19
成東は、冷え切った廊下の空気に足先を凍えさせながら、オフィスのドアの前でたたずんでいた。まさか自分が「御前待ち」をすることになるとは思わなかった。
エレベーターが止まる音がする。また秋津の誰かが降りてきて、成東を冷やかすのだろうか。つい身構えて待ちうけてしまう。
「あら、珍しい。成東くんが待ちかまえてるなんて」
そう言って降りてきた御前は全く普段どおりで、数時間前のことが嘘のように思われる。
――
検査を終え、個室に運ばれた轟は、鎮静剤で眠りに落ちている。包帯に覆われたその姿を、一同はじっと見守っていた。
個室の引き戸が小さくノックされ、そろそろに開かれる。来客は頭領だった。引導を終えて駆けつけてきたのだろう。一同は慌てて頭を下げる。
その頭領が引き戸を押さえ、廊下を見やって一礼する。成東たちは声には出さずにどよめいた。
ありえない。
セクションのトップとはいえ、一介の空蝉を見舞いに、御前みずからが病室へ足を運ぶなんて。
しかも、御前は引導装束のままであった。
ベットへと歩み寄る御前の全身が、抜き身の刃のような冷ややかに澄んだ気をはらんでいる。成東ですら、それに気圧されて自然と膝を折らずにはいられなかった。
枕頭に着いた御前は、かがみこんで轟の様子をすみずみまでうかがう。
「お医者さんは何ておっしゃってた?」
問われた声は小さいが、静まりかえった病室のすみずみまで行き渡る。だが、緊張に固まってしまって、誰も口を開けない。
御前の視線が成東に止まり、無言で問いを重ねた。
「外傷は多いですが、生命に関わるものはないそうです。ただ、その数が多いのと、かなり衰弱しているので、回復には少し時間がかかるのではないか…と」
「よかった…」
安堵したように息を吐く御前の表情は、纏う空気とは裏腹に柔らかく、優しい。その様子に、また言葉にならないざわめきが走る。
御前と頭領が立ち去った後も、しばらく誰も動けずにいた――
「昨日はありがとうございました」
「あのくらいしか出来ないけどね。
轟さんが心配だろうから、しばらく病院に詰めてても大丈夫よ。穂積くんと長田くんの了解は取ったから。
ただ、一日に一度はこっちに連絡を入れて、轟さんの状況を教えてほしいけど」
「ありがとうございます。
御前、ひとつ伺ってもよろしいですか?」
「どうぞ。そのために私を待ってたんでしょ?」
「表仕事で、御前はいつも作業時間はちゃんと記録するように厳しくおっしゃいますよね。あれの理由を伺いたいのですが。
単に、労働基準法を遵守するためだけのようには思えないので」
「あれは、せめて表仕事だけでも報われるようにしたいからよ」
「え…?」
「どんなにがんばって
人間、やったことが報われないと淋しくなって、ヤケも起こしたくなるじゃない。
………多賀さんがあんなになっても気が付かなかった人がこんなこと言っても、説得力ないけど」
一瞬、空虚な笑みが浮かぶ。
すぐにそれを消した御前は、ひたと成東を見すえた。
「あんなことがあって、秋津に嫌気が差してるんなら、我慢せずに言ってね。約束の期間はまだ四ヶ月あるけど、成東くんが嫌なら私は引き留めないから」
「それですが」
腹は決まった。
御前の目をまっすく見つめて、成東は告げる。
「無期限で、秋津に置いていただけないでしょうか」
秋津という組織に対しては、今でもいろいろと思うところがある。だが、秋津に対する悪感情よりも、このあるじの直下でもっと働いてみたい欲求のほうが、今は上回っている。
「私はがめついから、一度手許に来たものは絶対狭霧に返さないわよ。それでもいい?」
「はい」
自分でも驚くほど、返答は力強かった。
御前がすっと微笑む。
「無期限秋津になったって言ったら、間違いなく皆がおちょくりにかかるだろうから、そこはあきらめときなさいね」
片手をひらひらと振りながら、自室側の玄関へと去ってゆく。常に揺るがぬその背中に、成東は深く一礼した。
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