男 -8-

制しようとした私の拳がその美しい顔を打った。


華奢な姫は脆くも倒れ、その拍子に床に頭をしたたかに打ちつけたきり、意識を失ったのだ。


乱れた髪から簪が飛んだ。

豊かな髪が床を這った。

仰向けに倒れても膨らみを失わぬその胸が緩く上下していることを確認し、思わずこぼれたのは安堵の息。

つい先ほどまで目の前の姫の命なぞ脇に落ちる書状の重みほどにも感じてなどいなかったくせに、なんという身勝手さよ。


横たわる娘から目を離せなかった。


このままわたしが一人逃げれば、いずれ姫は箝北の王のものとなるに違いない。


私達を卑怯な手で欺いたあの王に渡すくらいならいっそのこと……。


もはや南も北も関係ない。

敵も味方も、営も利も、全ては私の物ではない。

北の王を謀りたかったのか、哀れな娘への同情か、いや、ただ目の前の、この世の物とは思えぬ美貌を我が手にしたいという欲だったのか。


ともかく次の瞬間にはもう行動を起こしていた。

投げ出された床と同じ温度になろうとする冷たい手を肩にかけ、弾みをつけてその身を背に負い、床に落ちていた薄布を使ってしっかり固定すると、私は脱兎のごとく逃げ出した。


予定の帰路を渡れば北の手の者が待つだろう、ならば別路へ。

王の人払いのおかげで室外から庭園へ、さらにその死角に潜り込むことはたやすかった。


背の娘は激しく動き熱を帯びる体にさらなる熱をもたらせる。

荒くなる息を必死に諫め、深呼吸を繰り返す。

するとある時背の鼓動と自分の鼓動が重なった。

なるたけ気配を小さくそろそろと足を運び、行き当たった塀の脇、山茶花の垣根のほんの小さな隙間から、まず薄絹ごと背からおろした姫の体を押し出した。

その身が傷を負うことなく通り抜けたのを確かめ、今度は自分の体を乱暴にその隙間にねじ込んでいく。


乾いた枝がぱきりぱきりと音を立てる様に再び息が荒くなる。

それでも誰に気づかれもせずそこを抜けると、また姫を背負いなおし私は今度は音など気にせず力の限りに野を駆け下りた。


絶え間なく前後を繰り返す足はやがて力を失っていく。

膝がたまらず崩れ落ちた。

ここがどこだかももうわからぬ。

たださらさらと囁くような水音だけが耳を擽るのに気づいたのは、甘い緑の香りが鼻腔を撫でるのに目を開いた時だった。


どれほどの時間を失ってしまったのだろうか。

はっと体を起こすといつもよりも体が重い。

それで、ああそうだ、とそこに姫を背負ったままでいることに思い至る。

既に静まる鼓動に、元からゆっくりと打つもう一つの鼓動が重なり、奇妙な安心感を得ると、私はそばを流れる小川の水に手を浸し口を拭った。


姫を連れている以上箝北周辺にいる事は避けたい。

かといってここにいたのでは見つかるのも時間の問題。

それでなくても姫のこの美貌では人の目に迂闊に触れることもできぬ。


背の姫を下ろし、川底の泥で互いの頬を汚す。

鮮やかに煌めく薄衣も水中に舞う砂に何度もくぐらせくすませる。


そうしてすっかり貧相にうらぶれた様子を作り上げると、私は姫を背負ったままひとまず箝東へ抜けることにした。

箝東には大きな川があるから下り一気にまだ見ぬ土地へ向かおうと、そう考えたのだ。


姫は三日経っても目を覚まさなかった。


その血の気の薄い顔を眺めて思うのは、あの私をねめつける緑の瞳のことだった。

憎悪をむき出しに、可憐な容姿に不釣り合いな獣のような瞳。

なぜ私がそこまであの瞳に惹かれたのか、当時は分からなかった。


今なら分かる気もするがな。


あの目は正しく、私が箝西の王に向けた目と同じだったからだ。

仇に向ける、憎しみを隠さぬ瞳。

私は書状を疑いはしなかったし、箝西の王に覚えた感情は既に霧散していた。


残ったのは空しさと悲しさだけだ。

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