チョコレートケーキ
「
そんなセリフを言われたのは、会社の飲み会での席だった。
相手は社内外の女性から人気の高い
その頃のあたしはといえば、人知れず終わったばかりの元恋人への想いを断ち切れないでいたところだった。
即答できないあたしに彼が気を遣って「すぐに答えなくていいですよ」と言ってくれて、それで佐々川さんへの返事を保留としてしまったのだった。
うちの部署は営業を主としていて、事務が正社員のあたしと最近入ったアルバイトの女の子の2人のみで、あとは営業部長などを含めて11人の営業担当者がいる。
その多くは男性だ。
半数が独身で、あたしたち事務員に何かと声を掛けてくる人が多い。
中には話をするために用を作ってくる人もいて、自分の仕事の手を止めなければならないことも多々あった。
今日は特に請求書発送の作業日で忙しい中それがあり、ただでさえ残業なのに、さらに帰りが遅くなりそうだった。
最近20歳になったばかりのアルバイトの
区切りが付いたら帰っていいよと伝えたけど、彼女は「仕事を覚えたいから最後までやります」と笑顔で答えてくれた。
もう2人しかいないと思っていた事務所に、佐々川さんが営業先から戻ってきた。
「――あれ、和泉さん? お疲れ様です」
そして挨拶するとすぐにまた出ていき、次に戻ってきた時手にしていたのは、2本のペットボトル。
レモンティとミルクティだった。
翌朝も早くから仕事だという彼は、その後すぐ帰ってしまったけど、すごく申し訳なさそうにしていた。
残ったのは、あたし達2人の間に置かれたペットボトル。
「仁田さんは、どっちがいい?」
「ミルクティ!あたしミルクティ大好きなんです」
迷わず彼女はミルクティを選び、あたしは必然的にレモンティを手にした。
特にどちらが好きというわけでもないから、それで問題はない。
「佐々川さん…でしたよね。いい人ですね!格好いいし」
「そうだね」
飲み会で話をするまで、あまり彼のことは意識していなかった。
こんな風に差し入れをもらったのも、これが初めて。
でも多分、いい人なんだろうなと思う。
翌朝出勤すると、佐々川さんはすでに営業先へ向かった後だった。
まだ始業前だったけど、事務所には佐々川さん以外の従業員が揃っていて、ある社員を中心に盛り上がって会話をしている。
「奥さん誕生日なの? じゃあ今日は早く帰らなきゃ」
「抹茶のティラミス買って帰りたいんですけど、あの店閉まるの早いんですよね」
抹茶のティラミス?
チョコレートケーキじゃないんだ。
「
輪の中には入らず離れて眺めていたあたしに、仁田さんがそう声を掛けてきた。
「結婚したの、つい最近だったから」
相手は、うちの会社に入っていた業者の女性だった。
その業者を入れるかどうかについての判断は、常に社内にいるあたしに委ねられ、あたしが入れる決断を下した。
それがおよそ1年半前。
あたしと榛木が付き合いはじめたのは、それよりも1年ほど前のことだった。
別れ話はなかった。
少しずつ連絡が来なくなって、返信も遅くなって、2人で会えなくなって、彼がどうしたいのか分からなくて動けないでいたあたしは、何度かちゃんと話をする時間を作ろうとしたけど、「用事があるから」と誤魔化され、まともに話が出来ないまま、今から3ヶ月前に部署内全員に向けて結婚の報告があった。
だからこそ、あたしの気持ちはけじめを付けられないまま、ずるずると引き摺り続けてしまったのだ。
うちの会社は社内恋愛禁止。
入社の際にそう強く釘を刺されていた。
なんでも、過去にそれで別れて片方が退職したり、他の社員から仕事に差し支えると問題提起されたりしたことが原因らしい。
だからあたし達の恋愛も秘密だった。
別れが決定的になった時は、食べることも眠ることもほとんど出来ずに体調も崩してしまっていたけれど、お世話になった上司を裏切りたくなくて、あたしは会社を辞めることなく、まだ彼と同じ会社で働いている。
「和泉さん、ちょっとこれについて教えてもらいたいですけど」
始業前のこのタイミングで、よく声を掛けてくる男性から新商品について訊かれた。
この営業の男性は、商品についての説明をいつも事務員であるあたしに尋ねてくる。
事務員だからこそ持っている資料というのもあるけれど、あたしだって営業の人以上の情報を持っているわけではない。
でもあたしが答えないと仁田さんの方に「エリナちゃん」なんて名前呼びして執拗に関わろうとするから、そうさせないよう調べていると、同じく営業の
「和泉さん、これ昨日の伝票。あ、それについてだったら俺いいの持ってますよ」
石井さんは、あたしに伝票を渡すだけ渡して、さっきまであたしに話しかけていた男性を連れていってくれた。
石井さんとは、今みたいに仕事で最小限必要なことしか話したことがない。
自分の仕事はきっちりと自分でやる責任感の強さからか、営業成績は常にトップを争っている人だった。
昼前に佐々川さんが事務所に戻ってきたので、あたしは昨夜の差し入れのお礼を言った。
「おかげで疲れが癒されました。ありがとうございます」
「ありがとうございました!すっごく美味しかったです!」
あたしに続いて仁田さんもお礼を言う。
佐々川さんは嬉しそうにしていて、それ以降も何かにつけてペットボトルのジュースを差し入れてくれるようになった。
「いつも悪いですよね。何かお礼したいな」
仁田さんがミルクティを飲みながらそう言った。
あたしもレモンティを飲みながらそれを考えた。
佐々川さんは何が好きなんだろう。
ちなみに、付き合うかどうかの返事はまだ出来ていない。
でも少しずつ彼に絆されている今、前向きに考えたいと思っている。
お礼も兼ねてちゃんと話をしよう。
あたしの隣には常に仁田さんがいて、なかなか佐々川さんと2人で話せるタイミングがなかったけど、雨の日の翌日に、風邪を引いたとかで彼女が休んだ。
コトンと、1人でいるあたしの机に置かれたのはレモンティ。
佐々川さんだった。
いつもあたしがレモンティを飲んでいるから、こっちが好きだと思われたのだろう。
でも好意でしかも奢ってくれたのに、違うと言って嫌な気持ちにさせる必要もない。
いつもどおりにお礼を言って、それでちゃんと話をするつもりだった。
だけど、ポツリと佐々川さんが呟いた。
「仁田さんいないと静かで寂しいですね」
あたしがそれに同意する前に胸ポケットのスマホに着信が入ったらしく、彼はその画面を確認していた。
その際、ほんの一瞬だけ、あたしにもその画面が見えた。
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新着メッセージがあります。
エリナ:昨夜はありがとう♡♡
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――エリナ。
仁田エリナ。
それだけで理解できた。
あたし宛に差し入れられていたジュースは、あたしが返事を保留していた間に、彼女のための物に変わっていたのだと。
翌日、あたしはいつものお礼にと佐々川さんにハンカチをプレゼントして、「そんなに気を遣わなくていいですよ」と伝えた。
それであたしが気付いていることが分かったようだ。
それでも仁田さんとあたし2人に向けて、ジュースの差し入れは続いたのだけれども。
それから1ヵ月後くらいだっただろうか、榛木が新規営業先で大量のケーキを買ってきた。
フルーツケーキで有名な店のようで、仁田さんが目を輝かせている。
「あたしマンゴー食べたい!マンゴー食べていいですか?」
「どうぞ」
そんなに熱心に言われて駄目だと言えるはずがない。
他の社員たちも美味しそうに頬張る彼女を微笑ましく見ている。
「和泉さんは?」
「あたしは締日で忙しいから、最後に残ったのでいいです」
今日は仁田さんに手伝ってもらえることもないから、彼女には自分の仕事が終わり次第帰ってもらった。
そう思っていると、その後石井さんが疲れ切った様子で戻ってきて、黙々と入力作業を始めたからちょっとだけほっとしていた。
結局、仕事を終えて時計を見ると22時過ぎ。
空腹で、いただいたケーキを食べようと残っていたのを見ると、そこにあったのはチョコレートケーキだった。
「和泉さんてフルーツケーキ嫌いなんですか?」
チョコレートケーキを前に息を呑んでいたあたしに、石井さんが不思議そうに首を傾げた。
「嫌いじゃないです。好きですよ」
「こんなメモが付いていたんですよ。『和泉さんのためにチョコレートケーキを残しておいてください』って。フルーツケーキ屋なのに、チョコレートケーキってなんでだろうと思ってたんですけど、誤解かなんかですかね?」
「誤解、なんです」
あたしは、1度もチョコレートケーキが好きだと言ったことはなかった。
榛木の過去の恋人による刷り込みなのか、彼は女性は皆チョコレートケーキが好きだという思い込みがあった。
あたしの誕生日やクリスマス、何かにつけて買ってきてくれたのはチョコレートケーキ。
あたしはチョコレートケーキが特別好きだったわけではないけど、彼が買ってきてくれるのが嬉しくて、彼がくれる物なら何でも嬉しかった。
彼があたしのためを思ってしてくれた行為そのものが嬉しくて、だから彼のくれるチョコレートケーキをいつも喜んで食べていたんだ。
「よかったら、こっちにします? 俺まだ手を付けてないんで。ブルーベリー?みたいなやつですけど」
ブルーベリー、クランベリー、ラズベリー…。
それは、ベリーの盛り合わせのようだった。
「でも悪いですから」
「いや。俺こそ本当にこだわりないんで、和泉さんの好きな方選んでください」
「……じゃあ、こちらいただいていいですか」
「じゃあ俺チョコレートの方貰いますね。ここで食べていくんだったら飲み物用意しますよ。何がいいですか?」
さすがに仕事の出来る石井さんは、すでに出口の辺りまで進んでいる。
「俺も飲むからついでです。別にジュース1本で生活苦しくなるでもないですから、どうぞお気兼ねなく。ちなみに今1番飲みたいのは何ですか?」
「今は…、疲れた時はミルクティだけど、甘い物食べるなら無糖の何かがいいです」
「無糖のミルクティなら俺入れますね。アッサムのいい葉っぱあるんです」
そう言って颯爽と給湯室へ向かった彼は、慣れた手付きでミルクティを入れてくれた。
冷蔵庫には「石井」と大きく書かれた牛乳も常備されていた。
「昔コーヒーと紅茶メインの喫茶店でバイトしてたことがあって、色んな豆とか葉っぱとかつい買っちゃうんですよね」
普段の仕事をしている姿しか知らないから、プライベートな面があるのは当然なのに意外だった。
「あたし、石井さんのこと全然知らないんですよね。これからもっといろいろ知ってみたいです」
感心したように言うあたしを石井さんは笑った。
「駄目ですよ。そういうこと言うと男はすぐその気になるから。――でも俺も、ほら、和泉さんて、いつも見てるけど、人を優先してばっかりじゃないですか。何が好きなのか気になっていたんですよね」
「そうなんですか?」
「例えば、1番好きなケーキって何ですか?」
「1番好きなのは、チーズケーキです。スフレタイプの」
「チーズケーキだったら、俺の得意先で今度開業5周年になる店があるから、その時買ってきますよ」
石井さんとちゃんと話すのは初めてのはずなのに、彼はそんなことを全く感じさせなかった。
入れてくれたミルクティは、今あたしが1番飲みたかった味だった。
そして、初めて人から買ってもらえるチーズケーキ。
その日を、待ち遠しく感じられるのだった。
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