16
秋津を総動員して佐々木の潜伏先を探らせている以上、探偵業の通常業務は文代が担うことになる。
時間が時間だし、何かの拍子に泣き出してしまう樟葉の気を紛らすためにも…と思い、有名パティスリーに寄り道してケーキを調達する。
樟葉のことでいろいろ面倒をかけている関係で、コーヒー党の文香に強く出られないでいるが、濃厚なオペラにはストレートのアッサムを合わせさせろと主張するつもりだ。
帰宅し、リビングのドアを開けて、だが文代は棒立ちになってしまった。
*
「ほんっっっっっとにすいませんでした!」
おいしく紅茶とケーキを堪能してしてから、樟葉は深々と文代に頭を下げた。
つい気がゆるんだが、ここは自宅ではない。改めてそれを認識した。
気持ちを上向かそうと、フリルたっぷりのブラウスにハイウエストのフレアスカートの、可愛いコーディネイトにしたのは間違ってない。
西瓜くらいの大きさのバリィさんのぬいぐるみを膝に載せていたのも、年齢を考えると微妙だが、まだいい。
その状態で、バリィさんを肘置きにして、「おりゃー」だの「くたばれやがれー」だの絶叫しながらゲームのコントローラーをがんがん連打し、ゾンビ殲滅にいそしんでいたのも、人さまに迷惑をかけなければ構わないだろう。
問題は、リビングと客間の間のドアがきちんと閉まっていなかったために、それがダタ漏れになっていたことだ。
外ではひたすら猫をかぶってきたのに、こんな醜態を人目にさらしてしまった自分が情けない。
「帰ってきた時にはびっくりしたけど、ゲームする元気が出てきただけいいことじゃない」
衝撃から抜け出し、平時と変わらぬ顔に戻った文代にそう言ってもらっても、どうにも救われない。
「――あ、そうだ。佐野さん」
小首を傾げて先を促す文代に、樟葉は思い切って告げる。
「真司さんに捨てられちゃったっぽいから、言っちゃってもいいかな。
私、かくまってもらうってのは表向きの理由で、佐野さんを探ってこいって真司さんに言われて来たんです」
「え…?」
「佐野さんが闇胡蝶本人かも知れないから、住み込んで調べてこい。うまくいったらお前と将来のことを考えてもいいって言われて…」
また少し視界が滲んでくる。
ぎゅっと目を閉じて涙の気配を追い払い、また見開くと、文代が額に手を当てて絶句していた。
「なんでそんな話になるのよ………そんなこと御前に言ったら、佐々木さん絞め殺されるわよ。
私はただの『
「そうなんですか…?」
「赤城さん、まさかそんなホラ話信じてたの?」
「そういうこともあるのかなーとか…」
額から手を離した文代が、本気で嫌そうな顔をして向き直る。
「やめてよー。私が御前だなんて恐れ多すぎて勘弁してほしいわ。
だいたい、私が闇胡蝶本人だとしたら、『自分で自分への依頼の取り次ぎを取り次ぐ』なんて訳分かんないこと、するわけないじゃない」
「ですよね…」
つまり、自分は佐々木のホラに踊らされたというわけだ。彼にとことん大事にされていなかったのだと、改めて知らしめられる。
涙がこみ上げる気配を感じたので慌てて目を閉じ、瞼をぎゅうぎゅうと押さえた。
ついでに思い出したことを、このくつろいだ雰囲気の中なら尋ねられるかな、と口に出してみる。
「佐野さん、あと、真司さんから私の好きな物を聞き取りした…っての、嘘ですよね?」
「………ばれるわよね、やっぱり」
「はい。真司さんがそこまで私のことを知ってるわけないですから」
自分の話す内容に、改めて胸が痛む。
「佐々木さんに聞いても知らないって言われてね。聡子ちゃんから教えてもらった」
「あー、聡子ちゃんかあ」
一昨日、佐々木失踪の情報交換で客間に集まったなかにいた知り合いなら、確かに樟葉の趣味は知っている。
「聡子ちゃんに無理矢理思い出してもらった、ソフトせんべいが役に立ってよかったわ」
「妹がやっぱりソフトせんべい好きだからって、それを
文香が姉につっかかるが、本当に腹を立てている様子ではない。
「いいなあ、
「そういえば、赤城さんは
何度も同じことを言っているので、気になったらしい文香が尋ねてくる。
「いちおう兄が二人いるんですけど、両親が離婚する時に私だけ母に引き取られたもので。
それでも、時々私が父に会いに行った時とか、兄たちが母に会いに来た時には、とくに上の兄がよく遊んでくれたんですけど、母が再婚してからは行き来がなくなっちゃって。
その後は祖母のところにあずけられて一人っ子状態だったから、お兄ちゃんやお姉ちゃんにすごい憧れがあるんです」
「こんな性格きつーい姉でよかったら、のしどころか持参金つけて差し上げます」
「こらっ!」
文代が妹を睨むが、本気で怒っているのではないのが薄く笑った口元で分かる。
何だかんだ言ってても、やっぱり仲いいんだなあ…と、樟葉はほのぼのと二人を見やった。
*
「………あれは口実よねえ」
樟葉が客間に戻り、今度はきちんとドアを閉めたのを見届けてから、文代は小声で呟いた。それを聞き逃す文香ではない。
「赤城さんに姉さん探らせてた、って話?」
「そう。まだいちおう警戒はしてるけど、スパイとしちゃあ赤城さんじゃ力量不足すぎるのよ」
「同感。あんなに『分かりやすい』人にスパイは無理」
文香のコメントは、相変わらずストレートだ。
「あと、赤城さんからうまいこと家族構成を聞き出してくれて助かったわ」
実妹なのに樟葉と名字が違うことや、距離があることについて、轟の手紙には細かに説明されていた。樟葉の話もその内容に合致する。
「それだけじゃなくて、赤城さんが私を怖がるもんで、できるだけ文香に相手を頼んでたから、今回は世話かけまくりね」
「やっと、赤城さんにびびられなくなったんじゃない?」
「そうなのよ。目を合わせてもびくびくされなくなったのが嬉しくて」
「………気にしてたんだ」
「だって、警護する相手におびえられる探偵なんて、シャレにならないじゃない」
文代は軽く伸びをした。
「すぐ泣いちゃって、その度に慰めてあげなきゃつぶれちゃうんじゃないかって感じの、かわいげのある妹がいなかったから、ああやって赤城さんをなだめるのはなかなか新鮮だよわ」
「なんか、余計なトゲがあるような…まあいいか。姉さん、聞いていい?」
「なに?」
「
「そうねえ………つぶれ気味のエグザイル、って感じ、かなあ」
「ちょいワル系というか」
「そうそう。そういうコワモテさんが動物専門のフリーカメラマンやってるっていうギャップで、ころりといっちゃったらしいわね」
「………なんとなーく、そういうタイプに弱い人を引導対象が嗅ぎつけて、うまいこと取り込んだような気がする」
「それに、使い捨てにしやすい条件は揃ってるからね。実家との縁が薄くて、面食いで、素直で」
言いながら、強い憤りが腹の底からわきあがってきた。
私欲のために女性ふたりを踏み台にした代償は、佐々木にきっちりと払ってもらう。
秋津と空蝉からの報告は、マンション地階に詰める狭霧に次々に持ち込まれ、それに応じて着実に
文代もその様子を随時見守っていたが、日付が変わる頃に本宅に戻った。
半日前、調査から調査へ移動する合間に帰宅して、
黒の着物であること。
着物のどこかに、あの蝶の意匠があること。
その二点を満たせば、他の部分は代々の引導人の好みに委ねられる。
目を開けた文代は、いつもより時間をかけて着付けする。
限りなく深い漆黒の着物に、同色の羽織。半襟も八掛けも足袋も帯も、同じく漆黒。
袖口からかいま見える長襦袢の藤紫と、帯揚げ・帯締めの紅赤が、そこに少しだけ色を添える。
羽織の両胸と背に白く刻まれるは、家紋代わりの蝶の意匠。
そして、まとめ髪に光る、同じ蝶の透かし彫りをほどこした金の平打ち
――これが、当代引導人の引導装束である。
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