第16話
美咲はクロークにバッグを預け、雪乃と共に部屋に向かった。彼女の部屋は、最上階にあるスイートルームだった。部屋に入った美咲は、思ったことを口に出す。
「いい、お部屋ですね」
「オーナーが用意してくださったの」
雪乃は部屋のカーテンを引いて回った。それから美咲に向き直る。
「でも、このホテル最近雰囲気が変わったのよ。趣味が悪くなった」
「私は素敵だと思いますけど。雪乃さんは、素晴らしい感受性をお持ちなんですね」
美咲としては皮肉のつもりだった。子供を二人もさらっておいて、部屋の内装に文句を言う余裕があるとは。雪乃はふっと笑った。
「どんな力があっても1人だもの。周りは私を置いて、どんどん変わっていってしまう」
そう言われても、美咲は彼女に同情しなかった。寂しいから子供をさらったとでも言うのか。雪乃の美貌と才能があれば、いくらでも人を集められるだろうに。称賛も憧憬も、美咲には望むべくもなかったものが手に入るはずなのに。ひんやりとした冷気が身体を包み込む。いつの間にか雪乃が至近距離に立っていたので、美咲は息を飲んだ。
ねえ、美咲さん。雪乃が囁いた。
「あなた、玉森さんの恋人なの?」
「……違います」
「ああ、やっぱり。あのひとは人間なのに私に似た匂いがする。人にはない力がある代わりに誰も信用せず、誰も愛さない。自分の心のうちを一切口にはせず、他人を利用し、あなたを術で縛ってる」
「私は術なんてかけられてません」
「本当に?」
雪乃はじっと美咲を見つめた。その美しさがまぶしく思えて、美咲は目を伏せる。雪乃はこちらを見たまま尋ねてきた。
「あなたは1人で私に会いに来た。それはどうして?」
「雪乃さんがそう言ったから」
「だとしても、普通一人で行かせたりしないわ。昨夜だって、あなたのことを部屋に置きざりにしたでしょう。あなたを捨て駒だと思っているからじゃないの?」
「そんなことより、兎月村に何をしに行ったのか教えて下さい」
美咲は彼女の話を終わらせてそう言った。まともに話してはいけない。このひとは、美咲の心を揺さぶって惑わそうとしているのだ。雪乃はクロークを開けて、吊るされていたものを差し出した。それは、紺色の地に白で桜の花模様が刺繍された着物だった。美咲は着物を見て直感する。
「妙恵寺から奪った着物ですね」
「奪ったというのはおかしいわね。元々私の着物だもの。私にお供えするために、みんなが一生懸命縫ってくれたのよ」
「……妙慶寺のご住職はあなたに襲われて倒れました。原田ゆいちゃんはあなたに触れて命を落としました。その着物を持って村を出た間口さんは、祟りだと言い残して亡くなりました」
あなたのせいで多くの人が傷ついて、命を落としている。そのことをどう思っているのかと、美咲は尋ねたかった。雪乃はただ唇をあげただけで、何も言わなかった。だからどうしたのだと、その目は言っていた。
彼女は緩く笑んだまま、継ぎのある袖口をなぞる。
「私は、この袖を取りに兎月村に行っていた」
「なぜ、今更その着物を取り戻したんです」
「着せたい人が見つかったから」
美咲の脳裏に、ミクと久美の姿が思い浮かんだ。
「あの二人に、着物を着せるつもりだったんですか」
「いいえ。あなたよ、美咲さん」
思わぬことを言われて、美咲は息を呑んだ。雪乃は着物を美咲の身体に当てようとした。美咲はとっさに身を引く。この着物は危険だ。そういう予感がした。
「やっと、人形が完成しそうなの。私にとって、京都の女の子のイメージはあなた」
「私は、名古屋の人間です」
「あなたには着物が似合う。ギャラリーで見たとき、あまりに綺麗だから驚いたわ」
雪乃が一歩ずつ近づいてくる。ジリジリと追い詰められた美咲は、部屋の戸に背をつけた。あの着物を着てはいけない。そういう直感があった。雪乃の全身から冷気が立ち上って、美咲の身体を冷やしていく。動けずに固まっている美咲に、雪乃が着物を押し当ててきた。
「寒いんでしょう、これを着たら暖かくなるわ」
美咲の全身が震え出したそのとき、インターホンの音が響いた。雪乃の視線がふっとそれた隙をついて、美咲は指を組んで叫ぶ。
「急々如律令!」
美咲の身体が真っ白に光り輝いて、雪乃が後ずさった。美咲は浴室に駆け込んで、風呂場の戸を閉めた。どんどんと戸を叩く音が響いている。開けて、美咲さん。ひどいことなんてしないから。優しげな雪乃の声が恐ろしい。美咲は後退り、シャワーヘッドに視線を向けた。一か八かだ――。温度を最大にし、勢いよくコックをひねる。戸を開けると同時に、雪乃にシャワー口を向ける。熱湯を浴びた雪乃は悲鳴を上げてしゃがみこんだ。美咲はその隙に部屋の外に出ようとしたが、ドアノブが凍り付いている。美咲は足首を掴まれ、引きずり倒された。
雪乃は真っ赤に腫れた顔をこちらに向け、美咲を睨んだ。その恐ろしい顔に、美咲は息を飲む。
「こんなことをして……ただで済むと思わないで」
雪乃が着物を羽織ると、彼女の髪が真っ白に染まった。雪乃の肌の赤みが引いていき、雪のように白い肌へと変わっていく。その回復力に、美咲は目を瞠った。彼女は白い息を吐きながら、陶器のような指をこちらに伸ばした。
「急々如律令……」
印を組もうとした手を、雪乃に掴まれて悲鳴をあげる。指先がみるみるうちに凍りついていき、美咲は悲鳴を上げた。雪乃は笑いながら美咲の頬に手をのばす。彼女が浮かべているのは、美しい顔に似合わぬ加虐的な笑みだった。
「二目と見れない顔にしてあげる」
冷たい指が美咲の頬に触れかけた瞬間、美咲の脳裏に玉森の言葉が蘇った。危険だと思った時は、僕の名前を呼んでください。
「助けて、タマちゃん……!」
次の瞬間、ドアノブを覆っていた氷が砕け、勢いよく扉が開いた。そこには、帽子を目深にかぶったピザの配達人が立っていた。彼は「タマーズピザでーす。明太チーズピザ、お待ちどうさまです」と言って、ピザの箱を差し出してくる。美咲はポカンとして彼を見上げた。雪乃は髪を振り乱し、鋭い目で彼を睨みつける。
「頼んでないわ。さっさと消えなさい」
「消えるのはあんただ」
配達人はそう言って、箱から出した熱々のピザを雪乃に投げつけた。悲鳴を上げた彼女に向けて、バッと扇子を開く。配達人がかぶっていた帽子が落ちて、その顔が露わになった。美咲はハッとしてその人を見る。
「玉森佑……!」
彼は美咲を引き寄せて唱えた。
「地の精霊よ、玉森の血に置いて命ずる。かの悪鬼を祓い給え――臨兵闘者皆陣烈在前、破!」
ぐーちゃんが頭をもたげ、恐ろしい白蛇となって雪乃に襲い掛かった。雪乃はふらりと身体をよろめかせ、そのまま意識を失った。玉森はよろめいた雪乃を抱きとめ、彼女が羽織っていた着物を剥ぎ取る。すると、真っ白だった髪が黒に戻っていった。玉森は懐から縄を出して、慣れた様子で雪乃を捕縛している。美咲は呆然と彼の行動を見ていた。
「玉森さん……?」
「ああ、もったいない」
彼は床に落ちているピザを拾い上げ、兄さんに食べさせよう、などと言っている。
玉森はこちらに目を向けて、風呂に入ってはどうかと勧めてきた。まだ混乱したままの美咲が入浴を済ませると、玉森がテレビを見ていた。
ニュースでは、ちょうど誘拐事件についての速報を報じていた。テロップには「神隠し事件 少女二人見つかる」と出ている。ちょうど、アナウンサーが公園の前でリポートをしていた。
「今日午後4時ごろ、行方不明になっていた坂崎ミクさんと遠藤久美さんが発見されました。二人は団地の公園のベンチに寄り添うようにして座らされており、身体には毛布がかけられていました。意識を取り戻したあと病院で検査を受けましたが健康状態に問題はなく、数日で退院できるとのことです。繰り返します。行方不明になっていた児童二人が……」
美咲はほっと息を吐いて、「塁さんは今どこに?」と尋ねた。
「玉森の本家に説明に行ってます。僕の名前は出ていませんが、テレビで玉森家のことが報じられたというのは大問題なのですよ」
雪乃を警察に引き渡したら、美咲たちの嫌疑も晴れるだろうとのことだった。玉森は、ほとぼりが醒めるまでしばらくここにいろと告げた。そうなると、沙知代のことが心配だ。
玉森はお茶を淹れながら言う。
「物証も揃ってますし、ミクちゃんたちが証言できる状態になれば、雪乃さんを逮捕できるでしょう」
「でも、雪乃さんって人間じゃないわよね」
雪乃の罪を問うとすれば、誘拐や傷害になるだろう。しかし神とされる彼女が、人間と同じ刑事罰をおとなしく受けるだろうか。玉森はカップに紅茶を注いで、美咲に差し出した。紅茶は湯気が立っていて、冷えた身体にはありがたかった。ほっと息をついていると、玉森が口を開いた。
「雪乃が逮捕された、という報道はされるはずです。しかし、彼女が行くのは刑務所ではない」
「じゃあ……どこに行くんですか?」
「玉森家が所有する病院です。一応精神病院という名目になっていますが、人間ではないものを閉じ込め、管理している」
玉森は苦い顔で言った。
「残念ながら、今の陰陽師に雪乃を殺しきる力はない」
「よかったです」
美咲の言葉に、玉森は怪訝な顔をした。
「よかった? 何がです」
「雪乃さんは……子供を殺すつもりはなかったと思うんです」
これは美咲の推測だった。雪乃は単に、子供と遊びたかったのだ。しかし、彼女は過去にひとりの命を奪ってしまっている。だから接触するのに慎重になった。人知れずミクと久美を連れていき、安全な場所で一緒に遊ぶ。そして、時が来たら返す。雪乃はそのつもりだったのではないか。玉森が呆れた顔をした。
「襲われたのに、随分甘い解釈をするんですね」
「だめですか」
「いいえ。確かに神隠しは、そもそも神が気に入った子をそばに置くために行う。命を奪うためではなく」
玉森はそう言って、紅茶にミルクを入れた。琥珀の液体に、柔らかな白色が溶けていく。彼はティースプーンで紅茶をかき混ぜ、美咲に差し出してきた。
「理屈はわかるが、あまりに傲慢だ。神が好き勝手にしていい時代は終わった」
「そう、ですよね」
美咲は目を伏せた。老いも衰えもせず、一人で生きてきた雪乃の本当の胸のうちなど、美咲には理解できないのだ。ふと、視線を感じて顔をあげると、玉森がじっとこちらを見つめていた。伸びてきた彼の手が右頬に触れ、美咲はびくっと震える。玉森は美咲を見据えたまま、動かないでください、と言った。風呂に入ったばかりなので、アザは完全に見えてしまっている。いたたまれなくなって、口を開きかけた。
「あの」
「静かに」
囁かれて、美咲は黙った。空調の音と、心臓の音だけが鼓膜に響いている。玉森は目を閉じて、こう唱えた。
「オンコロコロセンダリマトウギソワカ、風の精霊よ、玉森の血において命じる。かのものの痛みをなくせ」
玉森の手のひらが光って、右頬がにわかに温かくなった。その心地よさに、美咲は目を閉じかけた。温さにもっと浸っていたかったのに、手のひらはすっと引いていってしまった。そのことに、一抹の寂しさを味わう。
玉森は美咲を手招いて、鏡台の前に連れて行った。鏡を覗くと、右頬のアザがすっかり消えていた。美咲は驚いて玉森を見上げる。
「な、何をしたんですか?」
「ちょっとしたまじないを。まやかしですが、痣は見えなくはなりました」
「どうして……」
「僕にできるのは、これくらいです」
彼はため息をついて、鏡台に腰をもたせかけた。
「もっと早くこうしてあげればよかったですね」
美咲はもう一度鏡を見た。もううつむかなくていい。誰かに眉をひそめられることもない。嬉しいはずなのに、なぜかそこまで喜べなかった。それは、アザが自分の一部だと思えたからだろう。鏡から視線を外した美咲は、玉森に目をやった。
「雪乃さんが、あなたが私に術をかけたって言ってました」
「かけてませんよ、そんなもの」
「私、あなたと一緒にいたいと少しだけ思った。これは、術じゃないんですか?」
玉森は苦笑し、「少しだけですか」とつぶやいた。
「少しだけなら、術ではないです。どうせなら、僕から離れられないようにしますよ」
冗談にしても笑えない台詞だ。美咲は、玉森の姿が二重に見えることに気づいた。疲れているのだろうか。その時、インターホンが鳴り響いた。立ち上がろうとしてふらついた美咲を、玉森が支える。彼は美咲をベッドに連れていき、その体を横たえた。美咲は茫洋とした瞳を玉森に向けた。なぜこんなに眠いのだろう。そう思って、美咲はハッとした。わかった、さっきの紅茶だ。思えば玉森は、紅茶を全く飲んでいなかった。
「あなた、紅茶になにか、入れたでしょう……」
「安心してください。身体に害はありませんから」
玉森は微笑んで、美咲の髪を撫でた。
「おやすみ、ミサちゃん」
今更子供のときの呼び名で呼ぶなんて。タマちゃんと呼び返そうとしたが、唇が動かなかった。彼は美咲の耳元に口元を近づけ、囁いた。
「お詫びに教えておきます。僕の本当の名前は――」
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