第2話 桜佑と葉太と桜子

「お茶を持ってくるわね」

と桜佑くんのお母さんが言う。

 早々に帰ろうと思っていたぼくは、ちょっと待ってくれとその背中に声をかけようとした。

 すると今度は桜佑くんが背後から、気軽に部屋に招き入れようとしてくれる。

「じゃあ……お邪魔します」

 ぼくは、渋々桜佑くんの部屋へ足を踏み入れた。


 部屋の中は特に散らかっている様子もなくて、あるのは勉強机と、パソコンと、ベッドと本棚。

「ごめんなさい、座るとこないですよね」

と言った桜佑くんが勉強机の椅子を譲ってくれて、ぼくがそれに腰掛けると、桜佑くんは同じようにしてベッドに腰掛けた。

 お母さんがすぐにお茶を持ってきてくれて、今度からここに椅子をひとつ増やす予定だと教えてくれる。

 ぼくははなしを聞きながら桜佑くんを盗み見た。

 地味な顔立ちだけど、目、大きいな。

 お母さんに似て少し小柄かな。

 問題児かと思って警戒していたけど、思っていたよりは上手くやれるかもしれない。

 それからぼくたちは、桜佑くんが使っている教科書を並べたり開いたりして、どこをどういうふうに勉強していくべきか、軽く相談をしたりした。

 ぼくは人にものを教えた経験なんてほとんどないから、これはぼくもちゃんと気合を入れて取り組まなくては、と、並べた教科書を見つめながら身が引き締まるような思いだった。

「秋田先生、これから宜しくお願いします」

「そんな、秋田先生なんて……。歳も近いし、葉太でいいよ」

「じゃあ……葉太、先生、で」

「うん、宜しくね、桜佑くん」


 翌週からぼくは、本屋で買い込んだ参考書を5冊も抱えて桜佑くんの家に通った。

 桜佑くんは比較的真面目で、勉強に取り組んでいるときには真剣にノートに向かって文字を並べていた。

 なんだ、ぼくも案外上手くやれる。

 自分の知らなかった才能を発見した気がして嬉しくなったぼくは、ある夜、自分の部屋で缶ビールを飲みすぎて、酔い冷ましにふらりと外に出た。

 家の周りをぐるりと回って帰ろうと思っていると、途中で右手にある小さな公園が目についた。

 もう夜の11時なのに、外灯に照らされて誰かがいるのが見える。

 公園の脇の、フェンスの近くに5本並んで植えられている桜の樹のそばに、女の子が立って、なにやらごそごそと動いていた。

 ぼくはそのシルエットに見覚えがあって、まさか、と思いながら酔ったままの足でふらふらとその子に近づいた。

 近づかざるを得なかった。

 だってその子は、長いまっすぐな黒髪の、膝までのスカート、ふわふわしたシャツ、雰囲気で分かる。だってきみは、

「櫻子ちゃん……」


 ぼくの声に驚いたように振り向いたその子は、櫻子ちゃんに本当にそっくりだった。

 長い黒髪、丸くて大きな瞳、ほんの少しピンクに色づいたほっぺた。

 でもその子は、ぼくの顔を見ると驚いてから、柔らかく笑ってこう言った。

「あれ、葉太先生。なんでおれの名前知ってんの?」

「え、」

 櫻子ちゃんじゃなかった。

 よく似てるけど、近くで改めて見ると櫻子ちゃんじゃない。

 櫻子ちゃんじゃなくて、おれ、って言ってて、ぼくのことを葉太先生って呼ぶ人は、酔ったぼくの頭の中にはひとりしか浮かばなかった。

「…………、桜佑くん!?」

 今度はこっちが心底驚いて、うっかり大声を出すと、桜佑くんはしーっと自分の口もとに人差し指を当ててから、

「違うって。今は桜子だよ、葉太先生、今自分でそう呼んだじゃないですか」

と、もう一度笑った。




「どうしたの、その格好……」

 すっかり酔いが冷めたぼくは、公園の入り口にある自動販売機でペットボトルのお茶をふたつ買ってから、桜佑くん、違った、今は桜子ちゃん……と一緒に桜の樹の下に置かれたベンチに腰掛けた。

 ベンチには桜佑くん、じゃない、桜子ちゃんの大きな黒い鞄がどっしりとした姿で置かれていて、なにやらこの鞄の中に、着替えとか、お化粧の道具とか、なんかいろいろ入っているらしい。

 なるほど彼、ああ違う、彼女の深夜徘徊の理由はこれか。

 学校に行かない理由も、これかもしれない。

 桜子ちゃんは

「可愛いでしょ」

と言って、ぼくからペットボトルを受け取り、ちゃんと膝を閉じてそのお茶を飲んだ。

 そりゃ可愛いさ、少なくともぼくには可愛く見えるに決まっている。

 だってきみは……櫻子ちゃんにそっくりだ。

「あの、趣味なんだろうからその姿にごちゃごちゃ言うつもりはないんだけどさ、でも、こんな時間にひとりで外に出てたらだめだよ」

 ぼくがまずそう窘めると、桜子ちゃんはうーん、と困ったような表情を作ってから、

「それはまあ、そうなんですけどね。でも家ではいつ見つかるか分からないから、こんなことできないんですよね……」

と、今度は少ししょんぼりしてみせた。

 今度はぼくがうーんと唸る。

 櫻子ちゃんにそっくりな桜子ちゃんから桜佑くんの声がする……。

 なんとも不思議な感覚だ。

「ここでなにをしてるの」

「写真を撮ってたんですよ」

「写真?」

「そう。見ますか? なかなか上手く撮れてると思うんだけど」

 そう言った桜子ちゃんが差し出したスマホの中には、桜の樹を背景に楽しそうな顔をしている桜子ちゃんが何枚も入っていた。

 指でスライドするごとに季節がどんどん巻き戻っていき、雪の中でもこもこの服に包まれてる桜子ちゃん、秋色の可愛い服を着た桜子ちゃんが、何枚も何枚も出てくる。

「きみは女の子になりたいの?」

「別に女の子になりたいわけではないんですけど、ただ可愛い格好をするのが好きなんです」

「へぇ……」

「お母さんたちには、言わないでくださいね。秘密にしてるんです、これ以上心配させたくないし。お母さん多分、おれがこんなことしてるの知ったら、ひっくり返ってしまうから」

 ぼくはあの優しそうなお母さんを思い出した。

 彼女もまさか自分の息子が夜な夜な近所の公園で女の子に変身しているなんて、夢にも思わないだろう。

「うん、そうだね。流石に……。でもこの服、どうやって買ったの、お化粧の道具とかも」

「全部ネットで買いました。服も化粧品もウィッグも、小遣い貯めて」

「そうかー……。ネットって便利だね……。でもやっぱり、取り敢えずはさ、」

 こんな時間にひとりで外にいたらだめだ。ぼくはまずそれを心配することにした。

 桜子ちゃんは心配させたくないと言うけれど、お母さんはもう既に心配している。

「もうちょっとなにか、いい方法はないかな」

「葉太先生、なんか先生みたいですね」

「ぼくはきみの先生のつもりなんだけど……」

 知ってしまったからには放っておくわけにはいかない。

 桜子ちゃんがぼくの親にもバレたくないというので、ぼくの家での保護は取り敢えず見送り。

 ぼくたちは頭を突き合わせてうんうん唸った。

 そうした結果、どうやら毎日ではないらしいから、それなら表向きは公園で運動をしていることにして、ぼくがそれに付き合ってやればいいんだという結論に達した。

 まあ、ひとりでなければ、それをお母さんにも説明すれば、今よりは安心な状態になるのではないか。

 それに汚いはなし、ぼくには下心もあった。

 ここに来れば、櫻子ちゃんに会っているような感覚になれるかもしれない。

 ぼくはまだ未練がましく櫻子ちゃんの面影を探している。

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