言うことないか?」
「…………人生って、一体何なんでしょうね」
「酔ってるか? そんなに飲んでないよな?」
と言いつつ、自家製の冷たい梅ソーダを出してくれる。
お酒を飲んだ後の定番だ。
「最近よく考えるんですよ。生きるために夢を諦めるのか、諦めたら何のために生きるのかって」
「諦めようと思ってるのか?」
権之助さんが意外そうに目を開いてこっちを見た。
「諦めません。諦めませんよ。諦めませんけど。でも、歌って一生歌えるわけじゃないじゃないですか。会社みたいな保険もないし。いつまで歌で生活できて、その後どうなるんだろうって」
「だから結婚すればいいんじゃないか」
避けたかったのに、あっさりとそっちへ話を持っていかれた。
「でも、好きじゃない人と生活のために結婚するのもどうかと思うんです」
「……酒の力ってすごいな。ひどいことをあっさりと言ったぞ」
「違うんです。そうじゃなくて、人間としては好きだけど、男性としてはそうじゃないっていうか、恋愛感情がないだけっていうか、全然ときめきが生まれないっていうか……。そもそも、なんでこのタイミングでわたしに結婚なんて言ったんですか?」
「だからあんまり会えなくなるから……」
「麻倉さんの歌を聴いたからじゃないんですか?」
つい、思った以上に強い口調で言ってしまった。
「わたしの将来性が、ないって、思ったんじゃないですか?」
思ったのはわたしだ。
これまでわたしの歌を誉めたり好きだと言ってくれたりする人がいても、音楽事務所やレコード会社のようなところから声を掛けてもらったことはない。
でも麻倉さんの歌を聴いたときに、その違いをはっきりと感じたのだ。
わたしには越えられない壁があると。
「確かに、里絵ちゃん伸び悩んでるなあとは思ったよ。だから、俺が近くで力になってやりたいなって。里絵ちゃんの歌、一番理解してるの俺だと思うし」
「権之助さんも、麻倉さんの歌、いいって思ったんですよね。お客さんに言ってた感じでなんか伝わりました」
あの時チクッと痛んだ心。
「わたし、権之助さんのこと、これまで恋愛対象として見たことなかったんですよ? 誰と仲良くしてても気にならなかったのに、結婚とか言われて意識しちゃって、それで自分以外の人のこと誉めるの見て嫌だなって思うのって、なんかわたし、いやらしくないですか? 好きでもないのにキープしているみたいで」
言いながら段々と酔いが醒めてきて、自分でもひどいこと言ってるなって思いはじめた。
だけど、なぜか権之助の機嫌はいい。
カルパッチョを食べ終えたテーブルに、手作りのベイクドチーズケーキが置かれた。
「好きだって言われてから意識して始まる恋愛もあるからな。これからたっぷり意識してくれ」
「待ってください。好きだとは言われてませんよ?」
「そうだったか? 好きだよ」
さらっと言われて顔が熱くなるのを感じた。
言わせておいてなんだけど、それに対する色好い返事を今のわたしにはあげることは出来ない。
「あの、わたしの気持ちが変わるの待ってても、いつになるか分からないし、変わらないかもしれませんよ。CDだって作りたいし、いつかNYに留学したいって思ってるし。音楽のことでいっぱいいっぱいなんです」
「――CD作るんならいい人紹介するよ。渡航資金貯めたいんなら仕事増やしてあげるし、水曜日以外でも寄ってくれたら賄い飯出すよ」
「えっ。食べに来てもいいんですか!?」
あ、そこに反応してしまった。
だって食費って大事なのよ。
それに美味しいし、わたしの好みをよく知ってくれている。
「いつでも食べにおいで。今までどおり相談にも乗るし、愚痴も聞くよ。里絵ちゃんの歌のことは、俺が一番、あの新しい女の子よりも詳しいからな」
結婚の話をされた時、わたしは同情されたような気持ちになっていたけれど、権之助さんは麻倉さんに張り合う――というか、この先出てくるであろうわたしの音楽の理解者への牽制の気持ちもあったらしい。
それはまだ、わたしにもっと上のステージへ昇れる可能性があるということだろうか。
今はまだ音楽のことで頭がいっぱいだけど、ベイクドチーズケーキを頬ばっていると口の中にレモンの香りが広がって、前にわたしがこれが好きだって言ったのを覚えてくれていたのだと、ちょっとだけときめいた。
「――そうだ。わたし、もうひとつ夢があったんです。音楽以外で」
「何?」
「次に住む部屋の家具を買うときには、ちょっとずつ買い足さないで、いっぺんに揃えたいなあって」
それは今すぐの話ではなくて、現実になるかも分からない夢だけど、権之助さんは
「分かった」
と笑って答えた。
【短編】恋の話 日和かや @hi_yori
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