葉桜の君に
夏緒
第1話 櫻子と葉太と桜佑
ごめんね、葉太くん。でも、やっぱりわたしじゃ駄目なんだよ。幸せになってね。さよなら。
「えっ、待って! 待ってよ! ちょっと待って櫻子ちゃーん!!」
ピピピピ、というスマホの軽快なアラーム音でぼくはいつも通り早朝6時に目を覚ます。
このところほとんど毎晩のように同じ夢を見る。
いや、夢なんかじゃない、これは、先月まさに僕の身に降りかかった現実だ。
櫻子ちゃんは、ちゃんとした理由も言ってくれないまま僕の元から居なくなってしまった。
振られたんだ、ぼくは。
あまりのショックに幾度も幾度も、そこばっかり同じ夢を見るようになってしまった。
ぼくは毎朝決まって盛大なため息を吐き、額に手のひらを乗せて夢だ夢だ夢だ、と念じる。
「悪夢だ……」
『葉桜の君に』
「葉太くん葉太くん、ちょっといいかな、きみ、火曜日ヒマだろう」
忙しい時間帯を過ぎた午後2時過ぎ。
佐々木さんがぼくを呼び止めた。
佐々木さんの昼飯は週6でうちの生姜焼き定食だ。
今日も例に漏れず、そろそろ食べ終わりそうな生姜焼きを箸でつついている。
さっきまでよりもお客さんは随分減って、午後の家族経営の定食屋『あきたや』にはのんびりとした時間が流れている。
「まあ店は休みですけど、どうしたんですか」
ぼくは隣の席の空いた食器を下げようと、四角い盆ごと丼ぶり皿を抱えて片手でテーブルを拭く。
そうして佐々木さんの方に顔だけ向けると、佐々木さんはそのおっさんらしい体型に見合ったふくよかな顔をにこにこさせて、
「ちょっとアルバイトをしてくれないか」
とぼくに聞いてきた。
「アルバイト?」
佐々木さんはうち一番の常連さんだから、ぼくは今更わざわざ立ち止まってはなしを聞いたりはしない。
厨房のほうに盆を下げて、他に空いた盆がないかうろうろ探す。
佐々木さんは佐々木さんで慣れたものだから、そんなぼくの様子なんて気にも留めない。
はなしを聞くと、佐々木さんはよく通るその声で、
「そうなんだよ。実はおれの知り合いにな、綺麗な奥さんがいてな、そこの家の男の子が、あー、今は高校生らしいんだが、学校になかなか行かないんだと。そんでよ、夜はこそこそ出かけるらしいんだが、昼間はまるで外に出ないからさ、まぁいわゆる引きこもりってやつだわな。そんでな、そこの奥さんがせめて勉強だけでもなんとか、って言って、家庭教師してくれる人を探してるんだよ」
と、ちょっと照れくさそうな感じで言ってきた。
「はあ、」
「葉太くん大学はもう去年卒業したんだろ、そしたらさ、店が閉まってる火曜日ならヒマなんじゃねえかなあと思って、おれぁ奥さんに言ったんだ、アテがあるから聞いてきてやるよって」
「え、ちょっと待ってください? アテってぼくのことですか」
「どうせこないだ彼女に振られたんだから予定なんてないんだろ? 頼むよー、おれぁあの奥さんにいい顔をしてぇんだよ、な?」
「ちょっと待って、いろいろツッコミどころが……」
思わずぼくは足を止めた。
佐々木さん、自分の奥さんに今のだらしない顔見られたらきっと怒られるぞ、とか、なんで佐々木さんがぼくが振られたことを知っているんだ、とか、ちょっとそのはなし、ぼくには荷が重い気がする、とか、どこから口を挟めばいいのか分からなくてしばらく逡巡する。
そうしていると、奥ではなしを聞いていたらしいぼくの母さんが厨房から出てきて
「あらいいじゃないの」
と勝手に承諾してしまった。
「うちのお客さんを増やすチャンスかもしれないし、行ってきなさいよ。勉強だけじゃなくて、いろいろ話し相手にもなってあげたらいいじゃない」
そう言って母さんがぼくの背中をばちんと叩いたことで、ぼくの休日は周りの大人たちの事情によって、何故か近所の家の家庭教師をすることになった。
「ここ、か……」
確かにぼくの家からそんなに離れていないところに、その家はあった。
歩いて10分くらいだと言うのに、生活圏内にないとこんなにも知らないものなんだな。
綺麗な外観の白い一軒家に白い門扉。
表札には『春川』と書かれている。
佐々木さんが前もっていろいろと連絡してくれているというので、ぼくはその塀の前で散々躊躇った末に一度大きく深呼吸をして、恐る恐るそのインターホンを軽く押した。
知らない人の家を訪ねるなんて、いくつになったって、どうやったって緊張する。
今日は挨拶に来ただけだ、顔を見せて、手土産の和菓子だけ渡したら早々にお暇しよう。
そう思っていると、はい、とインターホン越しに女性の声が聞こえたので、
「あ、すいません、あの、佐々木さんに紹介いただいてきた秋田と申します」
と、ぼくは緊張で上ずりそうになる声をなんとか抑えつつ、カメラに向かって軽く頭を下げた。
すると、
「ああ、伺っております、少々お待ちくださいね」
と柔らかな声が返ってきて、しばらくすると玄関から優しそうな、小柄な中年の女性が出てきた。
「秋田、葉太さん、ですね、初めまして、春川と申します。この度はとんだご迷惑をおかけしまして本当に申し訳ございません。息子の桜佑のこと、どうかよろしくお願い致します」
お母さんと見られるその女性は、門扉を開けるやいなや深々と頭を下げてまず今回のことを詫びてきた。
佐々木さんの知り合いらしいから、佐々木さんの性格を知っていて、強引にはなしを勧めてきたと見当でもつけていたのかもしれない。
「あ、いえいえ、こちらこそ、お役に立てるかは分かりませんが、どうぞ宜しくお願いします」
釣られるようにして同じく頭を下げ、おうすけ、と読むのか、と、一昨日佐々木さんから渡された紙切れを思い出した。
その紙切れにはこの家の住所と、簡単な地図と、春川桜佑という名前が書かれていて、ぼくは、この名前はどう読むのだろうかと思っていたのだ。
佐々木さんに聞きそびれてしまって、万が一人の名前を間違うなんて失礼だから、どうしようかと困っていた。
おうすけくんだな、おうすけくん桜佑くん、と、頭の中で繰り返しながら、お母さんの後に続いて家の中へとお邪魔する。
玄関ホールは花のような優しい香りが漂っていた。
家の中は綺麗に片付けられていて、統一された家具や装飾品が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
ぼくが手土産の和菓子を差し出すと、お母さんはそれを快く受け取ってからリビングでぼくにお茶と、その和菓子を開けて出してくれた。
はなしが途切れないように気を使ってくれて、いいお母さんだな、と思った。
「桜佑、2階の自室にいるんです、宜しかったら、ちょっと顔を見てやってください」
というお母さんの言葉でぼくたちは2階への階段を上がり、左側に位置するドアの前に立った。
「桜佑、秋田さんが来てくださったわよ」
お母さんがそう声をかけてノックをすると、すぐにドアはがちゃりと開けられて、中から男の子が顔を出した。
「あ、初めまして、秋田さん。春川桜佑です、よろしくお願いします」
「あっ、こんにちは、初めまして。役に立てるか分からないんだけど、出来る限りのことは頑張るから、よろしくね」
出てきた男の子は至って普通だった。
引きこもりとか深夜徘徊とか聞いていたから、どんな暗そうな子か、とか、どんな不良かとか、いろいろ想像していたのに、目の前にいる彼、桜佑くんは、ごくごく普通の、明るそうな17歳だった。
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