11

 秋津たちが詰める仕事部屋の、廊下を挟んだ向かいに、依頼者クライアントとの打ち合わせに使用する応接間がある。

 その部屋に姿を現わした狭霧の、濃紺の三揃えの背には憔悴の影がにじんでいた。

 「御前、私が至らぬために申し訳ございません」

 狭霧が床に膝をつくのを手で制する。

 「狭霧だけのせいじゃない。ずっと気がつかなかった私にも責任ありだわ」

 我ながら力のない声が転がり落ちる。

 「多賀から少し話は聞いたけど、本当に相手に空蝉だってバレてないの?」

 狭霧がソファに控えめに腰を落ち着けるのを待って、肝心の疑問をぶつける。

 多賀の告白どおりの強請ゆすられ方で、狭霧が隠密に動くわけがない。

 狭霧は首を横に振った。

 「知られているのではないかと。担当外の案件の情報を探っていたのを確認しております」

 多賀があまりにも素直に白状するので、何か隠しているのではないかと勘ぐっていたら、案の定である。

 「多賀が聞き出そうとしていた案件はなに?」

 「―――最明寺の件です」

 狭霧がしばし口ごもったのも無理はない。空蝉が引導さばきに向けた内偵を進めている案件の中でも、最重視しているのがその件であるからだ。

 外食チェーンを運営する最明寺グループは、月百時間近い残業を当たり前とする企業風土が海外から批判されても言いがかりだとして切り捨て、従業員の死が過剰残業による過労死と裁判で認定されても一切認めないその姿勢で、いわゆるブラック企業の代表格としてしばしば報道されている。

 だが、そうした事例の多さのわりには、厚生労働省をはじめとする政府機関の、最明寺グループに対する動きが鈍い。ゆえに、政界ととの癒着疑惑もつきまとっている。

 噂どおりの理由で最明寺が従業員を食いつぶすような経営を成り立たせているのなら、それを白日の下に晒してほしい。

 最明寺グループのチェーン店に勤務していた息子を過労死で亡くした夫婦が、連絡人つなぎにそう依頼してきたのが数ヶ月前のことになる。

 政府高官と最明寺グループ社長に関わりがあることは、連絡人の調査の時点で簡単に探り出せた。現在、最も依頼人すがりの意に沿った引導さばきを行えるように、細心の注意を払って空蝉たちが動いている。

 佐々木が樟葉をひそかに始末し、その彼女に危害を加えられたように偽装して「失踪」した理由が、これで掴めた気がする。

 政治家がブラック企業から不適切なを受けている証拠で強請れば、たいそう魅力的な見返りが期待できるが、そのぶん身の危険も増す。そのために、あらかじめ「存在しない者」となっておこう…という目論見なのではないか。

 「最明寺の件を嗅ぎ回ってた件は、狭霧に聞き取りを任せるわ」

 「ありがとうございます」

 「ただし、私も状況は知りたいから、代わりに穂積を立ち会わせる。異存はないわね」

 「はい」

 そう答える狭霧の眉が、刹那だが少し歪められたのを文代は見逃さなかった。

 スーツに着替えてきた穂積の機転を褒めてやりたい。普段のダメージデニムで立ち会おうとしたら、「そんな身なりで『御前の名代』とは無礼にもほどがある」とか、揚げ足を取られていたに違いない。

 「あと、明日…じゃなくて、今日の夜に三者会議を招集したいのだけど。

 多賀が最明寺の件に探りを入れてたとなると、連絡人どのに再調査してもらってる件をどうするかはっきりさせておかないといろいろやりにくいから、急ぎで片付けましょう」

 「了解いたしました。予定を空けておきます」

 「時間は、連絡人どのとの調整ができたら、追って知らせます」

 「お急ぎならば、日中でも私に異存はございませんが」

 「表の私の予定が空いてなくてね。引導対象さばかれと同姓同名の知り合いがいる関係で、とばっちりが来てて。

 それが、まったく例の件と関係ないわけでもないから、夜に三者会議なら何らかのフィードバックができるかも知れないし」

 「引導対象が『失踪』したと報道されておりましたから、その関係でしょうか?」

 ニュースで流れたことはわざわざ隠す必要がないので、そこは素直に頷く。

 「御前の事情を存じず口を挟みまして失礼いたしました」

 そう言って立ち上がりかけた狭霧を、文代は押しとどめた。

 「あとひとつだけ。

 規律違反をやらかした空蝉に優しくするつもりはないけど、多賀の処分はしばらく待って。できれば、引導対象をおびきだす囮に使いたいの」

 「御前のお考えのままに。多賀も、最期に引導のお役に立てれば、悔いはありますまい。

 では、多賀の身柄をいただいてまいりますが、ご許可いただけますでしょうか?」

 「いいわ」

 狭霧の声も、文代の声も、重かった。


   *


 御前との話し合いを終えた狭霧に従って、秋津の三人は多賀を地階へと連行した。

 空蝉の拠点のひとつでもあるそのフロアで、やはり沈鬱な顔をした空蝉たちと共に、聴取の場となる会議室に詰める。

 その後、仕事部屋に戻って、その内容を御前に報告した。眉筋ひとつ動かさず、一言も口をはさまず、ただ穂積の話を聞く御前の顔色がいつもより悪かったのは、深夜のせいだけではないだろう。

 自室に戻る御前を見送ってから、長田も、穂積も、そして成東も、畳に座り込んだまま口も開けずにいた。

 何日も徹夜して駆け回った後よりも、全身が重い。

 「………もうちょい、多賀さんの夜遊びにつきあったほうがよかったんかな………」

 長田がぽつりと呟く。大きな体軀を丸め込み、泣き出しそうな顔をしているその様子は、雨に打たれるオールド・イングリッシュ・シープドッグを連想させた。

 「っつても、キャバクラではっちゃける多賀さんのテンション高すぎて、みんなドン引きしてたからなあ………」

 着慣れないスーツでもぞもぞしている穂積の声も沈んでいる。

 「多賀さん、そんなにひどい遊び方してたんですか?」

 成東が思わず尋ねる。

 多賀本人が告白した、佐々木に強請ゆすられるようになった詳細な経緯は無論頭に残っているが、御前にはかいつまんでしか説明できなかったその内容と、自分が接してきた多賀のイメージとが、どうしてもつながらない。

 「昼とは別人だった。頭のいい人だから、酒と女でストレス発散してても心配してなかったのに…」

 長田が言葉を詰まらせ、脇を向いてうつむいた。

 「………けど、あれじゃあ多賀さんをかばえないしな………」

 かすかな穂積の声を、鼓膜がかろうじて拾う。

 空蝉が(そして、秋津が)どんな大義名分を掲げていようと、さまざまに手を汚しているのには変わりなく、それに対して抱くもろもろに耐えかねて、ある者は酒に、ある者は女に逃避する。

 彼らの心情は成東にも分かる。

 だが、ハメを外しすぎて恐喝されたあげく、御前の引導さばきを支える生命線とも言える情報を外部に渡そうと画策するのは、同じ空蝉として許せないし、同士と思いたくもない。

 だが、短い期間でも多賀と接してきただけに、無下に憎むこともできない。

 穂積でもこうなのだから、長田や穂積はさらにやりきれないのだろう。

 「――そういや、シフト組み、明日からどうする?」

 落ち着いたらしい長田が、顔を上げて穂積に問う。探偵事務所と秋津のシフト編成は、多賀がすべて担っていたのだ。

 「しばらくこいつに頼もうと思ってる」

 穂積のあごが成東を指した。

 「私ですか?」

 至って真面目な顔で穂積が頷く。

 青天の霹靂とは、こういうことを言うのだろう。

 「私が一番ここにいる期間が短いのに…」

 「だからちょうどいいんだ。

 オレが仕切ると、空蝉じゃないヤツが出ばるなって突っかかるヤツが出てくるし、聞き込みや尾行にコイツとコイツを組ませるとうまいこと動くとか、コイツとコイツは相性悪いとか、いちいち考えんの嫌いだからアウトだ。

 秋津やってる長さで言ったら長田になるけど、コイツはオレよりむずかしいこと考えるの嫌いだから、もっと向いてない。

 成東だったら、期間限定の緊急事態でしょうがないってんで、皆がガマンできるからな」

 「期間限定…」

 「だろ? 空蝉の親分に頼まれて、多賀さん見張るのに都合いいから、御前に興味持たれるようにして、秋津にもぐりこんで…」

 「面白かっただろうな。俺らがなーんにも知らないで、多賀さんと仕事してるの見てて」

 穂積を遮って、長田が唸るように言葉を絞り出す。

成東を見る目が据わっていて、ぎらりと不穏な光を帯びる。危険を感じて、成東は腰を浮かせた。

 「どうして俺らに教えてくれなかった! 分かってたら、最明寺の件に触る前に止めてたのに!」

 成東が身体を壁際にまで引くのと、詰め寄ってきた長田が両手で成東につかみかかろうとするのは、ほぼ同時だった。

 穂積が、二人の間に割って入り、長田の身体を押しとどめる。

 「やめとけ。コイツに八つ当たりしたって、多賀さんは戻ってこねえよ」

 力ない穂積の言葉で、長田の全身が緩む。元の場所に身体を丸め込み、片手で顔を覆った。

 また沈黙が落ちるのを見計らって、成東は口を開いた。

 「さっきのことですが、穂積さんは誤解されてます。

 頭領から多賀さんのことで指示をいただいたのは、秋津に一時異動するのが確定してからです。御前からお声がかかったのは、本当に偶然でした。

 それに、元のセクションの上長からも、秋津に入るなら多賀さんの様子を見ていてほしいと頼まれまして」

 穂積が長田をつついて顔を上げさせ、パソコンのほうへと顎をしゃくる。頷いた長田はその前へと移動し、かたかたかたとキーボードを打ちだした。

 「悪いがウラを取らせてもらう。その上長の名前は?」

 「轟です。轟圭吾。………まさか?」

 空蝉全体の名簿と、おのおのの稼働状況を記録するデータベースが存在しているのは知っている。だが、それに閲覧できるのは、御前とごく一部の空蝉のみで、空蝉としては立場の高くない長田がそこに含まれるとは思えない。

 「その『まさか』。何かあった時用にって、御前がこいつにアクセス権限持たせてくれてる」

 「ほとんど使ったことないから、パスワード忘れてて焦った………え?」

 長田の不審げな声に反応して、穂積がディスプレイを横から覗きこむ。成東も、自分が機密情報を目にしてしまっていいものか、逡巡しながらも二人に近付く。

 「その轟さんが、ここ何日か居所不明になってて、空蝉の親分が行方を調査せいと指示出ししてる」

 成東がディスプレイを見える範囲に来るより前に、穂積が情報をかいつまんで教えてくれる。

 「成東、轟さんのセクションで、居所連絡の取り決め、ちゃんと機能してたか?」

 長田が尋ねてきた意図を察して、成東は震える。

 「徹底してました」

 「なら、本気でやばいな」

 空蝉が探索や潜入などで動き回る場合、どこで何をしているか不明にならないよう、セクション内に何らかの形で必ず連絡を入れることになっている。ただし、セクションによってはそれが形骸化していることもある。

 居所連絡の取り決めが生きているセクションを束ねる轟が、データベースで「所在不明」とされているということは、轟が連絡を送れない状況下にあるのを意味する。

 「この人、多賀さんと同期だから、付き合いがあるかもな。それで、多賀さんの動きがおかしいのに気が付いて、秋津に入る自分の部下に様子見を頼んだ…」

 「待て待て待て。想像で暴走すんな。

 そんでも、多賀さん強請ってるヤツが御前に頼んだ表仕事が動きだすのと、成東に多賀さんの様子見を頼んだ人がどこ行ったか分からんようになるのがほぼ同時ってのは、引っかかるよな。

 それに、空蝉じゃないオレでも、空蝉の親分が空蝉ひとりを探すのに自分で指示出ししてるのはおかしいってのは分かる」

 「人探し程度で頭領が動くなんて、ありえねえ。上のほうの動きを探ってみるか」

 「そっちは任した。どのくらいで探れる?」

 「表の調査もあるから一日じゃ無理だ。二、三日くれ」

 「あの…」

 調査の段取りを相談しだした穂積と長田に、成東はそろりと声をかける。

 「轟さんの『所在不明』に、どうしてお二方がそんなに熱心に当たられるんですか?」

 「当たり前だろ。多賀さんが原因で起きたかも知れねえことを、オレらで後始末しないでどうすんだ」

 こともなげに穂積は言い切った。

 「つか、こんな展開なら完全に秋津の仕事だ」

 「長田ちゃん、イエローカードぉー。そいつは、期間限定のヤツに教えることじゃない」

 「どういうことですか?」

 成東の疑問を黙殺して、長田と穂積は打ち合わせを再開した。

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