告白
あたしと
花壇の前でチューリップを見ながら求婚されたのが、2人のはじまりだった。
それから小学校に通いはじめても、彼はあたしを好きだという態度をそれまでどおり包み隠さず接してくれた。
もちろんからかってくる男子はいた。
でも有くんはあたしを守ってくれたし、彼の真っ直ぐな性格は周囲から愛されていた。
おかしいことはおかしいとはっきり言うけれど、その言葉には毒を感じさない。
彼の纏う和やかな空気でみんなの力が抜けて、「しょうがないな」と受け入れてしまう、そういう男の子だった。
彼の見た目は――彼には2人のお兄さんがいるのだけれど、お兄さん達はいわゆるイケメンで、有くんは「人間顔じゃないよ」って励まされてしまうようなタイプだ。
でもいつもニコニコしていて、彼を見ていると安心したような穏やかな気持ちになれて、あたしにとっては顔も彼の好きなところの1つだった。
小学校3年生の時に事件が起きた。
2人で手を繋いで帰っていたら、3人組の男子中学生に囲まれてしまったのだ。
本気で悪さをしようとしていたのではなく、単純に反応が面白くて遊んでいただけなんだろうけど、その頃のあたし達は、制服を着た中学生達に絶対的な怖さを感じていた。
それでも有くんはあたしには触らせないと、小突かれながらも頑張って守ってくれたのを覚えている。
その時、たまたま有くんの1番上のお兄さんが通りかかった。
当時高校1年生だったお兄さんが
「何やっているんだ」
と静かに言っただけで、中学生達は蜘蛛の子を散らすみたいにいなくなってしまった。
あの時のことは忘れられない。
弟とその友達を守るためだったのだろうけど、有くんと全然違う鋭い目と、低い声。
あたしは中学生達に対して以上に、怯えて固まってしまった。
あたしの中のお兄さんへの印象は、あの時に刻まれたままでいる。
そのお兄さんの名を、
そんなことがあって、有くんはお兄さん達の通う空手道場に通いはじめた。
穏やかな彼に格闘技は似合わない気がしていたのに、案外性に合っていたらしい。
礼儀作法を教えてもらって、前よりも立ち姿や動作がきれいになったように見えた。
2番目のお兄さんの
あたしと有のファースト・キスは、中学3年生の有くんが黒帯をとった日だった。
中学校に上がってからぐんぐん背が伸びた有くんは、その頃にはもうあたしより10cm以上高くて、あたしに合わせて屈んでいたのがなんだか忘れられない。
そして一緒の高校に通いはじめた今も、彼は変わらずにあたしの隣にいてくれる。
身長はさらに伸びて、声も低くなった。
ほんの少し前まではあたしと同じ大きさだった柔らかい手は、今ではあたしの手がすっぽりと入ってしまうほど大きな、男の子の手になった。
だけど、彼の笑顔は昔と変わらない。
「
「椎菜がいてくれるからいつも幸せでいられるんだ」
「椎菜に格好いいとこ見せたいから頑張れるんだ」
「椎菜を守りたいから強くなれるんだ」って。
それはあたしも同じ。
彼といると、温かで優しい気持ちになれる。
有くんのことが本当に好きで、あたしも恥ずかしくないよう頑張らなきゃって思うし、実は繊細な彼のことを、大切に守りたい。
あたしにとって有くんは、世界で一番幸せでいてほしい相手なのだから――。
学校では、女の子同士で漠然と将来の結婚の話も出た。
まだ現実味のない夢のような話だけど、どんな結婚式がしたいとか、新婚旅行はどこに行きたい、とか。
あたしは満天の星が見えるような所に行ってみたいな――なんて言ったら、それを聞いてた男子達が有くんに「だってさー」なんて話を振ってた。
有くんはそれが満更嫌ではなさそうに「じゃあ調べて金貯めないとなー」といつもの笑顔で答えていた。
あたし達が出会ってから12年。
この先、それと同じ分だけまた時間を過ごせば、あたし達結婚してるのかな。
将来の仕事のことはまだ全然想像もつかなかったけど、有くん以外の人と結婚する未来は、想像することも出来なかった。
ある日、有くんのご両親が、知り合いに不幸があって今夜から明日まで家を離れるという話があった。
「その間のご飯はどうするの?」
「金もらったから、それで凌げだって。息子3人分の作り置きなんか出来るかって言ってた」
「じゃあ、あたし作って持っていこうか。明日のお弁当も作るよ。何か食べたい物があったら言ってね」
「本当? やったー」
うちの両親は共働きで、帰りが遅く土日も空けることが多いため、あたしと弟は小学生の時から祖母に料理を教わり、自炊には慣れていた。
お兄さん達はもう大人だから、外で食べてくるだろうか?
でも、もしかしたら家で食べるかもしれない。
そんなことも考えながら、その日は早めに学校を出て買い物に行き、夕飯の支度をはじめた。
明日のお弁当は有くんリクエストの唐揚げをメインに作ることにして、今夜の分はロールキャベツを作った。
トマトベースでロールキャベツ以外の具材も入れて、これだけでもいろんな物を食べられるように。
昔、有くんのお母さんが作った時に兄弟全員に好評だったけれど、面倒くさがってそれきり食卓に並んだ試しがないと話していたのを思い出したのだ。
それももう何年も前のことだから、みんなの好みも変わっているかもしれないけど。
少しでも、喜んでもらいたいから。
有くんは空手部の練習があるから、帰ってくるのは7時くらい。
平日は空手部で、土曜日は道場で稽古をしている。
空手は流派がいろいろあるけれど、うちの学校の先生は道場の先生と同じ師匠に付いていたらしく、それが有くんが高校を選んだ理由だった。
智さんも、同じ理由でこの高校に通っていたと聞いた。
うちから有くんの家までは歩いて行ける距離だから、普段あまり使わない大きな鍋で作って、そのまま袋に入れて持っていくことにした。
だけど、玄関でチャイムを鳴らしても返事がない。
そろそろ帰ってくると思うからこのまま待っていようか、と思っていたら、後ろから声を掛けられた。
「椎菜ちゃんじゃん。どうしたの?有待ってる?」
この親しげな話し方は勇さん。
美容師になるための専門学校に通っていて、カラフルでおしゃれな髪型をしている。
「ご両親がいないって聞いて夕ご飯作ってきたんです。よかったら…」
「まじ? やったあ」
よかった。喜んでもらえて。
でも、左手に持っているコンビニの袋が気になってつい見てしまったら、
「ああ、これ? カップ麺だから。いつでも食えるから。それより椎菜ちゃんの手料理の方が大事じゃん?」
と中身を見せてくれた。
「ああー。椎菜ちゃんまじ可愛くていい子だよなあ。なんで有なのかなあ。ねえ、俺と」
「椎菜!」
勇さんの言葉に被せるように大きな声で呼ばれて振り返ると、走って帰ってきたと見られる有くんがいた。
「ごめん、遅くなって。大丈夫?
大きな歩幅で近付いてきて、そのままあたしと勇さんの間に入る。
「何だよ。カップ麺買ってきてるんじゃん。
大人っぽくなってきたと思っていた有くんも、お兄さん達の前では末っ子の顔になる。
勇さんはそれを面白がってよくからかっているみたいだ。
「たくさん作ったから、みんなで食べて。ね」
「ん〜。椎菜がそう言うんなら」
あたしの言葉に、有くんはしぶしぶ頷いてくれた。
「
「外で食べて帰るってさ。残さず全部食ってやろうぜ」
「あのっ。本当にたくさん作ったから。無理しないで、ね。よかったら明日の朝とか、…お兄さんのお昼ごはんとかに食べてもらえたら。ね」
そう言って鍋の入った袋を有くんに差し出すと、中身を見て納得してくれた。
全員が食べられるだけの分を作ったのだ。
温め直せば、翌日でも口にするのではないかと思って。
その翌朝、あたしはいつもより早く家を出て有くんの家に向かった。
いつもは遠回りして有くんがうちまで迎えにきてくれるけど、今日はお弁当を一番に届けに行こうと思って。
そして有くんの家の玄関前に着くと、出勤しようと出てきた智さんに会った。
初めて会った時は高校のブレザー姿だった智さんは、今はスーツに身を包んでいる。
「あ。…おはよう、ございます」
つい、ビクッとしてしまった。
だめだな、普通に接することが出来ない。
気を悪くさせてしまわなかったかな。
「おはよう。昨夜はありがとうな。有達喜んでたよ。俺は今日昼に一旦戻ってくる予定だから、その時食わせてもらうわ」
初めて会った時よりずっと柔和な感じになった。
でも、相変わらずあたしは彼を前にすると緊張してしまう。
その時、玄関の中から有くんと勇さんの声が聞こえてきた。
「…んだよ。じゃあまだ手ぇ出してねえの?」
「いいんだよ。俺、椎菜とは将来結婚するつもりだから。今は椎菜を傷つけるようなことしたくないんだよ」
「ばーか。女心分かってねえなあ。そんなんじゃ振られるぜ」
外にあたしがいるとは露ほども思っていない会話の内容に、どう反応していいか動揺していると、智さんがツカツカと玄関に戻って勢いよく扉を開けた。
「お前ら。さっさと表に出ろ」
久しぶりに聞いた智さんの凄みのある声に固まるあたし。
有くんと勇さんも、智さん越しにあたしを見て同じように固まっていた。
「――言っておくが、本当に女心が分かっているのは有の方だぞ。間違えるなよ」
智さんは格好いいから、昔からモテると聞いている。
彼女がいた話も何度か聞いた。
今現在いるかどうかは知らないけれど。
勇さんもモテるのに、長続きしないらしい。
最初はいい感じなんだけどね、なんて。
それで「椎菜ちゃんが恋人だったらずっと大切にするのに」と付け足して有くんが怒るまでが、定番の流れだった。
「じゃあ、昼飯有り難くいただくから」
と言って仕事へ向かう智さんに、
「ダメダメ。俺のために作ったんだから」
と、後ろから有くんが声を掛ける。
「有くんのお弁当はちゃんと作ってきたから、ロールキャベツはお兄さんに食べてもらおうよ。有くんのリクエストどおり唐揚げもいっぱい入れたからね」
今朝、自分のと一緒に作ったお弁当を渡す。
そうしたら、嬉しそうに頬を緩めて受け取ってくれた。
「有だけ爆発しろ」
学校へ向かって歩き出したあたし達に、勇さんがそんな言葉を投げた。
有くんは笑って、いつものようにあたしの指に指を絡めて手を繋いだ。
そういえば、手の繋ぎ方がこんな風に変わったのはいつからだったかな。
学校が終わって一度家に帰った後、昨日の鍋を回収しようと有くんの家へ行くと、有くんはまだ帰っていなかった。
その代わりに、帰宅していた有くんのお母さんが出迎えてくれた。
鍋はきれいに洗ってくれていた。
洗ったのは智さんらしい。
おばさんは「せっかくだからお茶でもしていって」とあたしを引き留め、お茶菓子を出してくれた。
「椎菜ちゃん来てたんだ」
勇さんの声だ。
「有は? まだ帰ってない? よっしゃ! 椎菜ちゃんゆっくりしていってよ。そうだ。昨日のロールキャベツのお礼に今度俺と飯食べに行かない? バイト代入ったから結構贅沢できるぜ」
「バカ言ってんじゃないの。女子トークしてるんだからあっち行っててちょうだい」
帰ってくるなり矢継ぎ早に喋る勇さんを、おばさんはシッシッと追い払った。
綺麗な人だけど、本人曰く「男3人育てたせいで口が悪くなった」らしい。
「まったく。ごめんねえ。勇じゃなくて有を選ぶあたり、椎菜ちゃん見る目あるわ。親のあたしが言うのも何だけど、有は見た目はアレだけど、本当にいい子だから」
「――分かります。あっいや、あの、見た目も素敵ですけど」
話の流れで頷いてしまったけれど、おばさんは気にせず笑って流してくれた。
「椎菜ちゃんも本当にいい子だよね。こんな子逃したらもう次はないわよ、有」
おばさんはその場にいない有くんに呼びかける。
「でも、まだ若いんだからあんまり気にしないでね。有と一緒になってくれたらそりゃ嬉しいけど、椎菜ちゃんの人生は、椎菜ちゃんのものだから」
それまで有くんのお母さんとして話していたけど、最後はなんだか本当に女子トークというか、女の先輩としてからのアドバイスのようだった。
「ただいま」
「あら、智。今日は早いじゃない」
「兄ちゃんロールキャベツ全部食いやがっただろ。俺残り食うつもりだったのに」
「ああ? お前は昨夜食っただろうが。うっせえんだよ」
「もおいい加減にしな! 椎菜ちゃんがいるんだよ。――ごめんねえ、ガラが悪くってさ」
「大丈夫です。うちも弟がいるから、分かります」
きっとこれがこの家の日常の光景なんだろうな。
ここに有くんが加わるんだ。
いつか、もし本当にあたしが有くんと結婚したら、あたしにとってもこれが日常の光景になるんだろうか。
「それにしても、有遅いね。これ以上年頃のお嬢さんの帰りを遅くさせるわけにはいかないから、智、送ってあげてちょうだい」
おばさんの言葉に智さんが頷いて、一度脱いだ上着をまた羽織った。
「なんで兄ちゃんなんだよ。俺が送ってくよ」
「あんたが送ってく方が危ないでしょうが」
「あの、そんなに気を遣っていただかなくてもあたし大丈夫ですから」
送ってもらうほど遠くに住んでいるわけでもないので、丁重に断って1人で帰ろうとすると、すでに玄関では智さんが待っていた。
うちの鍋の入った袋と、もう1つ小さな紙袋を持って。
断ろうと思ったけど、その有無を言わせない態度に何も言えず、一緒に玄関から踏み出した。
道中、あたしは自分からは何も話しかけられなかったけれど、智さんは慣れた感じで自然に話を振ってくれて、学校でのこととか、有くんのこととかを途切れることなく話した。
そのせいか、智さんと一緒に帰るとなった時は家までが途方もなく遠いように感じたのに、実際にはほんの一瞬に思えるほど、短い距離に思えた。
その短い間にも、智さんは後ろから来る自転車やすれ違う人の荷物など、あたしにぶつからないよう気を遣ってくれていた。
本人は意識すらしていなかったのかもしれない。
それくらいさり気なく何でもないことのようだった。
うちに着いて鍋の袋を受け取った後、もう1つの方の紙袋も渡された。
「食事作ってもらったお礼。俺から。美味しかったよ。ありがとう、椎菜ちゃん」
椎菜ちゃん。
ちゃんと名前を呼ばれたのは初めてだと思う。
椎菜ちゃん、なんだ。
勇さんからもそう呼ばれているし、弟の彼女だとそんな感じなのかな。
あたしが耳にしたことがないだけで、今までも、彼の家の中ではそう呼ばれていたんだろうか。
渡された袋の中身は、女の子が好むような可愛らしい焼き菓子だった。
女の子ばかりが行くお店に、智さんが自分で行って買ってきたの?
「有は何かするって言ってたか?」
「今度の日曜に一緒に遊びに行って、そこで何か奢ってくれる予定です」
「ああ、そうだな。一緒の方がいいよなあ。 ――でも、勇からは礼を受け取るなよ。何か貰う時は有を通してにしろ」
「?はい」
その言葉の意味はよく分からなかったけれど、とにかく早く智さんに帰ってもらわなきゃと思っていたから、とりあえず返事をしてさよならを伝えて家に入ろうとした。
だけど慌ててしまって、すでに薄暗くなっていたこともあって、歩き慣れた玄関前の段差に足を引っ掛けてしまった。
「大丈夫か」
背が高く手足の長い智さんは、あっさりとあたしの手を掴んだ。
左手首だった。
「大丈、夫です。…ありがとうございます」
息が苦しい中、なんとかお礼を言うことは出来た。
智さんが帰った後、家に入ったあたしは荷物を置いて一目散に洗面所へ向かった。
水をいっぱいに出して、熱を持った左手首を水で濯ぐ。
だけどどんなに洗っても、彼の触れた感触と体温を消すことは出来なかった。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
身体が熱くて、強く激しく打ち付けてくる鼓動は、鎮めることも出来ない。
有くんといると、温かで優しい気持ちになれる。
――だけど、
智さんといると、激しい熱に冒されるように、ままならない感情が込み上げてくる。
消えない彼の感触
声
眼差し
その全てが、あたしの中いっぱいに支配してくる。
消したいのに消せない。
止め処なく流れて落ちる涙が、冷たい流水に、ただただのまれていく。
一番大切なのは有くん。
世界で一番幸せになってほしいのは有くん。
それは真実。
だから
一生心に蓋をして生きていくんだ。
この胸を刺すような激しい痛みも
洗い流すことの出来ない
名前を付けてはいけないこの狂おしいほどの熱情も――…
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