8
習慣とはおそろしい。
目覚ましをかけてもいないのに、会社に行く時と変わらず朝の六時に目が覚めてしまう自分に、樟葉は妙に感心した。
ぼんやりしたまま、部屋のそこかしこに視線をやる。
逗留二日目となると、一番長くいる場所には少し馴染みが出てくる。
昨晩は、自宅より堅めの枕とふんわりした布団がどうにもしっくりせず、ごそごそしていてあまり眠れなかった。今日は少し熟睡できたようで、昨日の朝より頭がすっきりしている。
このまま起きて室内でごそごそしていて迷惑にはならないのだが、予定もないのに布団から出るのもおっくうで、そのまま目を閉じてしまうことにする。
それなりに交通量の多い場所のはずだが、高層階で窓ガラスも厚いせいか、あまり喧噪を感じない。住宅街の中にある樟葉の自宅のほうがうるさいくらいだ。
なまじ静かなのも落ち着かないと思いながら、とろとろとまどろんでいるうちに寝入ってしまい、次に目を開けた時には八時を過ぎていた。
隣室で人の動く気配がする。朝食は八時半という申し合わせになっているので、樟葉は慌てて起き上がる。
気を使わなくていいとは言われたが、さすがに寝起きの顔にパジャマのままで部屋から出るわけにはいかない。あたふたと最低限の身支度を調えてからドアを開けた。
「おはようございます…」
「おはようございます」
ダイニングに立つ文代と、リビングの床に座る文香が声を揃える。
「何かお手伝いすることがあれば…」
「赤城さんはお客さまだから、座ってて」
「あ、はい」
文代と文香が朝食の支度に動いているのに、自分がちんまりとソファに収まっているのは、少々据わりが悪い。
「で、文香。いつまでスマホとにらめっこしてる気?」
コーヒーをドリップする合間にスマートフォンをいじる文香に、キッチンから文代の声が飛ぶ。樟葉にも馴染みの、セーターにジーンズで、背にポニーテールを揺らしてきびきび動く姿は、朝のけだるさが一切見あたらない。
「どこかの誰かさんが急ぎの頼み事突っ込んでくるから、こうでもしないとほんとの仕事の進捗確認ができないんですけど。そろそろ特急料金請求しようかな」
カットソーも、床すれすれのマキシロングも常にアースカラーの渋い色合いで統一している文香だが、ピアスだけはビビットな色合いのものをつけている。小さいながらも目を引くスカーレットのティアドロップを揺らして、姉のほうに顔を向けるが、言葉ほど声は尖っていない。
「ごめんなさいごめんなさい。ご機嫌をお直し下さい、文香さま」
文代が、両肩をすくめて妹を拝む。こちらも、半ばおどけて応じている。
そんな姉妹のやりとりに、樟葉は思わず笑ってしまった。二人がそれに怪訝そうな視線を向ける。
「ああ、すいません。ぽんぽんやりとりできる
途端に、文代も文香も「とんでもない」と口を揃えて反論してくる。
「いろいろ細かい妹持つと、他人じゃないぶん遠慮なく突っ込んでくるから、たまったもんじゃないわよ」
「妹なら言うこと聞けって無言のプレッシャーかけられるから、姉なんて持つものじゃないです」
同じタイミングで文句を言い合うのに更に笑ってしまうと、二人とも眉間に皺を寄せ、それぞれの仕事に戻る。その動きの相似ぶりに、この両人が肉親なのだとやっと納得できた。
二人が黙ることで、今まで聞き流していたテレビの音声を耳が拾い出す。そういえばニュースの流れる時間だなと思いつつ画面に目を向け、樟葉は硬直した。
何かの証明写真なのか、生真面目な顔をした佐々木がそこに映し出されている。
『………××区の佐々木真司さんの行方が分からなくなっています。警察では交際相手が事情を知っているものと見て、所在の確認を急いでいます』
画面が切り替わって、映し出されたのは樟葉の住むマンションである。
一瞬、何がなんだか分からなかった。
ゆっくりと頭脳がその内容を咀嚼し、理解できた時、樟葉の全身からすーっと力が抜け、意識が白濁した。
「赤城さん!」
トーストを運んでいた文代は慌ててトレイをテーブルに放りだし、ソファにぐにゃりともたれこんだ樟葉に駆け寄った。
「文香、ドクター呼んで!」
「了解!」
文香が電話をかけるのを背中で確認しながら、樟葉の脈と呼吸を確認する。どちらも異常はないので、ショックで気を失ったのだろう。そろそろと、気道を確保しつつソファに寝かせる。
それにしても、訳が分からない。
穂積の調査で、昨日夜に佐々木が新宿にいたのを文代は把握している。それから半日も経たないうちに所在不明とされるのは、どうにもおかしい。
しかも、報道が佐々木の「失踪」に樟葉が関与しているような方向に向いているのが、更におかしい。もし、穂積が最後に佐々木を確認した時点以降に、佐々木に何かあったとしても、樟葉自身がこのマンションのセキュリティを突破して、佐々木に何らかの手を下すことは不可能だ。
そんな芸当が出来るか、事前に何か仕組んでおくのなら、自分に疑いがかかることはするまい。
一番考えられるのは、佐々木と共謀の上で誰かが失踪届を提出し、あたかも樟葉が仕組んだかのように警察に説明したというあたりだろうか。今までの経緯から、佐々木が表向きは自分を亡き者として、裏の領域で何かをたくらんでいてもおかしくはない。
「赤城樟葉」の関係する案件では、
「ドクター、すぐに来てくれるって」
電話を終えた文香が隣に来る。
「サンキュ。ちょっと電話に行ってくるから、赤城さんをよろしくね。たぶん長くなると思う」
佐々木の思惑を推理するよりも先に、やるべきこと
がいくつもある。文香が頷くのを横目にしながら立ち上がり、自室に入った。
文香の部屋の三分の一程度の長細い部屋は、片側の壁に寄せたロフトベットの下にクローゼットと鏡台兼用のパソコンデスクを置いているほかは、人ひとりが通れる程度の余裕しかない。
この小さなスペースがかろうじて暗くないのは、奥の壁の上部がガラスブロックになっているためである。その下に、外の廊下に出るドアがある。廊下を曲がった位置にあるので、メインの玄関側からはその存在が分からないようになっている。
そのドアを見据えながら、文代はあわだたしく穂積に電話する。オフィスに夜通し詰めているのだから、あちらへ行けばいいのだが、案件が案件だけにそれが出来ない。
『なんかあったんすか?』
挨拶もすっとばして、穂積が訊いてくる。
「夜勤お疲れさま。
そっちが終わってから、ふたつ頼みたいことがあるんだけど」
ひとつめの頼みは、名簿図書館で樟葉の出身校の卒業アルバムを調べてもらうことである。そうした調査は日常茶飯事なので、穂積も慣れている。
「で、ふたつめだけど………夕べは、
とく…って言ったけど、状況が変わったんで計画変更。今夜動くわ」
『分かりました』
穂積の声が真剣味を帯びる。
『で、オレっちは何をやっとけばいいですか?』
「夕方くらいまでに、手の空いてる秋津を何人かつかまえておいて。私もばたばたしてると思うから、打ち合わせする時はまた後で連絡します」
『了解っす』
「――頼んだわよ」
『任しといて下さい』
「ありがとう」
文代の言う「動く」が何を指すのか、充分に判っているはずだ。それでも動揺なく応対してくれる穂積に、感謝しながら電話を切った。
胸に手を当てて、呼吸を整える。
「犯人」にまつりあげらそうな樟葉を隠蔽してると決めつけられ、警察やマスコミに周囲を嗅ぎ回られて、空蝉も引導人も秋津も文代自身も身動きが取れなくなるような展開は、避けなければならない。
そのための手を打つのは、ほかならぬ引導人の仕事だ。
電話帳に登録しているが、ほとんどかけたことのない番号をダイヤルする。長い呼び出しの後、尊大にも聞こえる声が応じた。
「しばらく会わない間に、本当の主に対する物の言い方を忘れたようね」
意識して、普段よりもゆっくりと言葉を紡ぐ。
文代の親と同年代の通話相手があたふたと詫びるのをやるせなく聞きながら、文代は傲然を装って用件を告げた。
*
同じニュースを聞いた恭一郎は、思わず腰を浮かせた。
佐々木の現在の潜伏場所を、ずっと追跡している恭一郎は把握している。今朝も部下が彼の動静を見張っているが、異常事態が起きたという連絡は来ていない。
おそらくこれは、佐々木本人が意図的に仕組んだ「失踪」だ。
慌ただしく立ち上がり、パソコンデスクに向かう。
キャビネットから、佐々木と「赤城樟葉」に関する案件の資料をまとめてあるクリアケースを抜き出し、そこから大振りの封筒を取り出す。
想定外の事態が起きた時に開封するように、
ペーパーナイフで慎重に封を切り、中身を取り出す。手紙と、一回り小さい封筒が出てきた。こちらの封筒もしっかりと封が閉じられている。
手紙に目を通すと、恭一郎は封筒をデスクに下ろし、あわただしくケータイを取り上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます