5

 横浜の本宅に向けて車を走らせながら、文代はこの後の会議に頭を巡らす。

 引導人さばき、空蝉の頭領、連絡人つなぎの三者による会議は不定期で、誰かが招集した時に行われる。今日は連絡人から発議されたから、新しい依頼の吟味が主題となるだろう。

 車は外人墓地の脇を通過して山手本通りをしばらく進み、汐汲坂の近くで停止する。

 忍び返しを備えた白い塀で囲まれた範囲は周囲の邸宅に比べると小さいが、同色の門ともどもにかなりの高さがあり、中の様子は灰色の屋根くらいしかうかがえない。リモコンで扉を解錠して、文代はその敷地の中に車を入れた。

 小型車三台は停められる屋根付きのカーポートの左手に平屋の母屋が長細く伸び、右手に離れがある。カーポートの奥の壁の向こうは、両者をつなぐ廊下となっている。

 建物はいずれも灰色の瓦屋根と白い漆喰壁、縦長の窓が連なる擬洋館仕様で、近辺の西洋館とどことなく似た雰囲気を持っている。

 離れは六畳の応接間となっており、三者会議の時にのみ使用される。

 母屋が当代の引導人の本宅、文代が普段ひとりで住まう場所である。今のように人をかくまう案件を抱えている時以外は、ここから通勤している。

 年齢や表の仕事との釣り合いからすると分不相応な住まいなのは承知しているが、引導人として会議を隠密に行え、かつ居住空間から適度に離せる場所を確保しなければならない以上、やむを得ない。

 母屋の玄関を開け、無人の室内に「ただいま」と声をかけて玄関を上がると、そのまま廊下の奥まで進む。

突き当たりの引き戸を開けると、和室が現われる。正面の窓にはめこんだ障子が畳に夕刻の翳りを落としていた。右手の壁沿いに置いた衣桁いこうと姿見に歩み寄りながら、大きく息を吐く。

 三者会議に平服では臨まないのは、暗黙の了解だ。引導人を最後の頼みと寄せられる依頼に真摯に向かい合おうとすれば、おのずとそう決まっていったのだろう。

 そして、三者会議と引導の際の、引導人は和装と決まっている。

 今朝出かける前に衣桁にかけておいた装束を、文代は慣れた手際で着付けてゆく。

 着慣れているから、苦しくなるような紐の締め方はしない。それでも、長襦袢、着物と絹の衣を重ねて身体をくるみこみ、それらを紐と伊達帯で絡げてゆくのが、鎧を重ねるように感じられる。この感覚は洋服にはない。

 あたかも戦支度をしているかのような、その感覚が引導人へと意識を切り替えてゆく一助ともなる。だから、文明開化の御代を越えても、この時だけはかたくなに祖先も和装を貫いたのだろう。

 白半襟に、薄鼠色の地の半身に大柄な紅梅が流れる付け下げ、鳩羽色の帯揚げに雪輪文を織り出した銀の帯、江戸紫の帯締め。襟元はくつろげすぎず詰めすぎず、衣紋も控えめに抜き、お太鼓も小さく仕上げる。

 いつもなら、ここまで支度を済ませると表の仕事は一切気にならなくなるのだが、今日は樟葉の動静や穂積・成東の張り込み状況が気になって仕方ない。

 電話して様子を聞いてみようかとスマートフォンを取り上げたが、かける相手が文香でも多賀でも「会議に集中しろ」と怒られるのが目に見えているので止めた。

 このままではよろしくないと、リビングに移動して静かなクラシックを流してみる。だが、落ち着いてくるどころか、胸の内のざわつきはさらに増してくる。

今日は腰が据わらないままで、引導人として采配しな

ければならないようだ。それを他の二人に気取られるような真似だけはするまい。

 定刻五分前となったところで文代は立ち上がり、きしきしと年期を重ねた音を立てる廊下を遡って離れへと向かう。

 母屋からカーポートの裏の方へと入ると、暖房の届かない場所だけに、首元から寒さが侵入し、足の裏がきりきりと冷える。自然と歩を速めて終端へ急ぐ。

 離れのドアの前に立ち、懐中時計で時間を確かめる。定刻一分前となったところで時計をしまってドアを開けた。

 離れは洋間となっており、小振りなマホガニー色のテーブルと同色の椅子を置いているさまは古風なレストランの個室を思わせる。

 アイボリーの地に赤の花模様を織りだした絨毯の感触が、冷えた板張りを歩いてきた足には心地よい。

 既に到着していた連絡人が、立ち上がり深く一礼する。

 シャープで涼やかな顔立ちに、耳回りや襟足の髪は短く整え、長めの前髪は重く感じさせないように流している。

 オリーブグリーンのスーツに包んだ体軀は、身長と釣り合いの取れた逆三角形を成していて、まっすぐ力強く伸びる上がり眉と、切れ長の双眸が持つ静謐な輝きとあいまって、スーツと同系色のワイシャツと明るめのワインレッドのネクタイとの取り合わせでも軟弱な印象を与えない。

 その連絡人の横にいるはずの、空蝉の頭領の姿がない。

 「狭霧は?」

 「まだお見えになってません」

 連絡人の返答が意外すぎて、咄嗟に言葉が出てこない。最低でも定刻十五分前にはこの場に居る狭霧が遅れてくるなど、文代が引導人に就いてから一度も見たことがない。

 「連絡人どのが着いてるってことは、車の渋滞はないはず。連絡もなしに遅刻なんて、どうしちゃったのかしらねえ」

 そこに、離れの玄関のドアが開く音が響き、待ち人の来訪を告げた。じきに、足音もなく狭霧が部屋に現われる。

 「申し訳ございません。緊急の案件の対応にあたっておりました」

 片手にトレンチコートとビジネスバッグを持ち、狭霧は櫛目を刻んで整えた半白の頭を深く垂れた。

 急ぎ足で連絡人の隣の椅子に向かう足運びは迅速ながら品があり、黒の三つ揃いのスーツに群青のネクタイとあいまって、狭霧を執事めいて見せる。だが、年齢を刻んだ皺の奥の眼光に従順さはなく、感情を読みとらせない無表情は説明を拒んでいた。

 この頭領が会議に遅れてまで直接指揮にあたる事態とは、どれだけの騒ぎなのか。気にかけつつも、文代はその正面の椅子に腰を下ろした。それを待ってから、狭霧と連絡人も着席する。

 連絡人から資料が渡され、今回の依頼の説明がはじまる。その一ページ目を見た瞬間、文代は硬直した。ページを繰るのに従って、眉間の皺が深くなっていくのが鏡を見ないでも判る。

 この状況にどう対処すればいいのか。あれこれ検討していると、連絡人の言葉は頭にとどまらず、ただ耳を通過してゆく。

 「―――御前?」

 呼びかけられて、やっと連絡人の説明が終わったことに気付いた。

 狭霧ほどではないにしても、会議の席ではポーカーフェイスを崩さない連絡人が咎めるような視線を向けてきていることから、相当長いこと腑抜けていたようだ。

 思惑を悟られぬよう、慎重に文代は切り出した。

 「連絡人どのの調査は充分信用してる。けど、私の知り合いに、この引導対象さばかれと同姓同名で住所も同じ、でもこの写真とは明らかに違う人がいるの」

 片手に持った資料を、ぴんと指で弾く。

 連絡人の片方の眉が上がる。狭霧ですら、一瞬だが目をみはった。

 「私のほうでも探って見るけど、連絡人どのももう一度調べ直して」

 「かしこまりました」

 「調べ直しの結果が出てから、この件は改めて検討しましょう」

 依頼の吟味が主題の会議は、引導人が結論を出した時点で終了する。

 だが、連絡人の目にすらあまるほど呆けていた自分に対して、狭霧が黙っていないだろうと文代は内心で首をすくめる。

 狭霧は強い一瞥を文代に向けたが、慌ただしく立ち上がり「対応の残件がございますので」と告げて一礼を残すと、大急ぎで部屋を出て行く。かける言葉も忘れて、文代は唖然としてその背を見送った。

 玄関のドアが荒れた音を立てて閉まる。

 「………狭霧のおっさんでも慌てることがあるんだな」

 連絡人――斎木恭一郎が玄関をまじまじと見やったまま、行儀よく座っていた足を投げ出し、ネクタイを緩めた。

 「あんな狭霧、私も初めて見た」

 文代も、ぴんと伸ばしていた背中の緊張を解いて、椅子の背当てにもたれる。

 「とりあえず、こっちはこっちの問題を片付けるか。

 文代の知ってる同姓同名さんは、どのくらい信用できる?」

 「一年くらいのお付き合いになるかな…明らかに、この資料の写真とは別人さん。ただ、公的書類を見せてもらったことも、おうちに遊びに行ったりしたこともないから、私に嘘の住所氏名を話してる可能性はゼロじゃない」

 「分かった」

 再調査前に先入観を持たせないように、必要最低限の情報しか文代は提示しないし、恭一郎もそれ以上を求めない。

 そもそも、今の時点で探偵の守秘義務を放棄するつもりはない。依頼者クライアントがクロだという明確な根拠がない限りは、疑わしきは罰せず、だ。

 「偶然じゃないなら、引導人に盛大な喧嘩吹っかけてきやがってるってことになるし、偶然なら気持ち悪いなんてもんじゃない。さっさと再調査済まして、どっちなんだかスッキリさせてやる」

 立ち上がった恭一郎は、ドキュメントケースを片手に抱え、文代の横に回りこんでくる。座ったまま彼を見上げる文代の、薄く下ろした前髪を空いている手でかき上げて、額に口づけた。

 唇を離した後、額から頬へと手を移し、指先で文代の耳朶をもてあそびながら、何か言いたげに口を開くがすぐ閉じてしまう。

 「恭一郎…?」

 問いかけると、しばし視線をさまよわせていたが、文代の瞳を覗きこんで切り出す。

 「憶測だけで下手なこと言うもんじゃねえんだが………この調査がはっきりするまで、無駄にするつもりで、いつもより身辺気をつけとけ」

 言葉とは裏腹に、そのまなざしは強い警告を放っている。

 文代が自分の知る情報から異常を感じているのと同じように、恭一郎も自身が調査してきたことから何かを嗅ぎとっているのだろう。

 恭一郎の腕をきゅっと掴んだ。

 「いま、お泊り案件抱えてあっちに泊り込み中だから、ちょうどいいって言ったらちょうどいいかもね。

 でも恭一郎も、私の心配してる場合じゃないと思う――充分気をつけて」

 顔を動かして、頬に触れる恭一郎の掌に唇で触れる。

 溜息の気配が、反対の頬をかすめた。

 「そっちでも悪い情報持ってんのか」

 「いまは詳しい話できないのも、多分恭一郎と一緒」

 スーツ越しに、固く引き締まった腕の筋肉がひくりと動くのが伝わる。

 探偵であろうが連絡人であろうが、調査を業務とする者である以上、同じ状況に立てば同じ思考を辿る。それが嫌というほど判るのがつらい。

 「お互い、さっさと調べてさっさと楽になるしかないな」

 「そういうこと。面倒そうだけどねえ」

 苦い顔で頷きあう。

 恭一郎を見送り、屋外から聞こえる車の発進音が遠ざかっていってから、文代は天井を仰いでふうっと息を吐き出した。

 どこから手をつけようか。

 膝に乗せたままの資料を取り上げて、最初のページを凝視する。引導さばく対象として、いまオフィスであずかっている樟葉と同じ名前と住所が、そこには記載されている。だが、添付されている写真はいかにも夜の蝶という姿形で、あの樟葉とはまったく違う。

 狭霧と恭一郎には別人と言ったが、あれは詮索を封じるための煙幕で、断定するには早計だと思っている。化粧やいろいろな要素で女はいくらでも化けられるし、会社員とキャバクラ嬢の二足のわらじを履いていないとも限らない。

 資料を読み進めながら、それを見きわめる糸口を見出す。このあたりは帰宅してから調べてみようと、メモを取った。

 引導人は、本宅から引導に関わる資料を持ち出すことはできない。正体が知られるリスクを少しでも下げるためだ。今回のように止むを得ずメモを取る場合も、必要最低限の事項を暗号で書く。

 そしてもうひとつ、引っかかる事項を見いだす。これは連絡人の非ではない。文代でなければ分からないことだ。

 これも早急に調べなければならないが、樟葉の警護を抱える文代が付きっきりで追いかけるわけにいかない。誰かに頼むことになるが、誰にとってもつらい仕事を押しつけるのも心苦しい。

 こういう展開になってくると、表仕事の擁護対象と、同姓同名同住所の人物の引導さばきの依頼が、偶然重なったという気がしない。

 引導人への依頼理由を見ると、それこそバラシ屋を呼ばれてもおかしくはない。ママがああ言ったのも頷ける。

 報告書の「樟葉」とオフィスに保護する「樟葉」が同一人物であるなら、佐々木が文代に樟葉の保護を依頼したのは、バラシ屋から逃がすためという可能性がある。

 そうであるならゆゆしき問題だが、事実をただしたくても佐々木には連絡がつかない。

 「………私は、守るべきものを守れているんだろうか…」

 思わず漏れた呟きは、答えのあてもなく壁にはねかえされ、霧散した。


   *


 「はいはいはいはいはい」

 思わず返事をしながら、長田はケータイを取り上げた。

 「もしもし………お疲れさまです………それじゃ、急いで頭領に確認取ります………はい。失礼します」

 珍しいことがあるもんだ、と切れた電話をまじまじと見やる。

 警備員としても秋津としても職場は同じ場所で、しかもそれが空蝉の重要拠点のひとつであるため、物の受け渡しや伝言は誰からも頻繁に頼まれるから慣れている。だが、さすがの今日の動きには首を傾げるしかない。

 数分前には、御前からメールが入った。急な調査を穂積に頼みたいので、明日以降は彼を他の仕事から外してほしいとのことだった。

 そこに持ってきて、いま連絡人どのから来た、頭領との会合セッティングの依頼である。

 どちらも、今日の三者会議で何かあったからとしか思えない。会議後にこんなにいろいろな動きが出ることなど、少なくとも長田は見たことがない。

 「何が起きてんだろ…」

 ぶるりと震えながら、長田は頭領に連絡を取るべく、ケータイの電話帳を開いた。

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