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成東は、いらいらと対岸の雑居ビルを見上げていた。
見張り場所として最適なのは、ビルとビルの間のこの細い隙間だった。人ひとりが横向きになってかろうじて入り込めるようなスペースでの、長時間の潜伏を苦痛と思うような空蝉はいない。成東も例外ではないが、今はひたすら早く交代の時間が来てほしいと願っていた。
くちゃくちゃとガムを噛む音が、成東の背後から絶え間なく聞こえてくる。
「そんなカリカリすんなよ、成東ちゃん。今からリキ入れてたら保たねえぜ」
見透かすように、いらだちの元凶が半笑いな声で痛いところを突いてくる。どうして穂積が最初に駆けつけて来たんだ…と、成東は舌打ちをこらえるのに必死だった。
御前の下に空蝉がいるのだから、わざわざ直下に秋津を据える必要はないのではないか。秋津が御前の昼の仕事を手伝うのは、一種の公私混同なのではないか。
ずっとそう思ってきたし、同僚にも疑問を隠さなかった自分を、御前が秋津の一員に迎え入れたのが二ヶ月前のことだった。
その際、自分が秋津をどう見ているのかを包み隠さずに告げたにもかかわらず「そういう人にこそ来てもらいたい」と言いきった御前に根負けしたのだが、半年秋津として勤めても自分の見解が変わらなければ任を解いてもらえることにはなっている。
そういう成東のスタンスに対して、他の秋津たちは含むところはあるだろうが、少なくとも仕事にはそれらを持ち込まない。だが、穂積だけは何かにつけて成東につっかかってくる。
「だったら、私をカリカリさせることは止めて下さい。ガム噛む音で集中できません」
「てめえの集中力不足の責任を人におっかぶせんなよ。まったく、てめえが張ってんだったら、むちゃくちゃ急いで来るんじゃなかった」
反撃しようと口を開けかけたところで、見張っているビルの非常階段を人が上がってゆくのが見えた。双眼鏡でその人影を確認する。
「御前だ」
穂積が何故か嬉しそうな声を上げた。
*
少し離れた駐車場に車を駐めて、文代は問題のバラシ屋の入居するビルへと向かう。
バラシ屋とは、その名のとおり依頼されたものをネジ単位にまで解体する業者である。盗難車の解体を請け負うところが多いが、樟葉を連れて行こうとしたところはあらゆるものを解体対象とする。人間も例外ではない。
可もなく不可もない経歴からして、樟葉自身が危ない橋を渡っている可能性はきわめて低いだろう。佐々木が何らかのトラブルに巻き込まれ、そのとばっちりが樟葉に降りかかったと見るのが妥当だ。
バラシ屋が出動してくるような厄介事が関わっていると最初から分かっていたら、依頼料の見積もりをもっと上乗せしていた。今のままでは絶対割に合わない。佐々木には、隠し立てをされた分も含めて、後で追加請求を出させてもらうことにする。
目的のビルは、間口が小さく奥行きも少ない。エレベーターがなく、外付けの非常階段で移動するしかない。これは見張りやすいと思いながら、七階へと進む。
階段を昇る傍らで、建物の周囲の状況を伺う。人がかろうじてすれ違える程度の道を挟んだ向こうに、同じように建物が密集している。あの合間なら張り込みしやすい。今も、そのどこかから穂積と成東が自分を見ているのだろう。どうせ口喧嘩してるんだろうけど…と、苦笑する。
あの二人の反りが合わないのは、文代も承知している。双方の、秋津に対するスタンスの違いが大きな原因なのも分かっている。
だが、成東もやるべきことはきちんとこなしてくれている。今日も、多賀から流される発信器の位置情報をもとにここへ最初に到着し、文香がつけた発信器を回収してくれたのは彼なのだ。穂積にはもう少し大人の対応というものを覚えてほしいものである。
もっとも、根本的には、成東にまだ秋津の意義を納得させられていない文代が悪いのだから、穂積だけを責めるわけにもいくまい。
目的のフロアまできて、思惟を頭の片隅に追いやる。コートの前をくつろげて、一度深呼吸してから、文代はところどころがへこんだドアをノックした。
中でがたがたと音がして、すぐに静まる。ドアについた魚眼レンズの向こうがしばし暗くなった。
激しい勢いでドアが開かれる。
その向こうに立っていたのは、先刻遭遇した男のひとりだ。そうと認識するより先に、文代は身を沈めていた。
手を襲う痛みに耐えかねて、男が取り落とした銃をキャッチすると、文代は男の正面に戻り、その腹に銃口を押しあてた。
「ずいぶんなご歓迎ねえ」
「このクソババア…!」
手をさすりながら、怒りの形相で見下ろしてくる男は、ひょっとしたら十代後半だろうか。かなり若い彼から見たら、三十歳の文代は確かにババアだろうが、この場所でその言葉を選択したことに、少しだけ文代は同情する。
「それ、ここで言ったらまずいんじゃないの?」
「そのとおり」
十畳ばかりの部屋を二分するパーテーションの向こうから、恰幅のいい身体を揺らしながら、このバラシ屋の主であるママが現れた。
「この姉ちゃんにまたあっさり片付けられたくせに、口だけギャーギャーわめいてみっともない。しかも、『ババア』だあ?
女を歳でいじめるなって、あたしが教えてるのを忘れたのか」
じろりとママに睨まれて、若者がおびえたようにすくみ上がる。
「お説教は、この姉ちゃんが帰ってからだ。あんたは邪魔だからあっちにお行き」
銃を離してやると、若者はしょげた顔でとぼとぼとパーテーションの奥に消えた。
「悪かったね、うちの坊やが暴走して。けど、あんたももうちょい手加減してくれてもいいんじゃないかい?」
ママは、部屋の中心に据えられたスチールデスクの下から、畳んだままのパイフ椅子を引っ張り出して、文代に手渡す。そして、自分は傍らのアームチェアを引き寄せて、どっかりとそこに収まった。
文代はパイプ椅子を開き、トカレフをデスクに置いてから、ママの向かいに座った。
「いえいえ、ママのところだから、充分手加減しましたよ」
本当は、へっぴり腰の若者の姿を一瞥した瞬間に、インサイドパンツホルスターの中身も、袖口やジャケット裏に仕込んだモノも不要だと判断したのだが、そこまで素直に告げる必要はあるまい。
「はいはい、そういうことにしておいてやろうか。
で、なんであんたんとこの依頼とうちの依頼がかぶったんだか、文句言いにきたんだろ?」
「はい」
「こっちだって文句言いたいさ。あんたに
んだけど、あんたんとこの依頼者は、なんか合言葉っぽいやつを用意してたんだって? そこまで念入りにやられちゃあ、こっちの負けだ。負けは素直に認めなきゃな。
どうせ、うちへの人の出入りを見張ってんだろ? 今日の依頼をよこした奴もじきに来るだろうから、尾けるなりなんなり好きにしな。そいつをどうしようがあんたの勝手だが、うちにとばっちりをよこすのだけは止めとくれ」
「………いいんですか?」
「あんたに文句言うより、依頼者に説教しなきゃなんないからな。人に裏をかかれるようなお馬鹿さんがバラシ屋使うなって。
ちっとはあたしに悪いと思ってんなら、今度うちに仕事持ってくるんだね」
「それじゃあお言葉に甘えて、開けるのが面倒そうな金庫の解錠を頼まれた時にでも、恩返しに来ます。
でもママ、カタギのお嬢さんに手ぇ出しちゃ駄目でしょう」
「とんでもない!」
ママが、ずいと身を乗り出してくる。
「ちょいとだけ忠告しといてやる。あの女、そうとうなワルさ。じゃなきゃ、あたしが人をバラす依頼なんか受けるか。
あんな危険な女、さっさと放り出したほうがいい」
「ご忠告、ありがとうございます」
ママの言うことも全く見当違いではないな…と、樟葉を思い浮かべながら文代は頷く。
文香と同じ二十五歳だとは聞いているが、それより幼く見せる童顔の横を、ダークブラウンのセミロングの髪がふわふわとウェーブを描いて流れる。小柄で、ほどよくふっくらしていて、パステルカラーやフリルといったガーリーな要素がよく似合う。
いかにも男性の庇護欲をそそる外見だから、手練手管があればいくらでも悪女になりうるだろう。
ママがよっこらしょっと立ち上がり、話は終わったと言わんばかりにアームチェアを片付けだす。文代も腰を上げて、パイフ椅子をたたんだ。
「そういや、発信器のほうはとっととバラしたよ。人が知らん間にポケットに発信器放りこむたあ、あんた、スリに転職しても充分やってけるよ」
「生活に困ったら考えます。
それでは、どうもお邪魔いたしました」
「次に仕事持ってこないでうちに来たら、叩き出すよ」
ママの本気の言葉に見送られて、文代はバラシ屋を後にした。
コートのボタンを止めながら階段を下りると、裏手の道に回って建物の間を覗きこんで歩く。じきに、見覚えのある二人組を見つけた。
ひとの気配を察して振り向いた穂積が、口元に手をやった後、猫背を直して直立不動の姿勢になる。
「御前!」
「二人ともお疲れさま」
「お疲れさまっす! こんなとこなんで、ちゃんと敬礼できなくてすいませんっ!」
文代のほうに向けられるだけ首を向けて、金髪のソフトモヒカンの頭を最大限に下げる穂積に対して、前髪をぺったり左右に分けている成東は片目をバラシ屋のあるビルに向けたまま、小さく頭を下げる。
文代も横向きで穂積に近寄って、コートのポケットに詰めていたものを渡した。
「ちょっとだけど差し入れ。夕方からもっと冷えてくるらしいから気をつけて」
「ありがとうございますっ! 御前のお気持ちだけでもあったかいっす!」
渡された未開封のホカロンを片手でおしいだく穂積を横目に見る、成東の視線が冷たい。
「それ、半分は後でちゃんと成東くんに渡してあげてよね。
で、後でメールも流すけど、ママには『自分のところに迷惑がかからないなら依頼者にどう手出ししても構わない』って言われたから、そのつもりでかかって」
「はい」
さすがに穂積も真顔になって頷く。
あのバラシ屋のシステムは独特で、依頼者は最初に報酬の半額を払い、完了時に「バラシ屋が仕事をした証拠」を確認した後に残りの半額を払うことになっている。
しかも、先刻まで文代が訪問していた部屋に電話はない。依頼時に指定された再訪日時にここに来るまで、頼んだ仕事が成功したのかどうかさえ依頼者には分からない。
つまり、樟葉をバラすよう依頼した人物はここへ来ざるを得ない。それを待ち受けているのだ。
穂積が普段の調子に戻って、また頭を下げ出した。
「あ、あと、明日の件、ありがとうございますっ! 御前に仕事代わらせちまって申し訳ないっす!」
「そう思うならこの張り込みを、喧嘩しないでしっかりやってね」
「ぐ…」
「じゃ、あとは交代までがんばって。
あと、多賀さんからメール行ってると思うけど、作業時間はごまかさずに申告するように」
穂積と成東が揉めずに今日の張り込みを終えてくれることを切実に願いながら、文代はビルの隙間を抜け出した。
*
「ふー。びっくりしてガム飲み込みそうになっちまった」
御前が立ち去ってから、穂積はそう言って手に出したガムをまた口に戻した。くちゃくちゃいう音が復活したので、成東は視線を件のビルに固定したまま、そっと息を吐く。
「それにしても、なんで御前はあんなに作業時間をちゃんとつけろと、しつこくおっしゃるんですかね」
「訳は知ってるけど教えねえ。御前に直接訊いてみろ」
予想外に真面目な返答がきた。
「え?」
「ヒラの空蝉が御前と直接しゃべれることなんて滅多にねえんだから、秋津でいてる間に訊きてえことは全部訊いとけ。
ほれよ、御前の愛を噛みしめな」
そう言ってホカロンを突き出され、穂積を少し見直したことを成東は後悔した。
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