12

 穂積たちから多賀の聴取の報告を聞き終えてから自室に戻った文代は、ノートパソコンを起動させた。

 引導人さばきの仕事が慌ただしくても、探偵業は待ってくれない。報告日が近い案件の報告書をまとめておこうとファイルを開くが、まったく手が進まなかった。

 かと言って、作業を止める気にもならず、キーボードに手を置いたまま、点滅するカーソルをぼんやりと眺める。

 玄関のドアが、こん、と叩かれた。

 待っていた音に急いで立ち上がり、一応魚眼レンズを覗いてからドアを開ける。

 「ごめんね、こんな遅い時間になって」

 「気にすんな。何時になってもいいって言ったのは俺だからな」

 「そんな急ぎの案件?」

 狭い三和土たたきを上がりながら、恭一郎が頷く。

 深夜というより早朝というほうが正しいこの時間でも、髭の気配も見せず、ダークグレーのスーツにシルバーグレーのネクタイでいるところから、連絡人つなぎとし

て火急の問題を運んできたのは明白だ。

 「それにしても…化けこんだわねえ」

 加えて、髪をオールバックに整え、メタルフレームの伊達眼鏡、ゼロハリバートンのアタッシュケースを提げた姿は、このマンションに複数住む政治家の秘書というていである。

 「俺がここに出入りしてるのが、あんまり見つからないほうがいいからな。穂積から報告きてんだろ?」

 「もしかして、穂積くんの尾行、気がついちゃった?」

 「ちょっと気配消したくらいで俺にバレないと思うなって、ヤツに伝えといてくれ」

 連絡人が多賀を尾けていたからには、彼の素性も調べ上げているだろう。このマンションに出入りする空蝉(もしくは秋津)なのも、間違いなく把握している。

 そうでなければ、「身辺に気をつけろ」という言葉も、「出入りが見つからないほうがいい」と言う言葉も出てこないだろう。

 「穂積はまだいい。空蝉の奴らの方がひどかったぞ。俺にも穂積にも気がつかねえって、連中を鍛え直したほうがいいんじゃないんですか、御前?」

 「空蝉の教育までは私が管理してないから、クレームは狭霧に言ってくれる?

 ――で、私も連絡人どのにひとつ用事があって」

 狭い空間に、二人して膝をつき合わせるように座りながら、文代は静かに切り出す。恭一郎もすぐさま表情を引き締めて、

 「何なりとお申し付け下さい」

 「いま連絡人どのに再調査してもらってる件について、今日の夜に三者会議を開きたいの。

 引導対象さばかれが『失踪』してくれたおかげで、いろいろ問題が吹き出したから、早く結論をまとめたくて」

 「私のほうは何時でも問題ございませんが」

 「それなら………この前と同じ夕方六時で」

 「かしこまりました。

 実は、その件でトラブルが発生しました。先日の三者会議の後から、依頼人すがりと連絡が取れません」

 「えっ」

 引導対象の佐々木が「失踪」したのと同時期に、佐々木の引導さばきを依頼した人物が音信不通になるのは、どうにも偶然とは思えない。

 「依頼人もこうなるのを予測していたようで、何かあった時に開封するようにと渡されていたものがありました。

 で、そいつに、佐野文代っつー探偵さんにこいつを渡してくれって指示があった」

 恭一郎がアタッシュケースから小振りな未開封の封筒を取り出し、文代に差し出した。

 受け取った封筒のふくらみの感触に、はっとして顔を上げる。

 「これ、印鑑ケース?」

 「俺もそう思う」

 恭一郎が急いだ理由が分かる。

 探偵に印鑑を託してくるなど、そうとうの事態だ。

 こんな大事なものを、手に持ったままにするわけにはいかない。慌てて立ち上がって、テーブルに封筒を置く。もう今日は報告書を作るどころではないと思いながら、文代はノートパソコンを閉じた。

 「お前、パソ閉じるの遅すぎるぞ。内容、全部見えちまった」

 「恭一郎だから安心して開けっぱなしにしてただけだって。普段はちゃんとしてます」

 正座を崩し、壁にもたれた恭一郎の横に腰を下ろしながら、文代も負けじと反論する。

 「俺相手だからって気ぃ緩ませてたら、ゆるゆるする癖ついて、いつか引導でポカやらかすぞ。普段から警戒しすぎるくらいでいいんだ」

 「あんまり細かいこと気にしてたら、そのうちハゲるわよ」

 「悪いな、うちはハゲない家系だ」

 「………そういえば、斎木のおじさまは、ふさふさのロマンスグレーだっけ…」

 「ついでに、狭霧のおっさんもフッサフサだ。よって、細けえのとハゲに関連性はない」

 返す言葉に詰まった文代に、恭一郎がにやりと笑う。

 隙なく整えた連絡人のこしらえにそぐわない、意地悪い表情を見せつけられるのが小憎たらしくて、少しふくれて恭一郎の腕をぺちりと軽くはたく。

 はたかれた方は、こんな時だけ三歳年上の余裕を見せつけるように、さらににやにやとして、文代の額を小突いてくる。

 そんなじゃれあいで一日の緊張が緩み、どっと反動が押し寄せてくる。身体を起こしているのも重く感じられて、恭一郎の胸に頭をあずけた。

 いささか乱暴にもたれかかっても、堅い胸筋は揺るぎもせずに受け止めてくれる。

 「こら、文香ちゃんと『部屋にオトコの持ち込み禁止』の協定結んでんだろ?」

 「分かってる。だから五分だけ……………ちょっと、疲れた」

 恭一郎の腕が、労るように柔らかく文代の肩を抱く。伝わる体温と鼓動と、その感触が心地よくて、文代は目を閉じた。

 恭一郎が帰った後、渡された封筒を開く。予想通りの印鑑ケースと銀行の通帳、厚い手紙が中から現われる。

 開いた手紙は、今どき珍しい直筆だった。大きめで癖のない文字は、達筆と言ってもよく、とても読み進めやすい。

 轟と名乗る差出人は、最初におのれが空蝉であると明かす。そして、どんなに諭し諫めても、年長の同輩が恐喝で道を踏み外してゆくのを止められない苦悩が綴られていた。

 多賀を強請ゆする相手に探りを入れた轟は、多賀の正体を知った彼らが、それを利用して大がかりな恐喝を企んでいることに気付く。

 狭霧にも報告はしたが表立った動きはなく、このままでは彼らが計画を遂行しまうのではないかという懸念が日に日に強くなってきた。

 だから連絡人に依頼を託したが、自分でも佐々木の動向を追うし、場合によっては潜入もする。単独行動であるから、危険にさらされる可能性は、通常の業務にあたっている時よりも格段に高い。

 音信が途絶えることがあれば、空蝉が探索に当たってくれるだろう。自分の力が及ばず、空蝉の救護の手も間に合わなかった時のことは覚悟している。

 ただ、佐々木が不穏な動きを見せた時に、気がかりなことがある――

 手紙を読み終えた文代は、深く溜息をついた。

 「一日早かったらよかったのに…」

 言っても詮ないことであり、何よりも多賀の監督不行届きだった自分が言うべきことではないのは、充分に判っている。

 だが、一日早くこの手紙を目にしていたら、多賀の確保は違う形になっていただろうし、樟葉を試しはしなかったと思うと、胸に苦いものがあふれてくる。

 「早く轟さんを探して、これを返さないとね」

 机上の印鑑ケースと通帳の上に、そっと手を置いた。

 空蝉からの頼まれごとに、報酬など必要ない。

 引導人の表稼業が探偵なのは空蝉にも知れている

が、世にあまた存在する女探偵の誰なのかを知る空蝉は数が限られている。

 轟も、まさか自分の手紙が引導人の手許に行くとは思っていなかっただろう。

 それに、轟が保護を願った「事情は分からないが佐々木と関係のある、長年交流のなかった実妹」は、すぐ向こうの部屋で眠っている。

 収支はトントンの探偵事務所だが、もう果たされている依頼に対して、更に報酬をもらい受けるような、阿漕あこぎな商売はしていない。

 轟が見つかったら、落ち着いた後に直接会いにゆこう。多賀の異変に気付けなかったことを詫び、(単独行動は褒められたことではないが)多賀のために骨を折ってしてくれたことを感謝したい。

 印鑑ケースと通帳を、慎重に封筒に戻す。

 苦く重い轟の依頼だが、この先は疑いを抱くことなく樟葉を保護できるのが確定したことには救われる思いだった。

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