13

 時計は午前六時を指していた。

 睡眠薬を飲んで寝ても狂わない、自分の体内時計をどう評価したらいいものか、よく分からないままに樟葉は起きあがった。

 夕べ、文香から薬を渡された時には難色を示したが、目を閉じた途端に睡眠に引きずりこまれたから、身体は充分に休まっている。

 何もなく就寝したら全く眠れなかっただろうから、その配慮に感謝しなければなるまい。

 だが、夢も見ない眠りから覚めれば、嫌でも現実を思い出させられる。ベットの上に座り込んで、樟葉は天井を仰いだ。

 佐々木に別の女性がいる気配は、付き合いはじめた時点から感じていた。

 樟葉の部屋に泊まることはあっても、樟葉を自宅に招くことはない。それを友人に話すと、全員に「絶対遊ばれてる」「そんな男とは別れろ」と断言された。

 嫌だ、別れたくない…と答え、「そんなイケメンなのか」と問われて深々と頷いたら、説教をはじめた友人も少なくない。

 誰に言われるまでもなく、ろくでもない付き合いをしている自覚はあった。佐々木も、決して樟葉に優しかったわけではない。むしろ、いつ離れていっても構わないと言わんばかりにそっけなかった。

 ただ、佐々木が自分を仕事仲間の集まりにしばしば同伴してくれたから、いろいろと期待を抱いていたのだ。

 あれは一体、何だったのだろう。

 ぼろぼろと涙があふれてきて、慌てて手近のタオルを引き寄せて顔に当てる。嗚咽はあまり漏らさないよう、ぐっと歯を食いしばる。

 タオルがぐっしょりとなるまで泣き続け、涙が出尽くして疲れた後に、ふっと昨日の文代の手の感触を思い出す。

 佐々木に弄ばれているのが分かっていても離れられずにいるのを知っている人に、ちらりとでも佐々木のことを愚痴れば、「だったらさっさと別れろ」「自業自得だ」とさんざん怒られてきた。

 それが正しいのは判っていても、そうできないから悩んでるのに…と、はがゆい気持ちになることもしばしばだった。

 何も言わずに落ち着くまで泣かせてくれたのは、文代がはじめてだったのだ。

 おっかながってきたけれど、本当はけっこう優しい人なのかも知れない。人を見かけで判断しちゃいけないな…と、佐々木のことと合わせて、樟葉は少し反省する。

 とりあえず、後で文代と顔を合わせたら、昨日のことにお礼を言おう。そう思いながらベットを降りて、手に持ったタオルを洗うためにユニットバスへと向かった。

 結局、タオルを洗う必要はなかった。

 綺麗にしても、いろいろ考えているとまた泣き出し、何度もタオルを使うこととなった。何とか落ち着いた時には、朝食まで三十分を切っていた。

 鏡を見ると、目は充血し、まぶたは腫れ、鼻の下はがさがさになり、とても人さまにお見せできる顔ではない。出来る限り見苦しくないように、これ以上はないくらい必死で化粧する。

 時間になり、リビングへ顔を出すと、文香が一人であわただしく動いていた。

 「おはようございます…佐野さんは?」

 「おはようございます。姉さん、ほとんど徹夜で仕事してたんで、気絶してます」

 「それは大変な…あ、手伝います」

 一人でふさぎこんでいたら、よけいに滅入ってしまう。ここはひたすら別のことをして、気を紛らすに限る。

 「それなら、そっちでコーヒーメーカー持っていって、コーヒー落としてもらえます? お客様をこき使うのは申し訳ないですけど」

 「そのくらい大したことじゃないですよ」

 キッチンからリビングに、文香から渡されたコーヒーメーカーを運びながら、樟葉はふと文代の言葉を思い出していた。


   *


 昼前に起床した文代は、手早く支度を整え、朝昼兼用の食事を摂ってから、オフィスへと向かう。

 来客といっても、知り合いの集まりなので普段着のままではあるが、後に三者会議が控えているので髪だけはきっちりとまとめた。

 今日は、外での調査用件が入っている以外の秋津は、臨時の休みにした。日頃は仕事部屋に必ず誰かが詰めているので、廊下でもどこかざわついた空気が漂っているというのに、今はどこもかしこもしんと静まりかえっていて、落とす溜息がひどく反響した。

 応接間を掃除し終えてからしばらくすると、来客が三々五々集まってくる。いずれも、佐々木の同業者たる報道関係者か、文代の同業者で、みな樟葉とも面識がある。

 ほぼ定刻にはじまった会合は、佐々木の「失踪」の件で報道されていない情報を報告しあうところからはじまった。

 やはり、警察は樟葉を疑っているという。佐々木の捜索願を提出した女性が「樟葉が佐々木を横恋慕していて、以前から揉めていた。佐々木が樟葉との話し合いに行ってから戻ってこない」と、訴えていたのによる。

 だが、この場に集まった一同の、誰もその女性を知らなかった。むしろ、別の女性が突然交際していると称して登場してきたことに驚愕しているくらいだった。

 どういうツテを使ったのかは不明だが、佐々木の「失踪」を報道するべく、その女性にインタビューしたテレビ局もあったという。だが、その映像は何故か握りつぶされて、放映されていない。

 樟葉に嫌疑がかかっているのを匂わせる報道に不穏なものを感じて、即座に手を打った自分の勘は間違っていなかった…と、話を聞きながら文代は思う。

 そんなモノが流されていたら、事態が収束した後も樟葉が疑いのまなざしで見られていただろう。

 バラシ屋に樟葉を連れていかせるための煙幕に、よりにもよって自分を選んだのを佐々木には心底から後悔させてやる。改めてそう決意する。

 会合が終わり、出席者が引き上げていくなか、文代の同業者の男がひとり残った。

 「佐野さん、ちょっといいですか?」

 「なんですか?」

 「手柄ひとりじめはないんじゃないですか?」

 「え?」

 「赤城さんがどこ行ったか、知ってるんでしょ」

 にたりと笑ったその顔で、文代は直感する。確か、この男と佐々木はサシで呑みに行く間柄だった。何か吹き込まれていても、おかしくはない。

 舌打ちしたくなるのを押し隠して、営業用の顔で応対する。

 「もし私が知っているとしたら、どうするつもりですか?」

 「警察に突き出すか、誰かに独占インタビューを取らせるか、どっちにしてもおいしいネタになる。いくら出せば教えてくれます?」

 「――なめたことを言ってくれるもんだわね」

 ここまで見下げられて、おとなしくしているつもりはない。低く、唸るように返すと、相手が驚いたように目を見開く。

 「もし私が、赤城さんの保護を頼まれてるとしたら、マスコミと警察を全部敵に回したって居所はしゃべらない。それが探偵ってもんじゃないの。

 自分は金で動きますって断言するような同業者に、教えてさしあげるようなネタは持ってないから、さっさとお帰りいただけませんかね」

 「この野郎…っ」

 男が、文代の肩をつかもうと腕を伸ばしてくる。文代がその手をすり抜けた時、けたたましくアラームが鳴り響いた。

 その音に男は棒立ちになり、出所を探るようにきょろきょろと見回す。

 アラームに混じって、電子音声が「通報しました」を連呼しはじめる。

 「あと五分もしたら警備員が来るわ。監視カメラに、あなたのやったことはしっかり記録されてる」

 そう告げきらないうちに、男はいまいましげに文代を一瞥し、あわただしく去っていった。

 玄関のドアが閉まりきると、電子音がぴたりと止む。

 文代は天井を見上げ、照明の影に隠れたマイクに向かって声をかける。

 「サンキュ、文香。いいタイミングだったわ」

 『姉さんがキレてきてるのが分かったんで、ニセ警報のスイッチ入れさせてもらった。素人がキレた姉さんにされんのは可哀想だから』

 淡々と言ってくれる妹に、反論はできずに苦笑する。

 応接間を片付けてリビングに戻ると、文香と樟葉がテーブルの上に置いたスピーカーの前に陣取っていた。

 樟葉の強い要望で、応接間での一部始終をここで聴けるようにしていたのだ。

 「佐野さん………ありがとうございます………」

 樟葉が立ち上がって、深々と頭を下げる。

 「真司さんが頼んだのが、佐野さんでよかった………」

 先刻の彼なら、少し鼻薬をかがされただけで、樟葉をさっさとバラシ屋に引き渡していただろう。自分のところに来たのは、樟葉にとって本当に幸運だった。

 涙目の樟葉の頭をぽんぽんと叩くと、嗚咽があふれだす。背を軽くさすっても、昨日のように身体をこわばらせない。少し警戒を解いてくれたようだ。

 佐々木のことといい、かくまわれる状況といい、精神的にかなりつらいだろうが、涙が流せるだけまだ大丈夫だ。泣いて少しでも気が紛れるのなら、いくらでもそれに付き合おう。

 妹に泣きつかれた経験がないので、こういう状況は逆に新鮮だった。

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