15
一日休んでいた秋津の仕事部屋は、てんてこまいの忙しさだった。
仕事の割り振りの段取りに慣れていない長田・穂積・成東の三人が、休み明けであわただしい業務の采配にあたるのだ。混乱しないわけがない。
おまけに、御前から急ぎの案件を託されたので、それを最優先にするべく体勢を整え直すことになり、さらなる混乱となる。
仕事部屋がとりあえず平穏を取り戻したのは、午後三時を回った後だった。
「ただいまです」
成東がコンビニの弁当を提げて帰って来ると、出かける前と変わらず床に突っ伏したままの穂積と、壁にもたれて天井を見上げる長田がいた。
「メシ、買ってきました」
「………ありがとうよ………」
穂積が力なく返事する。
長田が、のろのろと腕を伸ばしてくる。その意図を察して成東がいろはすを差し出すと、頭を下げて受け取り、猛然と飲みはじめた。
五〇〇ミリリットルのボトルの、半分を空にしてからやっと口を離し、盛大に息を吐き出す。
「……………ただの水がすげえうめえ」
イヤフォンマイクに向かって声を張り上げ続けていたため、あれだけ水を摂ってもまだ声がかすれている。
その間に、ゆっくりと起きあがってきた穂積は、袋の中の弁当たちをおのおのの前に並べていた。
それぞれがぐったりした状態で、黙々と食事を進める。それが片付く頃に、やっと長田が口を開いた。
「穂積、誰に頼むか決まったか?」
「なんの?」
「バカやろう、夜の件だ」
「あーっ!」
カレーの香辛料が喉に染みるらしく、しかめ面をしていた穂積が絶叫して、さらに顔をしかめる。
「やべえ、そっちを全然忘れてた! 出張と張り込みしてるヤツ以外、全部御前からの頼まれ仕事に振っちまった!」
「マジかよ…」
長田が、両手でがりがりと頭をかく。
「ど、どうしよう、長田ちゃあん…」
「んな時だけ甘えた声出すな、気持ちわりい……………手が空いてるっぽいのがいるけど、どうする?」
「うーん……………仕方ねえか。まあ、いちおう秋津だしなあ」
二人の視線が成東に集中する。
「………なんですか?」
「いや、別にヘンなことやらそうってんじゃない。夜に御前が出かけるんで、ボディガードがもう一人要るんだわ」
「私でよろしければ」
「お前んちまで、ここからどのくらいかかる?」
「一時間くらいですが…?」
御前の警護と、自分の通勤時間がどう関係するのか分からない。
小首を傾げた成東に、穂積がずい…と顔を寄せてきた。
「これからうちに帰って、スーツに着替えてこい。スーツあるよな?」
「冠婚葬祭用の黒いやつなら…」
「それでオッケー。でもって、五時半に、御前の部屋の前で集合だ」
穂積の説明に、長田がものすごい勢いで割り込んでくる。
「いいか、ただ着替えてくるだけじゃない。御前に恥かかせないよう、全身綺麗にしてこい」
「は、はい」
「あと、御前がどこに行って誰に会って何をしたかは、秋津の間でも話しちゃなんねえことになってる」
「空蝉にも、頭領にも、だからな」
相変わらず、二人に信用されてないようだ。
「私も、今は秋津のひとりです。
それに、御前のためにならないことをやってはならないのは、秋津だろうが空蝉だろうが同じじゃありませんか」
いささかむきになって返してしまった。
言われたとおりに着替えて戻ってきた成東が、内階段を上がって御前の部屋の前に来ると、同じく着替えた長田が廊下をうろうろしていた。
恰幅のいい身体が黒スーツを纏っているだけでも迫力があるが、さらに薄く色のついたサングラスをかけていると威圧感が加わる。ボディガードとして上出来だ。
「お待たせしました…穂積さんは?」
「車レンタルしに行ってる………後であいつ見て、笑うなよ」
長田の意図が分からずきょとんとしていると、玄関ドアが開く音がした。慌てて振り返り、成東は息を飲む。
御前の和装は初めて見る。
淡い黄色の地に五彩の鳳凰が羽根を広げる訪問着に、七宝文様の金の帯、紫紺の帯揚げと帯締めを締めた姿は、洋装よりも御前の強いまなざしに似合うように感じる。
いつもよりしっかりと化粧しているせいか、あでやかさが増している顔には、だが眉間にがっしりと皺が刻まれていた。こんなに不機嫌を隠そうとしない御前も珍しい。
「御前、ほんっとに嫌そうですね」
長田が御前に近付き、会釈しながら苦笑する。
「そりゃ、仕事じゃなきゃ行きたくないもの」
「俺らじゃ代われないことだから、我慢して下さい」
盛大に溜息を吐き出した御前の目が、成東で止まる。眉間の皺が一気に消え、意外そうに長田を見やった。
「成東くんでいいの? よく穂積くんがごねなかったわね」
「もう人を選んでらんなかったんです。表仕事と、御前からのお仕事と、頭領に探り入れるので、みんな出払っちゃってて」
「狭霧に探り…? 見当はつくけど、その件は…車で話しましょ。
長田くん、口が滑りやすいのは気をつけなさいね」
しまったと言わんばかりに長田が首をすくめる。それを横目にしながら、御前がエレベーターのほうへと歩き出す。成東も、長田も慌ててその背を追った。
マンションのエントランスを出ると、漆黒のセンチュリーが停まっていた。その運転席から穂積が降りたって、御前のために後部ドアを開ける。
やはりスーツ姿で白手袋をはめ、ハイヤーの運転手を装っているのだろうが、つんつんした金髪がそれを裏切る。
全員が乗車し、車が発進したところで、憮然とした穂積が、助手席でうつむく成東に言う。
「成東」
「はい………」
「笑うな」
「す…すいません…」
「自分でもこのカッコにこのアタマは合わねえって自覚はあっけど、しゃーねーだろう。これ、ずっと多賀さんの仕事だったんだから」
「すいません」
多賀の名前が出たことで、車内がしん…と静まってしまう。
「長田くん、さっきの件だけど。狭霧に探り入れてるって、多賀さんがらみ?」
「はい………」
「…というより、轟さんの件っていうほうが正確かしらね」
赤信号で停止したところだったので、穂積が斜め後ろを振り返って長田を睨んだ。
「おま…っ、んなとこまで御前にしゃべったんかっ」
「待って。長田くん無罪だから。
私が調べものしてて、データベースの轟さんのデータに長田くんがアクセスしてたログを見つけたんでね。
空蝉の不穏な動きを見つけたら、私の了解なく探索して、適切に処置するのが秋津の本領。普段だったら、長田くんがどう動いても口をはさまないけどね。この件だけは話が別。
いま秋津独自で動いてるほうを止めなさい。今日、急ぎで頼んだ件が、轟さんを探す近道になる。そっちに注力して」
「御前! これだけはオレらの好きにやらせて下さい!」
車が動きはじめた振動と共に、穂積の懇願が響く。
「多賀さんがやらかした分を、秋津で後始末したいのは判る。けど、
――私だって、ほんとは自分でケリつけたいんだからね。こらえて」
最後は囁くような御前の言葉が、車内を圧した。穂積は運転に専念し、長田は背を丸めこんで、再び沈黙に入る。
「――ああ、そうだ。成東くん、ちょっと教えてほしいことがあるんだけど」
「私で分かることでしたら」
御前のほうへと振り返って、次の言葉を待つ。
「轟さんって、古文に詳しかったりする?」
「塾のバイトで大学受験の古文教えてたことがあるとは聞いたことがありますが」
「ありがとう。助かったわ。
轟さんが成東くんを手放したがらなくて、秋津に来る時に狭霧と結構もめたって話は聞いてるんで、轟さんが捕らわれてそうな場所の捜索には成東くんも同行できないか、いま狭霧に掛け合ってるから」
「ありがとうございます………」
穂積が、かつて「秋津専従にしてくれ」と狭霧に直談判した理由が、少し分かるような気がした。
到着したのは赤坂の料亭だった。
本来、マンションからは十分もかからない距離にあるのだが、尾行の類を警戒して何倍も時間をかけて蛇行してきた。
長田と成東を伴った御前が座敷に入ると、既に先客が到着している。こうした場所に慣れた風情の、五十代ほどと思われる男性二人であった。
「急なお呼び立てで申し訳ありません」
「先代なら、こんなせっぱ詰まった時期に打ち合わせなさらなかった。当代の
態度の悪いほうがそう毒づくと、もう片方がいさめるように相手の脇をつつき、座布団に腰を下ろしたばかりの御前にとりなすような愛想笑いを送る。
「では、手短に進めましょうか」
そして御前が話し出した内容に、成東は背筋が震え出すのを押さえられなかった。
これは、引導のための根回しだ。
明日の深夜(もしくは明後日の早朝)に引導が行われるのは、御前からある建物を大至急で探るように指示された時に聞いている。
その引導が御前が意図したとおりに進むように、こうした調整を、しかも御前みずからが行うのか。
確かにこれは、他の空蝉にも秋津にも他言してはならない内容だ。
御前の説明を聞き終えてから、また相手がぐずぐずと文句を言い出した。
「協力していただけないのなら構いません。検察庁特捜部のほうにお願いいたしますから。
官僚の汚職を摘発する機会を差し上げようとしたのに、残念です」
文句たれの客人は、どうやら警察関係の人物らしい。御前にそう言われると青ざめ、慌てて前言を撤回すると言い出した。
それに従って、話し合いは順調に流れる。
話が終わると、御前はすっと立ち上がった。料亭だからこの後は食事になるのだろうと思っていた成東は、御前や長田より動くのが遅れる。
「私はこれで失礼いたします。あとは、お二人でごゆっくりと」
御前が綺麗に一礼したところで、またあの文句たれが口を開く。
「当代どのはお堅いというか、融通が利かなすぎるのではないかね。先代はお酌までしてくれたが」
「お酌なら、本職の綺麗どころのほうがよろしいのではないでしょうか。お呼びになっていらっしゃるのでしょう?」
それだけ言い置くと、御前はすたすたと退出する。その速さに、長田ですらついていくのが一拍遅れた。
全員を乗せたセンチュリーを穂積が発進させると、長田が御前の隣のシートで爆笑しだした。
「御前、人が悪いですよー。検察庁にネタ持ってっちゃうよなんておどして」
「あのくらいの仕返し、大したことないでしょ。
引導人が代替わりして五年経ってるのに、いまだにぐずぐず先代がー先代がーって言われんのを、こっちはずーっと我慢してるんだから。
私のほうが先代より可愛げないし、段取り下手なのは認めるけど、だからって手を撫でくり回すのをやめてくれって言ったとたんにあの態度はないでしょうよ、もう」
「あのおっさん、まーたやったのか。懲りないヤツだなあ」
穂積があきれたような声を上げる。
「引導がかかってるぶん、御前が強く出れないからって、やってくれやがるよな」
「ほんとほんと」
長田も同意の声を上げる。
「さて、成東くん。遠回りして帰る時間があるから、今のあれこれで聞きたいことがあるなら、いくらでも答えるわよ」
助手席から振り返ると、すっかり不機嫌の気配が抜けた御前の、真剣な目がまっすぐに見返してくる。
「あの方たちは…」
「成東くんの見立ては?」
「警察関係の方と………マスコミ関係の方、ですか?」
「その通り。警察庁の上のほうの人と、マスコミの上のほうの人。それぞれの手柄になりそうなネタを提供する代わりに、警察の情報開示とか、報道解禁とかのタイミングで便宜を図ってもらってる。
あんまり褒められたことじゃないから、そう滅多には頼まないけどね。
どう引導くか考えてみて、この引導にはどうしてもそういう情報操作が必要だと思ったら、引導人の持ってる人脈を使って、あんなんでも我慢して根回しをする。
引導の内容は
期間限定の身が聞くには荷が重い事情を明かされて、成東はそれをどう咀嚼したものか考え込んだ。
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