6
翌朝九時。
文代は張り込みの車中で伸びをしていた。
穂積の代わりを買って出た浮気調査である。対象の女性が浮気相手とラブホテルに入っていく現場は写真におさめた。今度は出てくる様子を撮影するべく、あと数時間ここで待機することになる。
アイボリーのセーターにジーンズの普段着で、朝食代わりのウィダーインゼリーを片付けてから、穂積に電話をかける。本当は昨日のうちに連絡をつけたかったのだが、ママのところの張り込みが深夜まで続くのが分かっていたので自重した。
何しろ、穂積への頼み事には代替要員がいない。果ての見えない仕事の前に、せめてゆっくり休んで欲しかった。
コール音は長々と続く。
『おはようございます! 御前からの電話なのに、すぐに出なくてほんとすいません!』
二十回目のコールの後、寝ぼけてはいるがいつも通りのテンションの穂積の声が応対した。布団の上で土下座していそうな勢いだ。
「昨日はお疲れさま。あれとは別に穂積くんに頼みたいことが出てきて、今日からそっちに専念してもらいたいんだけど」
『オレで出来ることなら何でも言いつけて下さいっ』
しばし躊躇してから、文代は用件を口にする。秋津の中でも特殊なポジションにある穂積には無茶を頼むことが少なくないが、今回は格段に重い。
『了解っす』
だが、穂積からはあっさりと返答が戻ってきた。
「お願いね。穂積くんにいろいろ苦労かけて悪いけど」
『オレは御前の手足っすから。御前が手足の心配なんてせんで下さい。
んじゃ、何かあったら報告します』
「かっこつけちゃって…」
切れた電話に向かって、思わず呟いてしまう。穂積とて、あんな指令を受けて全く動揺していないわけがないだろう。いつもの反応をしてくれたことが、ありがたいし申し訳ない。
この件が片付いたら、穂積にどう報いてあげたものか。背の半ばまで流れる髪を三つ編みで一つにまとめながら、文代は思案した。
*
通勤ラッシュのピークを越えた新宿駅のホームに、恭一郎は降り立った。
ありふれた黒のハーフコートに紺のスーツとネクタイ、フレームの太い伊達眼鏡をかけ、前髪をもっさりと下ろし、うつむき加減に歩いていれば、自ずと雑踏に溶け込む。いつ来ても混み合っていて閉口する場所だが、隠密に動き回るには便利でもある。
ほんの数週間前に来訪した場所なので、迷いもなく目的の高層オフィスビルに到着した。何とも気のすすまないままコートを脱ぎ、エレベーターに乗り込む。
本来、
あげく、二人いる
こんな面倒な依頼は二度とごめんだと思ううちに、エレベーターは目的のフロアに到着した。空蝉配下の警備会社の東京本社である。
長田から指定された名前を受付で告げると、受付嬢に先導されて常務室へと誘導される。開けてもらったドアの内側へ入れば、通ってきたオフィスとは異質の空気がのしかかってきた。
真っ白な壁にパーテーションごとに区切られたデスクが並ぶ、機能的なオフィスとは異なり、広々とした常務室はダークブラウンを基調とした重厚な造りになっている。
そのなかで、眺望のよい窓を背にデスクから立ち上がり、恭一郎のほうへと歩み寄ってくる狭霧は、グレーのダブルのスーツに海老茶のネクタイという身なりからも、胸を張った堂々たる姿勢からも、
「今日は貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ、朝早い時間にお越しいただいて申し訳ない」
双方とも作り笑いを浮かべ、白々しく挨拶を交わしているうちに、受付嬢がドアを閉めて去ってゆく。恭一郎も狭霧も、すっと表情を消した。
「連絡人どのは、随分と『緊急の事態』をお作りになりますな」
「用件の片方は、昨日の三者会議の前にお話ししたかったのですが」
事実だけを告げたつもりだったが、狭霧をつかまえたいがために会議の一時間前から待機していた徒労が言葉尻に滲んでしまう。
「申し訳ない。そうした事情なら、私のほうから出向きましたのに」
そう言いながら狭霧に応接セットを指し示され、恭一郎は軽く頭を下げてから腰を下ろした。レザーと思しきソファは、ほどよい柔らかさで体重を受け止めてくれる。
ドアをノックする音がして、先刻の受付嬢が入ってきた。彼女がテーブルにコーヒーを置き、退室するまでは適当に世間話をして体裁をつくろう。
ドアが閉まると共に、狭霧の目が真っ向から恭一郎を見据えた。
「それで、ご用件は」
恭一郎はドキュメントケースからタブレットを取り出し、目当ての画像を表示して狭霧に示した。
「昨日お話しした依頼の調査をしている時に、たまたま撮影したものです。
空蝉のほうで何か動いておられるのなら、こちらが不用意に動かないほうがいいのか、お伺いしたかったのですが」
「画面を触らせていただいてよろしいですかな?」
「もちろんです」
表示された画像の一部を拡大して見ていた狭霧は、タブレットを恭一郎に返しながら告げた。
「尾行中に連絡人どのに会ったという報告は受けておりませんでした。さすがですな。
お察しのとおり、これは空蝉で内偵中の案件です。御前にはまだ内密にお願いしたい」
「依頼に影響は?」
「それはございません」
「分かりました」
悠長に隠しておける問題でないだろうとは思うが、もうひとつの用件があるのでここは譲歩しておく。
「あともう一つ、頭領どのにお願いがございまして。
昨日の会議の後から、
狭霧が額に片手をやって沈黙する。空蝉としては連絡人に漏らしたくない事情があるようだ。
とはいえ、狭霧を頼りにするしかないほど、恭一郎も困っているのだ。簡単に相手の意を汲む気はない。
狭霧の様子をうかがいながら、コーヒーカップを引き寄せ、中身を一口含む。
芳醇な味わいはコンビニのコーヒーとは比較にならず、専門店でないと飲めないようなものをタダで供してもらえる点においてだけは狭霧に感謝する。
「――連絡人どの」
カップを半分空けた頃に、狭霧が顔を上げた。
「現在、轟は調査先に潜入中で、よほどの事情がない限りは呼び出すのはむずかしいかと」
「頭領どの、嘘はお止め下さい。轟氏からは、多少話を伺ってます」
「何をお聞きになっておられると?」
「さあ」
ここまで眉筋ひとつ動かさずに応対してきた狭霧が、少し焦ったように身を乗り出してきた。
「連絡人どの、我々が轟と連絡が取れないのは事実です。それは信じていただきたい。その理由が、空蝉の業務に関わることなのか、連絡人どのもお聞きであろうことなのかは、我々にも把握できておりません。
轟に連絡がつき次第、連絡人どのにお知らせいたしましょう。それでよろしいですかな?」
狭霧からこれだけ譲歩を引き出せただけでも収穫だ。恭一郎は了解の意を示し、会談を終えることにした。
それにしても…と、下りのエレベータを待ちながら天井を仰ぐ。再調査に先駆けて轟に連絡を取りたかったのだが、あの様子では本当に空蝉サイドでも彼の動静が分からないらしい。
少しでも再調査の手間を減らすべく狭霧に会ったのに、とんだ無駄足になってしまった。素直に引導対象を洗い直せ、ということのようだ。
エレベータを降り、コートを羽織ってからメールを確認する。引導対象の尾行を任せている部下から、現状報告が入っていた。駅の反対側に、現在ちょうど引導対象がいるという。そちらの様子を見に行くことに決め、恭一郎は足早に歩き出した。
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