17
渋谷で多賀からSDメモリを受け取った佐々木真司は、上機嫌で麻布の潜伏先に戻ってきた。
まとわりついてた方の樟葉は、バラシ屋に持って行くのには失敗したが、すでに多賀が始末したという。
邪魔なものはもうない。
実にいい気分で、ポケットの中の記憶媒体をいじくる。最明寺グループオーナーと厚生労働省幹部のやりとりをおさめたこの動画データが、後ろ盾してくれる連中への礼を払った後でも、遊んで暮らすのに充分すぎるカネをもたらしてくれる。
そんな未来の成就まであと少しだ。
隠れ家にしているマンションの裏口に回り、カードキーで入り口を開ける。部屋に入り、ダウンコートも脱がずに電気のスイッチをひねると、雑多に物が散らばる空間が照らし出された。
もとはブティックであったこの場所は、中二階を持つ小洒落た造りになっている。その上階につながる小さな螺旋階段の下に、樟葉の兄と名乗ったチンピラを縛って転がしていたのだが、その姿がない。
「監禁されてた人は、外に運び出させてもらったわ。巻き込んじゃいけないからね」
階上から知った声が降ってきた。
それと共に、ひたひたと螺旋階段を人が降りてくる。その人物は階下より数段上で立ち止まり、悠然と佐々木を見下ろして口を開いた。
「いさぎよく、
時代錯誤な黒着物。それだけで相手の正体が分かる。
「………あんたが闇胡蝶だったんか」
階段の下まで近付くが、それ以上は進めない。いや、彼女が近付けさせないのだ。ただ真っ向から見合っているだけなのに、ものすごい圧力を感じる。
それは、彼女の背後に、手下とおぼしき複数の男たちが控えてるせいだけではない。
「私が
「まさか。だいたい、あんな単細胞にそんな大仕事を任せらせるかってんだ。
なあ、アイツがバラシ屋に持ってかれなかったのはなんでなんだ? バラシ屋のババアに聞いても、理由を教えてくれねえんだ。
あんたが連れてったあのチンピラが、オレが目ぇ離してる間にオレのスマホいじくってた時になんかやったのか? 通話した跡も、メールした跡も残ってなかったから安心してたんだけどさ」
「私に聞かれてもねえ。
ようは、悪いことはできないってことよ」
「けっ、もったいぶりやがって。
アイツをバラしそこなったところから、なんかおかしくなって、しまいにゃあんたが出ばってきやがった。どんだけ疫病神なんだか」
「その『赤城さん』がいたから、こんな大それたことを計画できたのに、疫病神扱いはないでしょうが」
ゆったりと腕組みしながら、闇胡蝶があきれ顔で言う。
「まあな。あんな珍しい名前が二人も身近にいて、たまたま強請った相手がアンタの手下だなんて偶然が重なってなけりゃ大勝負なんか考えるかよ。
…にしても、よく調べたな」
「一週間もあれば調べ物には充分よ。
もうひとりの赤城さんもバラしたのは?」
「最明寺からガメた後の、カネの分配でもめたもんでさ。アイツ、自分が身体張ってきたんだから分配多くて当たり前だって言い出してさ。指示出ししてるのはオレだってのに」
「――そうそう、あなたがいま大事に大事に持ってるその画像データ、同じものが今ごろユーチューブにアップされてるだろうし、TVでも流れるし、おまけに警察も動き出すから、強請りのネタとしちゃあもう使い物にならないわよ。残念でした。
大事な切り札を、探索に携わってない人がほいほいと引っぱりだせるようなヤワな組織じゃないわよ、うちは」
「くそお………」
「引導人のあれこれをみくびったのが運の尽きよ。あきらめなさい」
腕組みを解き、闇胡蝶が羽織を脱いで片手に持った。翻る着物の袖に、金箔銀箔の小さな蝶たちが乱舞する。
佐々木を見据える目がすっと細まり、険しさを増した。
「私が許せないのは、強請りそのものよりも、そのために人ひとりをバラし、もうひとりをバラしかけたこと。その落とし前は、しっかりつけてもらうわよ」
「そう言うアンタは、人のことを偉そうに言える立場なのかい、闇胡蝶さんよ。
引導っつー名目でどれだけ人をバラしたり、傷つけたり、不幸にしたりしてきてんだ? ごたいそうな大義名分を掲げて汚いことやってるぶん、あんたのほうがタチ悪くねえか?」
彼女の背後の男たちがざわりと動く。それを片手を上げただけで制すと、闇胡蝶は朱に塗った唇の端をすうっとつりあげた。
佐々木は何故か、寒気を覚える。
「それがなに?」
「え…」
「そんなもんで私が動揺すると思ったの?」
思いもよらない反応にしばし茫然とするが、じきにやり場のない怒りがこみあげてくる。
その勢いにまかせて闇胡蝶につかみかかろうと踏み出すが、視界が黒いものにさえぎられる。思わず止まった足に、激痛が走った。
床に転がり、足を押さえてうめく。首をめぐらすと、闇胡蝶が自分に向けて銃を構えているのが見えた。
階段を降りてきた男たちが、手荒に佐々木を拘束し、外へと引きずってゆく。一気に十人あまりに囲まれ、しかも傷を負っていてはなすすべがなかった。
「………どうせ足止めされるなら、有名な手裏剣だかかんざしだかでやられたかったぜ………」
それは、佐々木の精一杯の強がりだった。
空蝉たちが佐々木を連れ出した後、文代はゆっくりと階段を下り、佐々木の視界を奪った羽織を拾い上げた。投げつけた時に身頃が開いて、裏地があらわになっている。
そこには、表地とは対照的な赤の濃淡で彩られた、地獄絵図が描き出されていた。
右手に立つ牛頭馬頭が、泣き叫ぶ亡者たちを左半身の火炎地獄へと追い込む。
火炎がとぐろを巻き、金粉の火の粉が舞い上がる中では、あまたの亡者たちがのたうち苦しんでいる。
そして、火炎地獄の中空に大きく描かれた、触覚も羽根も炎に絡め取られる黒揚羽。
引導に伴うもろもろをすべて引き受ける覚悟なぞ、引導人を継ぐと決めた時から出来ている。
「御前」
空蝉たちを指揮していた狭霧が戻ってきて、退出を目で促す。羽織に袖を通して、文代は歩き出した。
帰宅すると、文代はまっすぐに和室を目指した。羽織、着物、帯を手早く
長襦袢は纏うたまま鏡台に向かい、簪を抜き取る。結い上げた癖のついた髪が背に流れ落ちた。柔らかい布で慎重に簪の汚れを拭き取り、桐の箱に収める。
次にこの簪を差すまでの期間が、長くなってほしいと念じながら髪を梳かす。引導人の出番なぞ、少ないに越したことはないのだ。
鏡台の引き出しに桐箱をしまい終えると、文代は小走りに和室を後にする。
照明を控えた廊下のなか、一角だけがまばゆい。リビングのドアが開いていて、その中の明かりが漏れだしているのだ。
文代がリビングへと飛び込むのと、窓の外を見ていた恭一郎が振り返るのはほぼ同時だった。
「ただいま」
「おかえり」
モスグリーンのニットソーにベージュのチノパンの恭一郎に駆け寄り、その首に両腕を回せば、強く腰を引き寄せられる。どちらからともなく唇を重ねた。
競うように互いの口腔を存分に貪り合ったのち、離れた唇のどちらからも熱い吐息がこぼれる。
「まだお泊まり
「うん。だから朝ごはんまでにはあっちに戻らなきゃいけないんだけど、しばらくは忘れとく」
うなじを撫であげた手を髪へ差し入れる恭一郎の問いかけに、少し爪先立って耳朶を
絹をほどく音が、夜気の中に落ちた。
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