第3話 桜子と葉太と桜佑

 それからぼくたちは、週に一度か二度、夜にあの公園で会うようになった。

 ラインで桜佑くんから「今日どうですか」と連絡がくるから、ぼくは「いいよ」と応える。

 桜佑くんはトイレで着替えて、ベンチで丁寧にお化粧をして、長い髪の毛を被り、桜子ちゃんに変身する。

 それからその姿で公園の中をうろうろ回りながら、ほんの少ししかない遊具を背景に、スマホ片手に自撮りする。

 ぼくは時々そのスマホを受け取って、桜子ちゃんの全身を写してやったりした。

 ぼくは桜子ちゃんの屈託のない笑顔を、素直に可愛いと思っていた。

 その姿に何度も櫻子ちゃんを重ねた。

 時間は大体一時間くらい。

 ちゃんとお化粧を拭き取って、桜佑くんに戻ってから帰っていく。

 そんな新しい習慣にも慣れてきて、ぼくたちはすっかり仲良くなった。

 ぼくは時々ほろ酔いでその公園を訪れ、今日もそんなほろ酔いの日だった。

 桜子ちゃんが

「先生も一緒に撮ろう」

と言って、スマホ片手に楽しそうに、ベンチに座るぼくに身を寄せて顔を近づけてくる。

 だから、ぼくはその髪の毛の長さに不意にまた櫻子ちゃんを思い出して、ついうっかりだった。

 そのくちびるにキスをした。

「せんせ、へ、……んぅ、」

 ぐいっと首に腕を回して、その身体を抱き寄せてキスをした。

 手入れをされているらしいくちびるは柔らかくてふわふわしていて、ぼくは目を閉じたままそれに自分のくちびるを好きなように押し当てた。

 いろんな角度からそのくちびるを、くちびるで挟むようにして堪能していく。

 時折、ちゅ、と小さくリップ音が洩れた。

 相手がろくな抵抗をしないのをいいことに、ぼくは調子に乗って

「櫻子、」

と呼んでからその隙間に舌を這わせる。

 すると急に相手の身体が強張り、ぼくはそこではっと我に返った。

 あれ、櫻子ちゃん、違う、桜子ちゃん……桜佑くん……


「あっ、ごめん!!」


 ぼくは慌ててがばっと身体を離した。

 桜子ちゃんは、お化粧で大きくした目を更に大きく見開いて、困ったような、戸惑ったような、怒ったような、なんともいえない顔をして固まってしまっていた。

「あ、いや、大丈夫、あのおれ、……、」

 桜子ちゃんは焦ったようにそれだけ言って、俯いてしまった。

 しまった、やってしまった。

 ぼくはなにをやってるんだ。

「ああごめん、本当、そんなつもりじゃなくて、」

 ぼくがしどろもどろになって言い訳を並べようとすると、桜子ちゃんは一瞬だけ息を詰まらせてから

「あ、大丈夫ですよ、先生酔ってるんでしょう、おれ気にしないから、」

と言って、慌てたように鞄の中から拭き取りシートを取り出して、顔に丁寧に塗ったお化粧を拭って落とし始めた。

 それからトイレで着替えを済ませて、すっかり桜佑くんに戻った姿で、もう一度ぼくの隣に座った。

 そうして、迷うようにきょろきょろと目を泳がせてから、意を決したように、こつん、と、ぼくの肩のところに額を当てた。

「桜佑くん?」

「さっき呼んだ名前、多分、おれじゃないんですよね、分かってるから大丈夫です。でも、そしたら多分先生は、」

 桜佑くんは、とても小さな声で続けた。

「おれが、好きって言ったら、迷惑ですよね」

「え、」

「ごめんなさい、帰りますね、おやすみなさい」




 それから桜佑くんは、あの公園には来なくなってしまった。

 ぼくにラインをくれることなくひとりで公園に来ているかもしれないと思って、毎晩のようにぼくは公園を訪れてみるのだけど、やはり桜佑くんは来なかった。

 5本並んだ桜の樹が外灯に照らされて、はらはらとその葉を落とすだけだった。

 毎週火曜日には部屋で勉強をするけれど、あの話題に触れることはない。

 え、桜佑くんって、ぼくのこと好きなの……?

 いつから?

 どうして?

 ぼくは気づかぬうちになにか思わせぶりなことをしていただろうか。

 そんないたたまれない空気にぼくは2週間で早々に音を上げて、迷った末にラインで桜佑くんをあの公園に呼び出した。

 ぼくのほうから高校生を夜中に外に呼び出すなんて間違ってると思ったけれども、とにかくこのままではまずい。

 その気持ちのほうが勝った。

 きちんとはなしをしたほうが良い。

 このままではお互い気まずいし、勉強にも支障が出れば桜佑くんのお母さんや、紹介してくれた佐々木さんにも申し訳が立たなくなる。

 桜佑くんは、いつもの黒い鞄は持たずに手ぶらで公園までやってきた。


「ごめんね、呼び出したりして。来てくれてありがとう」

「いえ、おれもたまには、と思ってたし」

 ぼくと桜佑くんは前みたいにふたりで、桜の樹の下のベンチに座った。

 だけど、そこには今までにはなかった広い隙間ができた。

 ぼくは予め買っておいたペットボトルのお茶を片方桜佑くんに渡して、ええっと、と、手の中の自分のお茶を見つめた。

「ぼくは、きみに謝らないといけない」

「なんですか、大丈夫ですよ、気にしてないですって」

 桜佑くんは笑おうとしたけど、ぼくはそれを遮った。

「違うんだ、ぼくは、」

 これは話すべきなのか。

 今更になってまた迷う自分がいる。

 でも、ぼくに好きだと言った彼の気持ちを、このままなかったことにするのは、可哀想じゃないか。

 ぼくの汚い下心をなにも知らずに、このまま好きと思われ続けるのだとしたら、そんなのは卑怯だ。

 ぼくは一度大きく息を吐いて、やっぱり全部話そうと改めて決めた。

「ぼくはさ、きみを、別れた恋人に重ねていたんだ。そっくりなんだよ、きみ、あ、違うな、桜子ちゃんと。顔も、名前も」

「名前も、って、桜子……」

「そう、櫻子って名前だったんだ、難しいほうの漢字の、櫻子ね。桜子ちゃんを初めて見たとき驚いたよ、そっくりだったからさ。だからぼくは、いつもきみの味方のふりをして、きみに櫻子ちゃんを重ねて、櫻子ちゃんに会ってるつもりになって喜んでたんだ。ごめんね。本当。最低だな。だからきみは、こんなぼくを好きになんてならなくてもいいんだよ。それを伝えなきゃと思ってて……」

 このあとなんて付け足そう……。ちょっとなにが言いたいのか自分でも分からなくなってきた。

 ぼくがそうやって次の言葉を選んでいると、それまで黙ってぼくのはなしを聞いていた桜佑くんが、小さな声で呟いた。

「……、それでも好きって言ったら」

「え、」

 ぼくがその声に釣られて彼の方を向くと、桜佑くんはいつもと変わらない表情で、今度はまっすぐにはっきりと、

「そんなのは関係ないから、それでもおれが、葉太先生のことを好きだって言ったら、どうしますか」

と言った。

「どうっ、て……」

「先生はおれを嫌いになる?」

「まさか。そんなことはないけど、」

「じゃあいいです」

「なにが?」

「おれはカラダだけの関係でもいいですよ!」

「なに言ってんだきみは! いいわけないだろ!!」

 ぼくは目眩がしそうになった。

 急になにを言い出すんだこの子は……。

「葉太先生が傍にいてくれるなら、それでもいいよ」

「あのねぇ、桜佑くん……」

 桜佑くんのまっすぐな目に、ぼくはなんかもう脱力してしまって、へなへなと項垂れた。

 そうじゃない、そうじゃないぞ。

「あのね、桜佑くん。それはだめなんだよ。気持ちが伴わない身体だけの関係なんて、いくら男の子でも言ったらいけないよ。そんなのは虚しいだけだ。……ぼくはきみと、いや桜子ちゃんと、だな、一緒にいても、櫻子ちゃんに会っているのかきみに会っているのか自分でも曖昧なんだ。そんな状態できみの気持ちを受け入れるわけにはいかないし、第一きみまだ17歳の、しかも男の子だろ、身体の関係なんて持てないよ」

「……キスは?」

「キスもだめ。この間は本当にごめん」

 ぼくが改めて頭を下げると、桜佑くんはまだ納得行かないみたいで、もう一度ぼくに「でも、」と言った。

「そしたらおれは、この気持ちの持っていきようがない。これからだって火曜日に会うのに、おれは今度から先生にどんな顔をすればいいんですか」

「それは……」

「この気持ちは嘘じゃないんだよ。キスしてもらって浮かれてた。それが例え、おれに対してのものじゃなかったとしても」


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