第54話すべてを変えてしまった一口
ゼウスは焦っていた。
まさかこんな事態になるとは思ってもみなかったからである。
確実に死者が増えていた。
植えても植えても作物は枯れてしまう。
彼は伝令神ヘルメスを呼びつけてこう言った。
「ヘルメスー! 兄上のところに行ってコレーを返してほしいって言ってくれない? 姉上が怒って世界を滅ぼしそうだよー!」
「はあ? なんで僕が行かないといけないんですか! 自分で行ってくださいよ、とばっちりを受けるのはご免ですから!」
「そこを何とか~」
面倒くさそうな顔をするヘルメスに、ゼウスは頼み込む。
「はー、仕方がないですね」
ため息をつきながら彼は言った。
「行ってきてあげますよ。その代わりデメテル様はあなたがどうにかしてくださいよね」
「ありがとうー! やっぱヘルメス君は頼りにできるね!」
彼は仕方なく重い足取りで冥界に向かった。
なんで僕が、と呟きながら。
彼はゼウスの息子である。
本来ならば彼がゼウスを頼りにしたいところなのだが、頼ろうにも頼れない父親なので致し方ない。
冥界についた彼は、ハデスの元に向かった。
玉座に腰かけた彼の膝の上にはあまり浮かない顔をしたコレーが座っている。
「あー、ハデス様? その膝の上にいるのはデメテル様のところのコレーですよね? 地上が大変なことになってるので返してほしいんですけど……」
だが、ハデスは少し考えてからこう言った。
「……彼女は私の妃のペルセフォネだ。コレーなど知らぬ」
「ええい! そんな事はどうでもいいんですよ! じゃあそのペルセフォネ様を返してくださいよ! 地上では人が死にまくってるんですよ! どうしてくれるんですか!」
大声を上げたヘルメスに彼は渋々といった様子でコレーを降ろす。
奥のほうから、ヘカテの声が聞こえた。
「ヘルメス? 来ているのなら少しこちらに来ていただけませんか?」
「はいはい、今行きますよ」
ヘルメスが彼女のいる方に歩き出す。
再びこの空間はハデスとコレーだけになった。
彼はそっとあたりを見回した。
誰もいない。
考え込んだ後、彼はコレーに机の上に置かれていたざくろを差し出した。
「……ここにきて何も食べていなかっただろう。デメテルが心配する。少しだけでも食べていけ」
「ありがとう、ございます……」
彼女はざくろの実をほんの少しだけ口に運んだ。
そして机の上にざくろを戻す。
冥界の食べ物を口にしたものは冥界にとどまらなければならない。
ハデスはその掟を知っていた。
知っていて彼女にざくろを食べさせたのである。
コレーはそのことを知らなかった。
ヘルメスが戻ってきた。
彼女を連れて、彼は地上に向かう。
ほんの少しだけ彼女を見つめたハデスは、そのまま館の奥へと消えていった。
「私、お母様のところに帰れるんですか?」
「もちろん! いやー、地上がすごいことになってたからハデス様が簡単に手放してくれてよかったよ。あれで拒否されてたら僕人生終わってたし」
二人は色々話をしながら冥界を出た。
その先には、ゼウスが連れ戻してきたデメテルがいた。
「お母様!」
嬉しそうに叫んで、彼女はデメテルに駆け寄る。
見渡す限りの荒野だった土地に、彼女が踏み出した場所から花畑が広がっていった。
色とりどりの花が咲き乱れ、世界は緑を取り戻す。
「心配したのよ、可愛い私のコレー!」
もう絶対に離さないと言わんばかりに、デメテルは彼女をきつく抱きしめた。
「大丈夫だった? なにもされなかった?」
「そんなに心配しなくても大丈夫!」
彼女はにっこりと微笑む。
「とっても優しい方だったから」
安堵したようにデメテルは笑った。
やはり彼は信頼できる。
連れ去られたのに憤りを感じることに変わりはないが、連れ去ったのがハデスでよかった。
他の神だったならもっと深刻な事態になっていたに違いない。
彼女はそう思った。
「さあ、帰りましょうか」
母娘は手を繋ぎ、咲き誇る花々の中を歩いていった。
「そうだ」
宮殿に戻ったデメテルは何かを思い出したように言った。
「コレー、あなたお腹がすいているでしょう? 長い間何も食べていなかったんだものね」
「え?」
にこにこと微笑む彼女にコレーは思わずそう返した。
「あら、お腹すいてないの? 食べなさすぎて感覚がおかしくなっちゃった?」
不思議そうに彼女は聞き返す。
だが、コレーが告げた事実に彼女は少しの間放心状態になった。
「地上に戻る時に、お母様が心配するから少しでも、と言われて叔父様にざくろを頂いたんですけど……」
「え…………」
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