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 樟葉が目を開けると、横から気遣わしげに顔を覗きこんでいる文代と目が合った。

 「よかった、やっと気がついた。

 大丈夫、気持ち悪かったりしない?」

 どうして自分はこんなに心配されているのだろうか…と、目をしばたかせる。しばらくして、やっと気を失う前のことがふうっと記憶の表層に浮かんできた。

 「あ、すいません、私…」

 「すぐにお医者さんに来ていただいたけど、単なる気絶とのことだったわ。でも、倒れた時に変に身体ひねったり、どこか打ってたりしてるかも知れないから、何かおかしいと思ったら言って」

 もぞもぞと身体を動かしてみるが、特に異常を感じない。

 「大丈夫だと思います、たぶん」

 「ところで、お昼過ぎてるんだけど、ごはんどうする?」

 「………すいません、全然食べる気が」

 しないんですが、と言いかけたところで、樟葉の意志とは無関係に腹が鳴る。一瞬の間を置いて、文代が吹き出した。咄嗟のことで無防備になったその表情が存外に可愛らしく、この人でもこんな顔ができるのかと思わず見入ってしまう。

 「内臓が通常運転なのは悪くないって。ちょっと待っててね」

 文代が立ち上がって去っていくのを見送っていて、やっと自分がリビングのソファに寝かされていたことに気が付く。

 そろそろと起きあがってみるが、眩暈や何かは起こらない。

 ドラマで「ショックを受けて気を失う」シーンを観ると、そんなことがあるわけないだろうと突っ込みを入れていたが、あれは嘘ではなかったのだと妙なところで感心してしまう。

 頭を振り、天井を仰いで溜息をついた。

 佐々木のことに対して、何の感慨も浮かんでこない。自分の中身が空っぽになっているように思える。

 腹の虫をなだめるべくうどんを流し込み、食後に文代とたわいない雑談をしていた時だった。

 「佐野さん………私、分かってたんです………」

 話題の合間に、ぽろりと言葉が転がり出る。途端に、長らく封をしてきたものが一気にこみ上げてくる。

 「真司さんが他に付き合ってる人がいて、そっちの人のほうが本命なんだって………私は都合よく使われてるのは分かってて、でもそれでも良くて………」

 悲鳴にも似た言葉が次々と口をつくのにつられて、涙が一気に噴き上がってきた。その激しさにしゃくりあげて、じきに言葉が紡げなくなる。

 いつの間にか隣にきた文代が、あやすように背にさすってくれる。その手の温かさが心身に染みた。

 佐々木に対して今まで溜め続けたものをすべて吐き出すような嗚咽は、長らく止まらなかった。


   *


 号泣した後、またソファで寝ついてしまった樟葉の顔を、文代は床に座って覗きこんだ。

 横向きに、ブランケットの端を両手で握りしめて眠るその表情は、苦しそうではあるが、呼吸は落ち着いているので身体的な異常はなさそうだ。

 普通の睡眠中なら、絶好の機会だ。

 佐々木が樟葉を自分に預けた意図を、文代はまだつかみかねている。

 はじめからバラシ屋に樟葉を渡すつもりで、樟葉を欺くための煙幕に自分が使われたと考えるには、合言葉の存在が邪魔になる。

 かといって、樟葉を潜入させたくて、バラシ屋と示し合わせて一芝居打ったとしても、あの合言葉と佐々木がつながらない。

 あれはおそらく、百人一首から採られたものだ。申し訳ないが、佐々木がそうしたものに親しんでいる印象がまるでないのだ。

 さらに、本当に樟葉の身辺を心配して文代に託したとは、佐々木の樟葉への対応を知っているだけに素直に受け止めきれない。

 こういう手は使わずにおきたかった。だいたい、探偵が警護対象を疑うのはもってのほかだ。

 まして、こんな痛々しい状況下で樟葉を試すのは、かなり非道だとは自覚している。

 だが、引導人としてこの先の動きを決めておくことは、すべてに優先する。

 文代は立ち上がりながら、インサイドパンツホルスターからシグザウエル P232を抜いた。セーフティを外して両手で構え、銃口を樟葉のこめかみのすぐ上に据える。

 樟葉は身じろぎもせず、すうすうと寝息を立てたままだった。

 文代は身体の力を抜いて、拳銃をホルスターに戻した。

 後ろ暗い商売に手を染めている者なら、殺気には敏感だ。それを察知したら、何らかの反応を起こさずにはいられない。無反応を装うのは不可能だ。

 眠りこける樟葉は、少なくてもこちら側の稼業の人間ではない。

 それならば、もし佐々木が自分に探りを入れるために樟葉を送り込んできたとしても、手を打つのは楽だ。表稼業の人間に悟られるような引導人さばきではない。

 それにしても、警護対象を疑うのは探偵としての良心が痛む。樟葉に向けて深く頭を垂れて、文代は内心で詫びた。

 夕方、頼んだ調査を済ませてマンション近くまで戻ってきた穂積から連絡が入った。

 今はオフィス前で打ち合わせる姿を他の秋津に見られるのもまずいので、自室側の玄関前に来るように指示する。

 ショールを引っかけて自室玄関を出た。そのすぐ近くに内階段がある。

 ここを指定したことで穂積も事情を察するだろうから、エレベーターを使わずにこの八階まで階段で上がってくるに違いない。だから、急がなくていいと言ったのだ。

 だが、穂積は涼しい顔で階段を駆け上がってきた。

 「お待たせしました」

 さくさくとデジカメを出してくる。

 「御前から頼まれた、卒業アルバムの写真がこれっすね」

 画像の中に、今よりも幼い顔の樟葉が神妙な顔で収まっている。

 樟葉を診てもらったドクターに、彼女の顔に整形の痕跡がないのは確認してもらっている。だから、いま文代があずかっている「赤城樟葉」は偽名ではないと、これではっきりした。

 「ありがとう。助かったわ」

 「で、夜の件ですけど。追加で成東をひきずりこんどきました」

 「成東くんを?」

 「あいつが一番秋津ん中のしがらみがないし、夜まで下で警備員やってるから、使わなきゃ損っすよ」

 「なるほどね」

 文代がいくつも思案していたの撒き方の、アイディアがひとつに絞られた。

 手短に穂積に今夜の手順を説明する。

 「――分かりました。皆に連絡しときます。

 あと、いっこだけいいっすか?」

 「なに?」

 「もし何かあっても、御前が直接手ぇ下しちゃダメっすよ。『名誉のお手討ち』になっちまうんで。

 空蝉が動いてるのに、秋津ん中のおかしい動きが分からんかったのは、お庭番なオレっちのミスです。そのオトシマエに、そん時はいくらでもオレっちがヤツをボコります」

 穂積は、空蝉と兼務しない唯一の秋津である。ある案件を引導さばく時に、なりゆきで命を助けたのが縁で文代に付き従うようになり、狭霧に「空蝉やる気はないけど、御前の下で仕事したいんす」と直談判した末に秋津に加わった。

 空蝉としての業務との兼ね合いや、狭霧への配慮なしに文代の采配で自在に動けるので、「御前のお庭番」を自称する。

 だから、精神的な負担を強いるのを承知の上で、文代は秋津内部への調査を穂積に託したのだ。

 それにしても、穂積に気を遣わせるとはなんとも情けない。

 「こら、事情話してもらうまでは、絶対ボコっちゃ駄目よ。とくに顔は。事と次第によったら、まだ働いてもらわなきゃならないかも知れないし。

 ともかく、下手したら徹夜になるかも知れないから、時間まではゆっくり休憩しておいて」

 「了解っす」

 穂積にしては珍しく長く敬礼した後、また内階段から帰ってゆく。

 その足跡が聞こえなくなってから、文代は部屋に戻った。

 背信行為をやらかしてくれたを、探偵事務所のチーフとしても、引導人としても、許すつもりはない。

だが、どうしてそんなことをしたのか、その理由は知りたい。

 部下に道を踏み外させるようなことをさせるほどに、自分は不甲斐ない上司だったのか。その不満を、なぜ自分は汲み取れなかったのか。悔やんでも悔やみきれない。

 まして、狭霧が秘密裏に空蝉に探らせるようなことをやらかしていたのを、頻繁に顔を合わせていながら、自分はなぜ察知できなかったのか。

 ショールをパソコンデスクの上に投げやり、額を押さえる。

 表裏どちらの仕事でも、大きな案件を抱えている時には禁酒するのが常で、それをつらいと思ったことはない。だが、今は喉を焼くウオッカが恋しかった。

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