男 -9-

背に感じる鼓動はふとした拍子に重なった。


とくんとくんとゆっくりと伝わる振動は、ろくに言葉も交わしておらぬ姫を何故だか身近に感じさせる。

半身を分けた片割れのようなどというのはおこがましいか。


ふと、自分の家族とはこんなものかと考えた。

母から与えられた守り、惜しみなく注がれる慈しみとはまた違う。

ただ与えてやりたい。

守ってやりたい。

見返りなど求める気にもならぬ。


なんと厚かましき偽善か。


父を、住む家を、立場を、身分を。

全てを奪って攫ってきたのは私だというのに。


ああ、しかし。


耳元に当たる弱い息に微かな声が混じる気がして息を飲む。


姫が目を覚ましたら、望む通りにしてやろう。

父王の敵を取りたいと願うならこの首を喜んで差し出そう。


そう考えながらも私は箝東へ向かう足を止める事はしなかった。


姫が目を覚ましたのは、箝東の船着場から小船を出した数時間の後であった。


てっきりまたあの瞳で睨み付けられるであろうと思っていたのに、姫はまだ夢から覚めぬ様子で辺りを見回し、そして私に向かって言った。


「あなたはだあれ」


余りに邪気のない声に戸惑った。


川を下っている間中話をして、どうやら姫は全ての思い出を失ってしまったのだと分かった。


私は詳しいことは何も話さなかった。


ただ一生姫を守護すると我が部族伝来の方法で誓いを立てた。


その時から、私達の奇妙な生活は始まったのだ。


姫は惜しげもなく愛慕の情をさらした。


それは子供が親を慕うようなものであったり、或いは年相応に恋い慕う様であったりして往々に私を惑わせはしたが、しかし私はそれに甘えることをしなかった。


姫が私を慕うのは、記憶がないからだ。

本来ならばこの緑の瞳に憎しみを込めて私を見るはずなのだ。


庇護された子供のように信用しきった顔で私の隣に眠る娘の髪を撫でながら、私は姫のあの瞳を思い出し、女の誘惑に惑う自分を何度も律したものだ。


それから数年が経った頃、私達は箝北から遠く離れた南の都で腰を落ち着け物売りをして暮らしていた。

そこそこの金を稼ぎ、そこそこの暮らしを送り、しかしとても幸せな毎日だった。


だがある日、私が行商から戻るとどうにも家の様子がおかしい。

いつもならば釜に火が入り、蒸気の立ち込める台所で、姫が笑って私を迎えるのだが、炊ける飯の匂いがしない。


何かあったのかと胸騒ぎを覚えた私の目前に現れた姫の目は、あの時と同じで私は悟った。


何度も思い返した憎悪に燃える瞳。


姫は記憶を取り戻したのだ。

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