第4話 美少年スサノウ

 東京 水道橋


 その人物は極めて妙な風袋であった。周りの景色、水道橋の駅から後楽園に向かう人ごみには馴染んでいないようだった。


 JR水道橋駅前のベンチに腰掛けていた腰掛けていた少女いや少年。年の頃なら十七八だろうか、小柄で痩せぎすの色白の女の様な顔立ちをした美少年であった。


 今時、珍しい和服、いや神社の巫女の様な姿をしている。そして長い髪を後ろでしばっている。


 劇団か何かの一員なのだろうか、それともどこかの宗教団体の一員なのだろうか。しかしながら忙しく道行く東京の雑踏の人々の中の誰もその異装の少年を気にも留めなかった。


 その少年が垂直に右手を空に向かってあげた。


 そして裸足の足がその右手が空に 引っ張られるようにそのまま地上から離れた。引力があたかもないようにゆっくりと。


 しかし確実に体は宙に浮いた。少年は目を閉じている。口元が微かすかに動いている。呪文か何か呟いている様にも見える。


 丁度スマホで交際相手の専門学校の彼女にラインをしている小野寺 哲也が真正面で少年が浮かんでいくことに気がついた。小野寺 哲也の目線からほぼ四十五度の高さ。即ち十メートルほどの上空で停止していた。


「嘘だろう」


 小野寺 哲也が呟いた。辺りにどよめきが起きた。たちまち人垣が出来た。それぞれが騒ぎ出した。口々に「嘘だ」「手品だ」「いや、イリュージョンだ」


「引田 天功だ。いやセロじゃないの」


「魔術だ」


 と水道橋駅前が騒然となってきた。


 JRの駅員が二人ほど駆け出してきた。しかし彼らにも何も出来なかった。たちまち東京ドームへ繋がる陸橋に無数の人だかりが出来た。


 人だかりは空を見上げた。少年は完全に空中に止まっている。真っ白な素足が見える。紅い袴が風に揺れているがその体は明らかに空中で静止している。路上にへたり込んでいる中年女性がいた。


 制服を着たKIOSKの販売員だった。騒ぎを聞いたのか警察官がやはり二人ほど駆けつけてきた。


「お、降りてきなさい」


 拡声器で一人の警察官が呼びかけた。明らかに声が震えていた。少年は降りてこなかった。


 麹町のテレビ局がこの騒ぎを聞きつけた。総勢五名の報道局のスタッフが水道橋駅前に来駆けつけた。騒然とする余りの人ごみの中では空中に浮かぶ少年を地上から撮影することが出来なかった。


 少年が空中に止まってから僅か五分もしなかっただろう。騒ぎを聞きつけた国営放送局のヘリコプターが少年の浮かぶ上空に飛んできた。国営放送局の主任ディレクター柳沢 憲次がヘリに乗っていた。同乗しているカメラマンが小型ビデオカメラで少年の姿を上空から撮影した。そしてインターネットを通じて映像を代々木の国営放送局映像集積室に送った。


 第一プロデューサーの滝波 信一郎はネットで映像集積室に送られてきた映像を見て驚愕した。


「馬鹿な」


「ありえねえ」


 横で映像を見ているアシスタントディレクターの西村 健一が続けた。


「第一、これって絶対嘘っすよねえ。作りもんすよねえ」


「分からん」と答えるのが滝波 信一郎には精一杯だった。


 その時第一と呼ばれた滝波 信一郎の胸ポケットにあったスマホのバイブレーターが振動した。あわててスマホを耳にあてると「光永だ」と声が響いた。

 大学の同窓の光永 次郎の懐かしい声だった。確か公務員になっているはずだと聞いている。


「光永か。久しぶりだな、俺の番号どうして分かった」


「用件だけ言う。映像は流すな」


「流すなって」


「事情は話せない。国家安全委員会の決定だ。内閣の判断だ」


 スマホの光永 次郎の威圧的な声に滝波 信一郎は驚いた。




「映像はここだけなのか」


「これだけです」


 内閣総理大臣 飛山 安鈴の質問に山下 元継官房長官は対応した。飛山の机の上にモニターが設置されいる。

 自衛隊のヘリから撮影された少年が空中に浮かんでいる映像だった。顔はぼやけているが長い髪を後ろに縛り、剣道でもやるのであろうか袴をはいている。見ると素足だった。


「対策は」


 いらだつように飛山が山下官房長官に尋ねた。


「道路は封鎖しました。水道橋近辺ならびに靖国通り、新宿通りと一帯は午後六時まで侵入禁止としております」


「で、どうやってこの少年を浮かべているのか、ヘリか何かでぶら下げているのか」


 東京大学法学部を卒業し財務省出身の民主自由党総裁であり最高の権力を持っている日本国の内閣総理大臣飛山 安鈴が冷静に山下 元継官房長官に尋ねた。


「自衛隊からの報告では吊り下げているロープ、また少年を吊り下げているはずのヘリコプターは発見出来なかったとのことです」


 努めて山下 元継官房長官は何事も無かった様に飛山に返答をした。


「ほう、では自らの力で浮いているとことになるのだな」


「そ、そうとしか考えられません」


「で、まだ男は浮いているのか」


「いえ、直近、一分前の報告では男は消えたとのことです」


「消えた」


 山下 元継官房長官のこの台詞にさすがの内閣総理大臣飛山 安鈴が絶句した。


 事件の映像はマスコミでは一切流されなかった。


 少年が浮かび上がるのを目の前で見ていた小野寺 哲也は交際相手である相田 恵子にラインを送った。


(俺、とにかく見たんだよ。浮かんだんだから)


(浮かんだって。何が)


(男だよ、若い奴。変な袴穿いたロンゲの)


(それ知っているよ)


(知ってるって)


(それってスー様だもん)


(スー様って誰よ)


(二人組のパーフォーマンス集団)


(パーフォマンス)


(下北で見たもん、あたしノリカと一緒に行ったもん。だから空中に浮かぶのよ。かっこいい子が、てゆうか可愛い系の男の子が舞台で浮かぶのよ。よく何とか歌舞伎とかピーターパンでやるじゃない。それみたいなものよ。それがそのスー様よ)


(スー様ってゆうんだ)


(そう、スー様、略さないとスサノウ様)




「そのSPBの公演は今度いつあるのですか」


 警視庁第五方面 警部補 田中 健一郎と書かれた名刺を差し出されお茶も出さずに下北沢文化劇場社長 秋山 啓二は答えた。


「略してSPB、スーパーボーイズですよね。今度と言ってもあれ一回だけで。次回は決まってませんよ」


「決まっていない」


「ええ、公演と言っても二人組のイケメンの若いのが当日いきなり飛び入りで、お笑いの様なそうでないようなコントと手品ですね。奴らの舞台あんまり上手くなかったので実際には受けていなかったんですよ。けど、最後に片方の女みたいの奴が空中に飛んだんですよ」


「飛んだ」


「ええ、SPB、スーパーボーイズってのが奴らの芸名らしくって今回の催しもやつらの単独ライブでなくて、若手の芸人、お笑い系ですけどね。二十ばかり若手の芸人が出てきたんですけどね。その内の一組。とにかくコントも駄目。手品も余り受けなかったなあ。でもスサノウってのが可愛い顔で。問い合わせが殺到してます。そいつが最後に飛んだわけ」


「飛ぶって」


「いや、ワイヤーが天井に仕掛けてあったはずで、それを使って背中に隠してあったピアノ線に体を引っ掛けて浮かんだに過ぎないんすがね。いや勝手にそんなことをやって裏方や照明の連中がかんかんに怒ってましたよ。もうあの馬鹿ども二人には出入りさせないって、もう、お出入り禁止だって」


「ワイヤーですか、見せてもらいませんか」


「ええ、いいですが。あの例の話と何か関係あんすか」


「例のって」


「例のですよ。水道橋の駅前で若い男が空に浮かんだっての」


「いや」田中 健一郎は答えなかった。




 光永 次郎は公安調査室の自分の机のパソコンで送られてきたメールを確認していた。


 メールには結局スサノウと名乗った手品師の住所が判明しなかったとのこと、かつ、相手を務めた山本と言う少年の行方もしれないとのこと。またスサノウが浮いて見せた下北沢の小劇場からも何ら証拠、即ち空中にどうして人間が浮いたのかの情報は得られなかったとあった。


 スサノウは必ず現れる。またやられたら今度は押さえようがない。現在マス媒体での水道橋事件の報道は一切流れていない。ネット上の情報も内閣権限で削除している。米国式の完全な報道管制を敷いている。今度スサノウ、いやまだスサノウであると決まったわけではないが、アレをやられたら完全な社会不安が起こる。国家そのものの崩壊が起こりうる。間違いなくそうなる。


 光永 次郎は蓋のついた容器のブラックコーヒーを飲みながら思案した。


「基本的に集団幻覚ですね間違いなく、外国でも幾らでも報告されていますし、現在も新興宗教の布教の現場でしばしばおこりえます。極めて強い相互のつながり、信頼関係を構築した集団でおこる自己暗示です」


 光永 次郎の前で東都大学医学部教授桜井 一夫がとうとうと説明している。


「その噂は確かに聞いています。水道橋の上で何かイリュージョンを出し抜けにやったのがあって。かなり高い処まで浮いた様に見えたって言うじゃありませんか」


「ええ、確かにそのようです」


「インドの田舎の村でもこんな事件があったそうです。何か未知の怪物、凶暴な怪物が人間を襲うとのことで実際怪我をした村人が何人もいたので警察が調査したの ですが、何の事はない。結局村人が自分で夜中に外を出回り自分の体に怪我を負わせていたのに過ぎないのですよ。腕なんか自分の爪でむしって。しかも無意識の内にそれぞれがその怪物に襲われたとの意識を持って、集団心理、集団暗示ですな」


「では、あのファティマも幻覚ですか」


「ファティマね。ポルトガルだかスペインの羊飼いの子供たちがマリアの降臨を見たって話ね。予言を聞いたとか。広島長崎の原爆投下とかローマ法王の暗殺未遂を予言したとかってのでしょ」


「ええ。よくご存知ですよね」


「まあ、確かに科学では割り切れない、いや現状の科学では分からない現象が起こりうるということはありうる。いやその可能性があることは認めますが」


 東都大学桜井教授に別れた道すがら、米永次郎はある事件を思い出していた。そして呟いた。


「あいつだ」







 東京都青梅市 風の子太陽の子広場




「パパ、あれUFOだよ」


 小学校二年生の一人息子の隆平が父親の川西 隆に向かって叫んだ。この風の子太陽の子広場は青梅市にある広大な公園である、東京とは思えない緑があり鯉が無数に泳ぐ池がある。おりしも遊びに来ていた川西 隆、隆平父子は西の空に黒っぽい空中に浮かぶ物体を見つけた。それほど大きいものではない。しかしはっきりと肉眼で確認出来た。楕円の黒っぽい物体で表面に針金の様な、棒いや針だ。その針一本一本がお互いに反応するかのように電流なのだろうか、ピカッと光っている。どれくらいの高さに浮いているのだろうか。肉眼で確認可能なのだからそれほどの高さではあるまい。


「隆平、あれはラジコンだよ。おもちゃというか、模型だよ」


「そう、でもあんなのどこで売ってんの」


 小学校二年の川西 隆平は納得しなかった。




 東都テレビは夜のニュース番組でこの目撃談を放送した。


「東京西多摩郡近辺にて謎の物体が飛び去ったとの情報が数多く報告されました。何か隕石の様な物が落ちてきた目撃情報だと思われますが気象庁の正式な発表では隕石の落下の報告もないとのことで。この目撃談の原因そのものが不明とのことです」


 司会者は特におどける様子もなく淡々と内容を報告した。コメントを求められた大学教授で作家と言われている男が反応した。


「戦後間もないころですかアメリカのニューメキシコ州ロズウェルでUFOが墜落して中からエイリアンの死体が出てきたって言う騒ぎがあったんです。皆さんもご存知かと思いますが真偽は未だ分かっていないのですが、しかし青梅にですよ。郊外とはいえ東京の青梅にUFOが落ちてきたら、何かわくわくしますよねえ。夢があるって言うか」


 そのコメントに隣の若手の落語家が反応した。親である有名な落語家の名跡を継いだばかりの人気者だった。


「エイリアンってやっぱり焼きソバ食べるんすかね」


「え」


 と、男性の司会が尋ねた。


「UFOってか」


 安っぽい冗談にスタジオ内のしこみの笑い役の中年女性のアルバイトに爆笑が起きた。














 青梅市 釜ヶ淵公園 多摩川






 岩の上から多摩川に飛び込んでいる少年達が奇妙な物を見つけた。その奇妙な物は右側の川上から流れてきた。


「何だあ。ありゃ」


 岩の上の少年の一人が声を上げた。


 大きさは一メートル程だろうか黒い楕円状で無数の針金だろうか、まるでハリネズミの様に針がその楕円形の物体に生えている。針金に流された雑草だろうか絡まっている。先端に白いコンビニの袋までまとわりついている。その奇妙な物体がゆっくりと多摩川を下っていった。


「で、どこで発見されたのですか」


「多摩川です。自分が釣りをしていて発見しました。何か子供の遊ぶおもちゃだろうかと思ってひろいあげたのですが。どうやら違う様で、それも異様に軽いんですよ。片手でもてる。浮かぶくらい軽い。重さも六千九百五十五グララムしかない」


 公安調査室米永 次郎の質問に河釣りが趣味と話した青梅大学医学部金田 昭雄はにこりともせず答えた。警視庁から報告を受けた公安調査室の光永 次郎は表情を変えなかった。


「中身は何ですか」


「MRIにかけました」


「MRI」


「ええ、磁気を使って脳の断面などの写真を撮影することの出来る機械です」


「ほう、レントゲンみたいなものですか」


「とりあえず、そう思っていただいても結構です」


「中身は」


「人間がいます」


 またしても表情一つ変えずに金田 昭雄は答えた。釣り人ではなく医者の顔だった。


 その時光永の胸ポケットの携帯のバイブレーターが振動した。


「桜井だ」


 その電話の主は公安調査室の桜井 健作だった。物体ごと、自衛隊練馬駐屯に運ぶ様にとの指令が出た。今自衛隊の爆弾処理班の専門部隊が青梅大学医学部に向かっているから速やかにその物体を引き渡す様に、電話の内容はそれだけだった。


「そのMRIで撮影した写真を見せてもらえますか」


 米永 次郎はあっけにとられていた。


 そして自衛隊にこの物体を渡す前に中にある中身が本当に人間なのか知りたかった。不思議と驚きは無かった。ただ興味があったのだ。


「しかし」


「お願いします、先生にご迷惑をかけるようには決してしませんから」


「ええ、ただ、あの私といたしては構わないですが、何れにせよ。御内密に」


 金田 昭雄が躊躇ちゅうちょしながらに答えた。


 白黒のネガがパソコンのスクリーン・モニターに映し出された。頭の大きな胎児が写っていた。誰もが知っている子宮の中に胎児がいる写真と全く同じだった。へそのあたりから影が確認出来る。へその緒の様な物が窺える。と言うことはこの黒い容器。容器といっていいのだろうか光永は思案したがこの容器は子宮である 訳だ。いったいこの不思議な容器を誰がつくったのであろう。


「中にいる胎児は何ヶ月位ですか」


「十ヶ月目位ですね。臨月です」


 およそ表情を変えない金田 昭雄がこの時僅かに微かす笑んだ。


「生きているのですか」


「ええ、生きています。どのような方法で胎児に栄養を補給しているかは全く不明ですが間違いなく生きています」


「男の子ですか」


 光永 次郎はあたかも病院で臨月の妻の主治医に尋ねる様に金田 昭雄に尋ねた。


「男の子です。ペニスが確認出来ます」


 ドアが開く音がした。そして、やってきたのは十名ほどのカーキ色の制服に身を包んだ自衛隊員は皆臨戦態勢の様子だった。


 表情は強張っていた。いきなりドアを開け指揮を取る男は当然の様な顔で容器を自衛隊のトラックに運び込んだ。そして青梅大学の構内を出て行った。光永 次郎はなす術がなかった。


 透明の容器の中に産まれたばかりの赤ん坊が白い布の巻かれて眠っていた。


「あれか」


 防衛大臣の松永 栄太郎が防衛医学校教授の西村 重一に尋ねた。


「ええ、全く普通の赤ん坊です。元気な男の子ですよ」


「あれが容器から出てきたのか。で、あの子が入っていたと言う容器はどこにある」


「最初爆弾処理班から容器ごと持ち込まれたのですが、あの子が中から出てきて、また爆弾処理班が容器を持ち帰っています」


「で、どうやって中からあの子を出したのだ」


「出したと言うより中から出てきた。いや産まれたといった方が正しいかと」


「産まれたあ」


「あの容器の先端に穴状の様な部分があり、そこからあの子が液体と一緒にあふれて出てきたのです。モニターで全てその様子は録画してあります。大臣ご覧になりますか」


 スクリーンの中に黒い亀状の容器が映っている。右下に数字が勢い良く動いて時間の経過を知らせている。亀の先端からいきなり黄色い液体と真っ赤な血液が噴射してどろっとした液状の物を頭部に被る胎児の頭がでてきた。胎児のヘソには明らかにへその緒が見られた。通常の出産と何ら変わりない様に見えた。少しだけ違うことを防衛大臣の松永は見逃さなかった。胎児は微かすかに上に向かって浮いている。空中に浮いて出産されてきていることを。










「とにかくね。愛よね。愛。愛が必要なのよ。分かる雀ちゃん。そうよ、確かにい、あたしは変態よ。でも昔自衛隊員なのよお、昔兵隊さん、今、変態さんなのよお」


 歌舞伎のような化粧をした中年女性、いや明らかに女装した中年男性、年の頃なら優に五十路を超えているだろう。青々とした髭剃り跡にファンデーションを塗っている。その女装した男が小指を立ち上げた左手に化粧と同じく濃い目の水割りのウイスキーを持ちながら取り付かれたように語っている。その姿をカウンター 越しに微かす笑みながら見つめている初老の男性がいる。横にまだ十代後半の少女、いやこの少女も女装した少年かもしれない。微かすかに首に喉仏が見えた。少年を女装した中年男性はスサちゃんと呼んだ。


「一時の情交、情交って分かる。スサちゃんなら分かるわよね。あんたインテリなんだから。そうよ、大西さん、あんたこの子、本職は学生よ。大学生なんだから。女子大じゃないわよね。オカマ大ってあんのかしら、ガハハ」


 飛行機が飛び立つ時の爆音の声で女装した男が笑い出した。笑い声で震える左手の水割りが激しくこぼれてカウンターに飛び散った。


「知っているよ、うちの子だ」


 大西が水割りをかたむけながら答えた。


「ママったら、ママ」


「そうだよ。ママ」


 雀の声に大西が微かす笑んだ。


「ママ、今夜は酔い過ぎよ」


「酔い過ぎって何よ。あんたたち今夜イイことするんでしょ、悔しい。大西さん、こら大西。あたしを抱いてよ。ねえ、アタシを抱いてよ。もう。とにかく悔しいのよお。あたしだって若い頃は男を切らしたことがなかったんだから毎晩毎晩男に迫られてえ。そうよ、まるで花咲かじいさんのポチよ。ここ掘れワンワンって。毎晩毎晩なのよお。うんこする暇がないくらいだったんだから」


「ママ、水割りの前の焼酎が効いたね。いいよ。ママ、栃木ママ、大栃木ママ、我が母校の大先輩の栃木ママの嫉妬に敬意を称して、今夜、雀の事は諦めるよ」


「大西さん」


 雀と呼ばれている少年が大西を見つめた。カウンターの止まり木から降りた大西と言う男は新宿二丁目バー「栃木ママの世界」のドアを開けて店を出て行った。


「国分寺、ああ、命の里よ。永遠の楽園よ。ああ、国分寺、我が学び舎よお」


 新宿二丁目の雪の空に大西のだみ声が響いた。小柄な女装した少年、雀が大西の後を追いかけた。


「す、スサノウ」


 大西が振り向きながら叫んだ


 絶叫が雪に舞った。


「雀、今夜は返さないぞ」


 大柄な大西が華奢な雀の体を雪の中で抱きしめた。


「あの、教授。あ、いえ大西さんお釣りです」


 驚くほど美しい少年の顔に雪明りが反射した。










 東京 原宿 表参道




 黒いメイド姿の少女がビラを配っている。道行く人が面倒くさそうに受け取っている。


 その中の胸の大きな少女が声をあげた。こぼれる様な大きな胸が誇らしげだった。


「あれ、スー様またやるんだ」


「ええ、二時からなんです」


 ビラを配っている色白のメイド姿の少女が作り笑顔で答えた。


 するするっと人垣の中を少年が浮かんできた。赤い袴と白い着物を着ている。まぎれもない例の長い髪の少年だった。水道橋の駅前で空に浮かんだ少年だった。


 再び歓声が上がった。人垣は見る見る増えだした。表参道の路上までも人が集まり表参道の丁度中央の立体歩道橋にも人垣が集まりだした。手に手に携帯の写メで写真を撮る者ビデオを回す若者であふれかえった。


 マスコミは騒然となった。トリックだ。奇術だとの見出しがマスコミにあふれた。インターネットの動画サイトに明らかに空中に浮かんでいる少年の姿が映って世界中に配信されている。芸人で少年が空を飛ぶ真似事をする者まで現れた。


 いつからとなく少年は何故かスサノウと呼ばれるようになった。警察マスコミはスサノウの姿を捕らえようとやっきになった。しかし少年は表参道から消え去りその行方は杳として知れなかった。


 光永 次郎は空中に浮かんだ少年が間違いなく十八年前にあの器の中から産まれた子供だ。あの入れ物が何処から来たのか。誰が作ったのか。そしてあの子供を産んだ容器が何処に行ったのか。今となっては公安の光永 次郎ですら分からなかった。

 しかしあの容器は何か得たい知れない物、この人類の歴史を変える何かを持っていたのだ。しかし光永 次郎は己の興味を封印することにした。


 高校三年の娘と妻との穏やかな生活が今年四十六歳になる中年男の全てだった。この事件に関わる始めることは己の破滅、滅亡への道を意味する。そうなのだ。それは死を意味する。危険な匂いを感ずる。自分は映画やテレビドラマのヒーローではないのだ。


「自分は何も見なかったのだ。何も」


 その選択は一人の男、平凡な男にして家庭を守るしか術のない中年男性として最善の懸命な選択だった。




「部品はそろったのかね」


 沢木 松見統幕が尋ねた。


「ええ、三沢の連中が全部揃えました」


 髪を短く切りそろえた部下の中西一佐が直立不動で答えた。


「中西一佐、よく噛み締めるがいい。いや理解出来なくてもいい。神はいないのだ。但し自らを神と名乗る錯覚し自惚れる者が繰り返し現れる。そして過ちを犯す。


 歴史にその汚点を残すのだ。思い返すがいい歴史を。権力を握った者は自らを誤解する。全ての創造物はその様にして過ちを犯し一夜の夢に酔いしれて滅びてゆくんだ」


 沢木 松見統幕が煙草を燻らせながら防衛庁の部屋から外を見た。沢木 松見統幕の話に航空自衛隊中西 秀成一佐が直立不動で聞いている。その横二中西 秀成より肩一つ長身の青年がたっている。優に百九十はある。青白い美青年だった。その青年も直立不動だった。








「奇跡の起しかたを教えてあげるよ」


「え」


 山本 久美子が振り向くとそこに小柄な男子学生がいた。


「君のこと知っているよ」


 山本 久美子が笑顔で応えた。


「本当」


「スサノウ君って言うんだよね」


「そ」


 小柄で色白の美少年が笑った。山本 久美子は一瞬にして魅惑された。スサノウはまるで自分と同じ様に女の子の様な赤い唇をしている。


「でもスサノウ君って変、あ、御免なさい。変わった名前よね。あだ名、ニックネーム」


「本名だよ、本名。本当の名前は藤原 スサノウ」


「そうなんだ。あたしと同じ国文だよね」


 山本 久美子と藤原 スサノウの二人が肩を並べて一緒に国分寺大学のキャンパスを歩いた。銀杏の木の根元にベンチが見える。決して大柄とはいえない山本 久美子と藤原 スサノウの背丈は同じ位だ。二人の後姿、後姿を見る限り大学のキャンパスを女学生が二人肩を並べて歩いている様にしか見えない。それほどスサノウは華奢だった。遠めにも女性と見間違う様な容姿、雰囲気であった。


「ねえ、スサノウ君、さっきの奇跡のって話、あれっていわゆるナンパですかあ」


 山本 久美子の白い歯が見えた。


「そ」


「でも、スサノウ君の話し方ってセンテンス短いね」


「そ、これがナンパのテックニックですね」


 山本 久美子が笑った。そして自分の体が止まっているのに気がついた。意識はある、しかし動かない、いや動けない。体が。


 先ほどまでそよ風で動いていた銀杏の枝先が止まっている。目線の先にサッカーグランドが見える。ゴールへ飛んでくるシュートされたサッカーボールが空中で止まっている。そして音が全く聞こえない。あたかもそれは静止画像の世界だった。スサノウが自分の前に立っていた。そしてスサノウが目を閉じた。何やら口を動かして呪文の様な言葉を発した。いやその様に山本 久美子は思った。


 体ごとフワっと感じた。気がつくと、ゆっくりとスサノウと一緒に体が垂直に真っ直ぐ空中に昇っていった。


「山本さん」


 声が届いた。


「え」


「山本さんも飛びたい」


「うん、てゆうか、もう飛んでいるみたい」


「そうだね、山本さん、もっと高く山本さんは飛べるはずだよ。まず目をとじてごらん、そして開けたくなった時に開ける」


 スサノウの言葉に山本 久美子が一瞬目を閉じた。山本 久美子が目を開けると二人は更に高く空中に浮いていた。山本 久美子は自分の下に体育館の屋根を見た。目線の先には四階建ての校舎の窓が自分の止まっている空中の位置と丁度同じ高さに見える。山本 久美子には不思議と恐怖は感じなかった。しかし間違いなく、山本 久美子は空中に静止していた。フラッシュの様な眩い白い光を感じた。そして再び意識が戻った。辺りはもとのままだった。山本 久美子の足は地上に国分寺大学のキャンパスにしっかりと着いていた。全ての物、歩く学生、舞い上がる落ち葉、全て元のままだった。


「これあげるよ」


 スサノウが山本 久美子に告げた。


 周りの音が聞こえた。山本 久美子は自分が国分寺大学のキャンパスに再び立っているのに気がついた。自分の右手が何かをにぎりしてめている。ひんやりとした感触を感じた。右手に黒い石の勾玉があった。銀色の金属製の鎖がその勾玉につながれていた。そしていつの間にかスサノウの姿は消えていた。










「劇団邪馬台国メンバー募集」




 とプラカードを持った少年が国分寺大学のキャンパスを歩いている。一緒に拡声器を持った少年がいる。共に目鼻立ちがきりっとしたスサノウであった。通りすがる二人の女子大生がプラカードと拡声器を持った二人に振り向いた。


「あの子達、学園祭の時、西門の前で手品のパフォーマンス見せてた子達だよね。ねえ、ちょっとお、可愛くない」


「そお。この前ナンパされたよ」


 秋吉 まどかに山本 久美子が気も無く答えた。


「嘘」


 秋吉 まどかが絶句した。


 山本 久美子は完璧な左右対称の目鼻立ちをもつ美しい顔立ちだった。


 抜けるような白い肌を持つ美少女だった。




 山本 久美子の美しさに拡声器を持った少年が声を上げた。


「スサノウ、俺たちの卑弥呼がいたぜ」


「俺たちのね」


「そう、俺たちの」


「もうかよ」


「そうさ、俺たちが探していた卑弥呼が」


「アレ」


「そう、アレ」


「アレか、この前かまかけといたよ。確かに超可愛いかったよ」


 プラカードを持った少年がもう一人の少年の方を見つめた。


「そっか」


「あいつかあ」


 二人が同じ言葉を発した。




「ねえ、まどか、本命ってスサノウってあの背の低い方の子よね。でも超可愛いい子」


「え、まゆ。まゆも本命なの。まさかあ。かぶってるの。マジ」


「って、ゆうか、あの子お、凄い不思議よ。すごいってゆうかあ。もう既にヤバイんじゃないかってゆうやつレベルでえ、助手のほら、この前のコンパで恵美のを胸を触ろうとした奴いたじゃん」


「ハッシー」


「そ、ハッシー橋本」


「スケベ族代表、三十六歳。三十六年間彼女いない暦三十六年、とーぜん、独身。恐らく生涯独身の大学助手で素人童貞」


「そのハッシーから聞いたんだけど、スサノウ君って全部単位Aだって」


「え、嘘」


「でもあんまし授業で見ないし」


「そうよねえ」


「でも試験で全部百点だって」


「うっそお。よっし。あたしいノートをお、貸してもらおう」


「無理」


「何で」


「エリちゃん、エリカの彼がね」


「エリカの彼の西村君がどうかしたの」


「エリカの彼の西村君がそう思ってスサノウ君に近づいたの」


「西村君って。エッチの時、エリカに自分のカルピス無理やり飲まそうとした変態の」


「そお、その変態のお西村くんがスサノウ君にノート見せてくれって」


「何かあったの」


「飛ばされたの」


「飛ばされたあ」


「そ、西村君が」


「空中に吹っ飛ばされて、でも幸い体育館に積み上げられていたマットの上におっこちて怪我も何とも無かったんだけどね」


 国分寺大学キャンパスで秋吉 まどかが同級生の近藤 まゆの言葉に息を呑んだ。




「論文はかなり集まっていますか」


「ええ、もう二百五十は超えていますよ、やはり賞金一千万ってのが利いているようで」


 笑顔のスキンヘッドの中年男が大西に答えた。いやに愛嬌のある顔である。年の頃なら四十五六だろうか、いかにも営業職で鍛えたつくり笑顔だということが一目で分かる。その笑顔の中に一瞬の隙も見せずにくらいついたチャンスを逃さないと言う覚悟が窺えた。


「会長も選考に加わるのでしたね」


「会長がこの懸賞論文の発案者ですから」


「前から聞こう、尋ねようと思っていたのだがね。エバ会長の本名は何と言うのだろう」


「いや、実は自分も知らないのですよ。本名も年齢も、年は自分より年上だと思いますが女性に年齢を聞くのもなんですし、でも異様に若くみえるんです」


「惚れてるのかね」


「め、滅相もない」


「冗談だよ。ま、しかしまあ、ホテル事業、不動産投資であれだけの財を成した女性だし、謎めいたところがあるのはまあ、しょうがないね、人に言えない過去があるかもしれないし実際。君もエバループ日本法人の支社長だろう。君が知らないのなら、謎は謎のままでいいのだろうなあ。何れにせよエバグループ日本法人は上場するのだろう。君も株をもっているのならいよいよ億万長者だな」


 国分寺大学文学部国文科主任教授大西 博隆が教え子の松本 雄二に目を細めた。


「あ、まあ」


「松本君、卒業してから何年だね」


「もう二十年以上ですね」


「二十年も前か、そうだ君は長めにいたね」


「ええ二年も留年してますから」


「はは、母校の財政に寄与した訳だ」


「入る前も三年も準備しましたから」


「はは、その言い方、実に愉快、痛快。いやほんと、君といると愉快だよ。しかし大したもんだよ。君は確か卒業して防衛庁にいった後、今のエバへ転職したんだったね。それが今や東証一部上場企業じゃないか、それも役員。社長の可能性もあるだろう」


「いや滅相もない」


 滅相もないと言うのが松本 雄二の口癖らしかった。


「そうだ、今夜ゼミのコンパがある。OBの君として出席できるのだろう」


「ええ、費用は弊社で持たしてもらいます」


「いつも済まないね。感謝するよ」


「いや、そんな事」


「もう一度確認したいが例の御社主催の懸賞論文だが」


「はあ」


「新国防論、新しい国のあり方とは」


「ええ、そうでした」


「自衛隊からの応募がかなりあると」


「半分はそうです。例の三矢集団残党からもあります」


「ミツヤシュウダン」


「はい」


「三矢集団って例のか」


「例の。何年か前に自衛隊内で勝手に核爆弾を作った連中です」


「原爆でアメリカに復讐すると言ってた」


「そうです。ニューヨークを核で破壊すると言ってた狂信的な連中です。人類の数を一億に減少させることこそが人類の繁栄。人類の浄化となると狂信的に信じていた連中です」


「捕まったのか奴ら」


「いえ」と言った松本が下を向いた。


 隠した表情にニヤリとした笑みが浮かんだ。それは狡猾そうな表情だった。




 坂道のコーナーを登っていくと小さな喫茶店がある。カフェと言うより喫茶店と言うのが相応ふさわしい。中に入ると煙草たばこの匂いがした。


 洗い物をしていたケンジが大西に気が付いた。


「いらっしゃいませ」


「ああ」


「カプチーノですね」


「うん」


「久しぶりですよね」


「そうかな」


「だいぶ久しぶりですよ。だってこの前先生がいらした時は店の前の桜が満開でしたもの」


「そうか」


「また外国にでもいらしていたんですか。小説の取材か何かで」


「まあ」


「アメリカですかヨーロッパですか、それとも」


「いや別の場所だ」


 国分寺大学文学部国文科教授大西 博隆は新聞を開きながら口ごもった。ケンジがその様子をちらっと見ながら煙草たばこに火をつけた。すっかり注文のカプチーノを忘れた様な仕草だった。


 美しい顔だった。ケンジの顔は抜けるような白い皮膚で出来ている。痩せぎすで背丈は然程無い。小柄な大西より僅かに高い位だろうか。そんなケンジをここ半年ほどこの店で見ている。


「ケンジ君だったよな」


「はい」


「君、恋人いるのかな」


「恋人」


 大西も何故こんな唐突な質問が出来るのか自分でも全く分からなかった。いや昨晩ゆうべの出版社の接待の酒が残っているのかも知れない。喫茶店恵え田でんのそばにある二時間千円のサウナの水風呂で昨晩の酒を抜こうとしていたのだった。サウナへ行く前にこの喫茶店「恵え田でん」に寄ったに過ぎない。


 その道程の中で何故自分はケンジの恋人の有無を確認しなければならないのだ。不可思議な衝動に大西は包まれた。


「恋人って男ですか、女ですか」


 以外としか言いようの無い返答が朱色に染まるケンジの唇から発せられた。


「そりゃあ、女だろう、君の年なら女の子だろう」


「先生、打ち明けますけどね。僕。女、女が全く駄目なんですよ」


「女が駄目」


「そう」


「君は女が嫌いなのかね」


「いえ、女そのものが生理的に、いや本質的に駄目なのですよ」


「どこか悪いのかね。つまり、その、病気か何かなのかね」


「病気ねえ。病気ってのはいい表現ですよね。確かに病気かも知れない。でも生きるってことは。病気になることでしょう。先生はどうなんですか」


「いや」


「先生も僕と同じ病気なんじゃないですか」


 ケンジの反応に大西は一瞬つまった。


「僕には分かります」


 にやりとケンジが笑った。


 窓の外に落ち葉が落ちる公園の風景が見える。


 コーヒーマグを並べた棚の上に無造作に文庫本が置かれている。背表紙を見ると全て三島 由紀夫の作品だった。その中からケンジが一冊取り出した。「仮面の告白」だった。


「僕って実はこれなんですよ」


 文庫本を見せながらケンジが大西に微笑ほほえんだ。


 大西は魅せられたケンジの笑みに魅せられた。


「そうか。しかし」


「しかしって、何ですか。もしかして軽蔑しているんですか。先生は僕のことを」


「いや軽蔑はしない。自分が軽蔑出来るはずがない。人はそれぞれ生き方や嗜好がある。それにその三島は自分も読んだ。確かにケンジ君、君のご推察は正しい。いや正しいか正しくないかは本来どうでもいい。とにかく生き方も正しいか正しくないのかは他人の僕があれこれ言える話ではない」


「生き方ね」


「悩んだのかね」


「昔はね」


「昔って、まだ君は若いのだろう」


「若い、いや若くはないかもしれません」


「随分意味深な言い方だな。君はまだ確か学生だったよね。うちの」


「仏文です」


「まだ籍はあるね」


「ええ」


「何故大学に来ない」


「忙しいのですよ、色々と。でもそのうち行きます。学校は好きですから。でも今しばらくは少し忙しい」


「忙しいって恋愛かね」


「そう」


「彼氏かね」


「まあ、そんなとこです」


 カウンターの向こうでケンジが煙草たばこの煙をくゆらせた。


「君も僕と同じな病気か」


「病気ね。でも病気と断定されるのも結構つらいなあ」


 ケンジが苦笑いをした。


「いや失礼。君を怒らせた非礼を詫びよう」


「いいんですよ。別に怒っているわけでもないし。確かにですから自分はいわゆるゲイですよ。先生と同じ業界」


「何時ごろから気が付くもんなのかね。実は僕は恥ずかしい話なんだが最近確信したがね」


「そうだなあ。いつごろからだろう」


「つまりこうなのだろう。君は確かに美しい。今の流行はやりの言い方。そう若い女性が口にする言い方。正直に言って自分にはとても嫌らしく響く単語なんだが」


「イケメン」


「そう」


「僕も実はその言い方大嫌いですよ」






 カシャと店のドアが開いた。年のころなら二十歳そこそこの若い女性が佇たたずんでいた。


「大西先生」


「木村君」


「先生ここにいらしたんですか」


「君こそ、この辺に住んでいるのかね」


 大西の質問に少女が笑った。弾けそうな若さと笑顔に大西は圧倒された。紛れもない美の結実がそこに存在していた。大西の教え子国分寺大学文学部三年生の木村 小梅こうめだった。


「妹です」


 ケンジが言った。


「君達兄妹なのか」


「でも父親が違う」


「複雑なんだな」


「そう複雑。とても複雑で簡単」


「ケンジ君。君の話し方はまるで文学だな」


「文学、そりゃいい。そうですか文学ですか。先生。僕のことを先生の小説の次回作の題材にして欲しいくらいだ」


「兄貴って。いっつも、変」


 木村 小梅こうめがつぶやいた。自分でも自分が美しく可愛いと自覚しているのだろう。


 自信に満ちた少女の表情だった。


「そうかな」


「ブラック」


 はき捨てるように木村 小梅こうめがつぶやいた。


「女の子がブラックなんて飲むなよ」


「小梅こうめもう女の子じゃないもん」


「女の子じゃない、と言うことは、つまり野口とやったのか」


「どうしていつも兄貴はそんなに下品なの」


「何故って野口は俺の彼氏だぜ」


「嘘」


「嘘だよ」


 大西は二人の会話を聞きながら突然嘔吐したい衝動を感じた。急いで店を飛び出した。駆け出して店から離れたベンチに座る。


 オエっと嘔吐を繰り返す。胃の中から昨晩の嫌らしい女の笑顔が吐き出される。


 出版社の接待で行った銀座の女の顔が浮かぶ。


 嘔吐した汚物を落ち葉でかき混ぜながら空を見上げる。


 吉祥寺の井の頭公園の真ん中で茶色に染まった木々の上に広がる真っ青の空を見る。雲ひとつ無い快晴だった。


「スサノウ、いや雀は何処へ行ったのだろう」


 青空の中に残る月の残像を見ながら一人で呟く。ぼんやりとベンチを立つと木村 小梅こうめが湯気の上がる白いお絞りを持って佇たたずんでいた。足元に枯葉があった。


「大丈夫ですか」


「大丈夫だよ。そうだ、お勘定が未だだったよね」


 ポケットを弄ってくしゃくしゃになった千円札を小梅こうめに渡す。


「先生。明日のゼミの課題ですけど」


「ゼミの課題」


「ああ午後のね」


「発表なんです。あたし」


「そうか」


「近代文学における三島の存在、金閣寺を経て」


「ほう、そうだったか」


「そうなんですよお」


 木村 小梅こうめが微笑ほほえんだ。確かに精巧な顔立ちだった。長いまつげに彩られた大きな瞳とバランスの取れた唇。その唇には淡いピンクのルージュがひかれていた。一点の綻びの無い美しさだった。よく見ると確かに目の辺りの感じがケンジに似ている。父親が違うとは言え血のつながり、兄妹を感じさせる。


「木村君、で準備は出来たのかな」


「いえ、直接、あのお、だから先生に聞こうかと」


「そりゃいい、で買収でもするのかな。僕を」


「買収」


「いや冗談だよ」


「三島の、その三島の性的嗜好って言うのかしら、同性愛なのかそうでないのかがとても気になるのです」


「ほう」


 煙草たばこを燻らせながら大西が答えた。


「あれ、先生。禁煙したって久美子から聞きましたけど」


「久美子。しまった、山本だな。ゼミの山本 久美子。クーミーだな」


「クーミーって、先生に夢中ですよ、前はスサノウ君だったけど。スサノウ君どっかいなくなっちゃたし今は先生に首ったけ。いつか先生とキスする時、煙草たばこ臭いのが嫌だから禁煙をお願いしたいって言ってましたもん」


「アハハ、そりゃいい。その恋情れんじょう、恋心は若い娘の幻想に過ぎない。何いずれそれ相応の男性が現れて交際してその男。スサノウでもいい。その男に抱かれれば僕の様なしょぼくれた中年のおじさんの事なんか、直ぐに忘れるさ」


「せ、先生、先生の噂、あれ本当ですか」


「噂」


「あのお、先生がいわゆるボーイズラブ系って噂」


「ボーイズラブ」


「つまり、女の人より男の人が好きだって噂」


「そんな噂があるのか、ならその噂通りとしておいてくれたまえ」






 二人の前を自転車に乗ったケンジが通り過ぎていった。車輪から落ち葉が舞い飛んだ。


「どこへ行くのかね君のお兄さんは」


「仕事です」


「仕事って」


「新宿二丁目の売りセンバーのバイト、てゆうかあ、あっちが本職。結構儲かるみたい。あたしもお小遣いもらうから」


「お店の方はどうするのかね」


「ああ、あの茶店、あんなの趣味の世界ですよ。趣味。死んだ母が残した趣味の世界。自宅で趣味のコーヒーを出しているだけ。母が生きている時はカレーとか出して結構流行はやっていたんですけど。今は物好きなお客さん、先生みたいな人ね。たまに来るだけ」


「そうか」


 井の頭公園に秋が訪れている。銀杏が色を変え始めている。木村 小梅こうめの後姿を見送りながら大西は再びべンチに腰掛けた。










 美しい女性が大西の横で水割りを作り始めた。


「先生久しぶりですね」


 擦かすれた声がひびいた。


「ああ、君」


「君かって、その言い方、すっごく冷たい」


「あ、いやすまん。なあ今度もう一軒店を出すんだろう、姉妹店」


「はい」と答える声が低く響いた。


「やはり二丁目かな」


「ええ、あたしたちはこの街にしか住めませんし」


「さてはさぞや立派な金持ちのパトロンをみつけたんだろう」


「パトロン、やっぱり、先生って大学教授ですよね。あたしの知らない単語を使うもの」手馴れた手つきでグラスをタンブラーでかき混ぜながら「女」が応えた。


「スポンサーだよ。特別な関係にある男性の資本家と言うか。まあ旦那さんだな」


「あら先生、妬やいていんるんだわ。ミユキ嬉しい。ミユキ、先生に久しぶりに来てもらってホント嬉しい。今度こそミユキ、今度こそ先生にマジに好きになっていいですか」


「マジにね」


「そ、マジ」


 ミユキと自分を呼ぶ痩せた女性の首に微かに喉仏が見えた。擦れた声がこのホステスが「本当の」女性ではないことを感じさせた。


「ママ、一つ聞いていいかね」


「あらやだ、センセさっきから質問ばかりしているくせに、急にあらたまって」


「つまり」


「つまり何です」


「何時ごろ気が付くものなのかね」


「何時ごろって」


「つまり自分の性癖」


「性癖」


「その言い方はとても失礼だったな。いや謝罪する。つまり自分が他の人とちょっと違うと気づくことだ」


「自分が女より男を好むってことね、或いはゲイであると言うことを」


「ゲイ」


「そうだゲイだ」


「あたしはゲイじゃないわ。絶対違う。あたしは正真正銘の女よ」


「じゃあ自分が男ではなく女だと気が付く時だよ」


「女だと」


「その通りだ」


「あたしの場合は自分が男ではなく、女って気づいた時のことか。で、先生は何時気づいた訳」


「自分はその、ある男性、いやまだ少年だが。その彼に恋愛感情を抱いた時だ」


「あ、そうなの。その子がノンケだと、やはり、ちょっとややこしいってか気の毒だわよね。ノンケの若い子に自分がゲイだと思いしらされるなんて。そっかあ、先生も苦労してるのよね。でも、あたしたちの場合は、そりゃ個人差もあるけれど大体中学生になるかならないかだわよね、気づくのは。そうだわよねマユちゃん」


「何が」


 マユと呼ばれた紫色のロングドレスを着た長身の「女性」が振り向いた。真っ白の顔に金髪に染めたロングヘアーを纏まとめている。豊満な胸がロングドレスから伺えた。


「だから自分が女であることを自覚する時期よ」


「じき」


「そう、時期」


「掃除機そうじき、ダイソンとかの。ダイソンだったビックカメラよりヤマダデンキの方が安いかもよ」


 新宿二丁目のバー「ミユキママの世界」に笑い声が起きた。


 大西は又しても煙草たばこを燻らせた。微かすかな頭痛を感じた。飲みすぎかも知れなかった。




「ご存知のごとく、現在只今の中国は正に高度成長の真っ只中になります。昨今の米国発のサブプライムローンの損失による経済危機、既に世界恐慌と言える現在の経済危機は確かに現状憂慮されるものではありますが、今後この世界情勢を見る上においてこの中国のプレゼンス、存在を無視して議論することは出来ない。


 話を元に戻しますがその現在中国の人口と同じ十三億が二十一世紀に入り何人になったのでしょうか。諸君の中で、どなかた分かる方はいませんでしょうか」


 国分寺大学の教室で大西 博隆が生徒を見回した。


「はい」


 教室の最後尾の片隅に座っている男子生徒が手を上げた。


「六十七億人です」


「ご名答」


 大西教授の応答に男子生徒が恥ずかしそうに下を向いた。スサノウだった。







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