10
午後十一時。
出勤してきた彼は、オフィスの玄関を上がるなり見慣れぬ光景に遭遇した。
オフィスエリアと御前の居住エリアを隔てるドアが全開になっていて、そこで成東と御前が深刻な顔で話していたのである。
寄っていって事情を尋ねると、
「御前から、ここのドアのロックがかからなくなったと連絡をいただきまして」
生真面目な顔をした成東が答える。もうマンション警備の業務は終わっている時間なのだか、まだ制服のままでいるのは、この対応にあたっていたためらしい。
「で、どうやら静脈認証のセンサーが壊れてるらしいって話になってね」
「メーカーは急かしておきましたが、部品の取り寄せにどのくらい時間がかかるかすぐには分からなくて、いつ修理に来られるかは朝にならないと回答できないとのことでした」
緊張の面持ちで直立不動の姿勢を崩さず御前に説明する成東の姿は、殺伐とした報告をフランクに言ってのける他の秋津たちの姿を見慣れた目にはひどく新鮮だ。
「まあ、壊れちゃったものはしょうがないものね。玄関のロックがかからなくなったわけじゃないから、しばらく壊れたままでもそんなに実害ないでしょう。
遅い時間まで対応ありがとう」
「いえ、業務ですから。では失礼いたします」
深々と頭を下げた穂積は、オフィス側の玄関から出て行く。御前は彼に「夜勤よろしくね」と声をかけて、ドアを閉めた。
彼は、秋津の仕事部屋に入りながらほくそ笑んだ。御前の居住エリアに入り込む手だてに悩んでいたのだが、手を下さずとも問題が解決してしまったのだから、頬を緩めずにいられようか。
あとは、夜が更けるのを待つだけだ。
バラシ屋の張り込みや、他の調査業務にあたる同僚たちから急ぎの連絡が来ないようにと祈りながら、時間が過ぎるのを待つ。
午前二時。
ドアの向こうから生活音が聞こえなくなって久しい。そろそろ頃合いだろう。
彼は携帯電話を取り出し、教えられた電話番号を呼び出す。出た相手――バラシ屋の若手に、声をひそめて三十分後にそちらに行くと告げる。
通話を終え、電話をパソコンデスクに置く。先刻までそれを持っていた手が、汗でぐっしょりと濡れ、細かに震えていた。
ティッシュで手を拭きながら、鼻で笑う。
どうあがいても、もう引き返せないのだ。腹をくくらなければならないのに、はじめて手を汚すガキのように怖じ気づくとは、我ながら往生際が悪い。
それでも、意を決して立ち上がるのにはしばらく時間を要した。
足音を忍ばせて、センサーの壊れたドアの前に立つ。
ドアノブを持ち、ゆっくりひねると、何の引っかかりもなく回る。そのまま戸を押せば、はじめて見る廊下の続きが彼の前に現われた。慎重に、そこへと足を踏み出す。
無論照明はないが、カーテン越しに薄く差し入る外の灯りだけで、夜目の利く者には充分だ。
御前の居住エリアに侵入し、リビングの右手に一つ、左手に二つあるドアを見て、客間はどこなのかしばし逡巡する。
この間取りなら、御前姉妹の部屋が並んでいると考えるのが自然だ。右側が客間の可能性が高い。
柔らかい絨毯がさらに歩行の気配を消してくれるのをありがたく思いつつ、するすると右手の壁に沿って進み、ドアの脇へと至る。
慎重に腕を伸ばし、ドアノブをつかんだ。
その彼の間近を、ひゅっと何かがかすめた。その元凶が、彼の鼻先すれすれの壁に突き刺さる。
それは、軸が普通よりも太い平打ちのかんざしだった。いや、普通よりも細身で華美な棒手裏剣、と言うべきだろうか。円形の飾りにほどこされた精緻な蝶の透かし彫りが、壁に薄い影を落とす。
はっとしてドアノブから手を離し、背後を振り返る。
反対側の壁にもたれて、両腕を組んで立つ御前の姿があった。腕に隠れて見えないその手は、いつでも投擲できるように得物を握っているのだろう。
薄闇のなかで、御前と目が合う。何の感情もなく、ただ見返してくる御前の冴え冴えとしたまなざしが、彼を圧する。全身からどっと冷汗が吹き出す。心臓が縮むようで、息が詰まる。
だが、止まれない。
ここで指示された通りに動かなかったら、累が及ぶのは彼一人ではない。
歯を食いしばり、御前から顔をそむけて、再びドアノブに手をかける。
その彼の肩に、誰かが手を置いた。
「もう終わりにしましょうや。御前は、奥さんと子供さんにまでは手ぇ出さないって言ってましたよ」
囁かれた穂積の言葉に、彼――多賀はその場にくずおれた。
*
床に座りこんだ多賀を、穂積が引き起こす。キッチンと洗面所の間のドアの影に隠れていた成東も姿を現わして、穂積を手伝い多賀のボディチェックをてきぱきと終わらせる。そして、結束バンドで多賀の腕を後ろ手に縛り上げ、二人で片腕ずつをとってオフィスへと連れてゆくのを文代は無言で見守った。
息を吐いて、イヤーフックのイヤフォンマイクのスイッチを入れる。
「終わったわ、お疲れさま」
ごく小声で言うと客間のドアがそろそろと開き、片耳にイヤフォンを付け、高出力スタンガンを持った文香が出てきた。多賀をこのリビングで止められるとは思っていたが、万が一の場合に備えて文香に客間で待機してもらっていたのだ。
スイッチを切ったイヤフォンマイクを耳から外し、部屋に戻る文香に手渡す。代わりに、文香からは壁から引き抜いた棒手裏剣を渡された。
薄暗い中でも落ち着いた金色の光沢を見せる、それは
しばしそれを凝視してから自室のパソコンデスクの上に置いてから、オフィスへと向かう。
コタツを廊下に出した仕事部屋の中央に多賀が据えられ、その後ろに黒一色のスーツ姿の穂積、警備員の制服のままの成東、同じく制服姿でイヤフォンマイクを付けたままの長田が控えていた。
多賀の前に立つと、彼ががばっと顔を上げる。
「申し訳ありません! 申し訳ありません!」
泣きじゃくりながら文代の方へと身を乗り出すのと、背後の三人が制する。姿勢を低くし、畳に擦りつけそうなほどに頭を下げ、激しい嗚咽混じりに謝罪を繰り返す多賀の姿に、文代の感情がすうっと冷めてゆく。
「謝るだけで許されるような、甘っちょろい環境だと思ってるの?」
ひっ、と多賀が喉の奥で声を詰まらせる。
文代が多賀の異常に気が付いたのは、
佐々木があれだけ頻繁に「赤城樟葉」と会っているのに、佐々木の身辺調査を担当した多賀が気付かないわけがない。
なぜ、その存在を調査報告に出さなかったのか。
疑問を抱いて、穂積に多賀の尾行を頼んだら、その日のうちに佐々木と会っているのが分かったのだ。こうなると、上司たる自分への報告内容を故意に曲げた可能性がある。
そもそもの
何よりも、秋津が引導人の指示に背いた以上、ただでは済ませられない。
処罰する前に、佐々木と多賀の関係は直接ただしておきたい。もし、連絡人から上がってきている案件に影響するのなら、自分の手で挽回することでこの不始末を防げなかった責任を取るしかない。
ただ、狭霧が探っていた事情には介入するつもりはない。とはいえ、空蝉を従える者として事の顛末は知りたいので、狭霧が多賀を聴取する場に名代として穂積を立ち会わせるつもりだ。
だが、文代の思惑は多賀当人によって崩される。
動揺しているらしい多賀は、しゃくりあげながら順不同に自分のしでかしたことを列挙しだしたのだ。嗚咽混じりで聞き取りにくく、話が前後しがちなので、文代や穂積が途中でさえぎって時系列を確認することもしばしばであった。
話を整理すると、
その過程で、多賀が探偵としての文代の配下にあると分かった佐々木が、文代に依頼する前に今回のからくりを明かし、余計なことを漏らすなと圧力をかけていたという。
多賀が偽ったのは、佐々木の身辺調査の結果だけではない。文代が樟葉をあずかった翌日、バラシ屋の見張りを担当していた多賀は、来訪した佐々木を尾行すると同僚に見せかけて追い、彼を捕捉するどころか、樟葉の抹消を図る目論見が崩れたことを告げたのだ。
それを聞いた佐々木から、樟葉を文代の手元から連れ出してバラシ屋に渡すか、多賀が始末するように要求されたのだという。スタッフがおいそれと警護対象に近付けないと抗議したが、聞き入れられるわけもない。
そして、焦る多賀は文代の仕掛けたあからさまな罠に落ちた。
文代とて、警戒はしていたが、多賀がオフィスから侵入してくる確率は低いと思っていた。むしろ、その状況を知って佐々木に連絡を取ることを期待していたのだ。
そのため、仕事部屋の正面にある応接間に待機する長田が、多賀の外部通話の内容を探っていた。
その長田からのイヤフォンマイクごしの報告で、事態がどう転んでも佐々木が樟葉を抹殺する心づもりだったのかはっきりした。従って、連絡人に持ち込まれた案件に、いま客間で眠っている樟葉は関与していない。
多賀の告白を聞き終えて、文代は少し考えこむ。
こういう事情なら、探偵としても引導人としても、多賀を囮に使って佐々木を油断させたい。そのためには、多賀を引き渡す際に、狭霧に相談しなければなるまい。
「長田くん、こんな時間になんだけど、すぐにこっちに来てもらうよう、狭霧に連絡してもらえる?」
「――頭領は、地下の管理事務所で待機しておられます」
返答しようとした長田をさえぎって、成東が告げる。
「御前、黙っていて申し訳ありません。
頭領から、多賀さんの関わることで動きがあったら、
随時報告するようにとご指示を受けていました」
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