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 樟葉が部屋に入るのを確認してから、文代は急ぎ足でオフィスへとつながる廊下を移動した。玄関を越えて少し先にある、静脈認証のドアのロックを解除して、オフィスのほうへと入る。

 廊下はオフィス側の玄関の前で左に曲がり、窓までまっすぐに伸びる。その左手にある引き戸を軽くノックしてから開いた。

 「状況はどう?」

 「お疲れさまです、御前」

 パソコンに向かっていた多賀と、その横で胡座をかいてディスプレイを覗きこんでいた長田が立ち上がって、文代に一礼する。

 「長田くん、その格好でうちに来て、後で狭霧に怒られない?」

 「タイムカードの退出記録はつけました。仕事終わらした後のバイトに、頭領も文句つけませんや」

 先刻、エントランスで文代と樟葉を迎えた長田は警備員の制服のままで、スポーツ刈りの頭を撫でながら平然と返してくる。

 「そういう意味じゃなくて…」

 「御前、これ、本当に表の仕事ですか?」

 多賀が気ぜわしげに、会話に割って入ってくる。白いものが混じりはじめた癖毛の下の目が、状況を語っていた。文代は無言で先を促す。

 「さっき連絡が入りました。連中、新宿の、ママのバラシ屋に入ったそうです。ナンバーから車の所有者を割り出した結果も来てますが、こちらもママのところのものです」

 文代は思わず額を押さえた。

 「なんでママのところに…」

 よほどの理由がない限りは、文代は人をかくまう依頼を受けない。それを知っていながら、佐々木が「どうしても今は理由を話せない。でも、それが原因で樟葉が巻き込まれるかも知れないから」と土下座せんばかりの勢いで頼み込んできたのに押し切られて――いや、押し切られた振りをして、今回の件を受けた。

 そのため、ある程度の波乱は予想していたが、思いもよらない方向に事態が転がってしまったものである。

 「表の案件であんまり派手な動員かけたくないけど、バラシ屋が出てくるようじゃそんなこと言ってられないわね。

 多賀さん、現地にいま誰がいる?」

 「成東が待機していて、穂積がもうすぐ合流します」

 「空蝉のほうで、二十四時間こっちのメンツを持っていって困るような調査は入ってない?」

 「ご心配なく」

 「ママのところに見張りをつけて。出入りする連中を尾けて、行き先を調べて。

 ママのところだっていうのが、不幸中の幸いだわ。まだ依頼主を探りやすい」

 「かしこまりました」

 「後で依頼者クライアントに追加料金たっぷり払わせるから、深夜手当が増えるのを心配しないで実労働時間は正直に申告しなさい、ってのも皆に伝えて」

 「はい」

 多賀が頷きながら、パソコンラックの前の大きい座布団に小柄な身体を載せ、キーボードを叩きはじめる。

壁のスケジュール表に目をやっていた文代は「あ、あと追加で」と声を上げる。

 「穂積くんに、明日午前の仕事は私が代わるって伝えておいて。今日は長丁場になるだろうし」

 「はい」

 「御前のほうもお泊まり警護抱えてるってのに、すいませんね、仕事増やして」

 「ぶっつけで調査引き継ぐんじゃなくて、浮気の証拠写真取るための張り込みを代わるだけだから、そんな負担じゃないわよ。

 それに、空蝉がガードマンやってる物件で、誰が何をやらかせるっていうの?」

 常より低い声で、うっすらと笑って付け足した言葉に、長田が唇の端をつり上げる。酷薄なその表情は、一介の警備員が持つものではない。

 「張り込みのローテーションなんかは、二人に任せるわ。皆がやりやすいように回して。

 私はこれからママのところにクレームつけに行ってくるから」

 「え、でも、今日の夕方って三者会議があるんじゃ…?」

 「本宅に帰る前のよ。人間につけたほうの発信器を回収してこなきゃいけないし、あのママなら交渉の余地がありそうだから、あっちの依頼者の情報が引き出せないか粘ってくるわ。

 私がこっちに戻ってくるまでに、どうにもならなくなったら文香を呼んで。まあ、多賀さんと長田くんが指揮取ってたら、そんなことはないと思うけど」

 「お任せください」

 闊達さを取り戻した長田はそう言って胸を張り、その足下で多賀が控えめに笑んで頷く。

 表向きは探偵事務所のアシスタントチーム。その実は、引導人に直属する空蝉の特別部隊――秋津。その中でも、殊に信頼を置く二人がこの状況下でオフィスに居てくれたのは、本当に心強い。

 「あとはよろしく」と言って、文代は部屋を出ていこうとしたが、ふと足を止めて振り返る。

 「そうそう。言い忘れてたけど、残業時間の申告、あなたたちが一番ウソついて少なく出してきてるのは分かってますからね。他の人たちが本当のこと言いづらくなるから、止めなさい」

 やべえ、ばれてた…と長田が呻くのを背中で聞きながら、文代は引き戸を閉めた。

 廊下を引き返して自室に戻ると、文代はICレコーダーとスマートフォンを取り上げた。目当ての録音データを探し当てて、何度か再生する。また、気になっていたメールにも目を通して確認を取る。どちらも、記憶していた内容と違いがない。

 自室を出て文香の部屋のドアをノックする。妹の答える声が返ってきてからドアを開けた。

 文香はスツールに腰掛けて、ドア側の壁を凝視していた。そこには一面に天井まで届くスチールの棚が組まれていて、ディスプレイがびっしりと収まっている。

 「どう?」

 すぐにドアを閉めて、妹の横に立って文代は問いかける。

 「今のところ異常なし」

 ディスプレイの大群から目を離さずに、文香が答える。そこには、樟葉のいる部屋の様子があらゆる方向から映し出されていた。

 さまざまな理由でかくまう保護対象が、自傷行為に至ることもある。そうした事態に迅速に対応するために設置している監視カメラが、今回は別の意味で役に立ちそうだ。

 「チェックよろしくね。佐々木さんが赤城さんを、何か探らせるのに送り込んできてるかも知れないし」

 「そういう怪しい依頼を、怪しいと判っててなんで受けるのかな?

 酔っぱらってても『闇胡蝶の独占インタビューを取るのが夢』って言った人と付き合い切らないでいたり、その彼女さんをかくまってくれって依頼を受けたりって、なんですかもう」

 「そりゃあ、うちで何かやらかしてくれたほうが、とっつかまえやすいからに決まってるじゃない。

 うちから何らかのデータを持ち出そうとしても、盗聴電波の類は速攻止めちゃうし、あの客間からオンラインにはつながらないし、物理的な持ち出しは文香と私が止める。もし万が一私たちが失敗しても、敷地全体を警備してるのは空蝉なんだから、突破できるわけがない。どう転んでも、向こうさんの負けよ。

 まあ、引導人が探偵やるついでに、連絡人に仲介もやってるなんて、佐々木さんも思っちゃいないでしょうけどね」

 場所柄、著名人が多く入居するマンションであるため、ここは強力なセキュリティを売り文句としている。

そのため、建物内部から発信される不審な電波が捕捉されたら、即座に警備員が盗聴器の類を探索、除去してしまう。

 また、このマンションの警護を担当する警備会社は空蝉配下のもので、勤める警備員も空蝉が大多数が占める。引導人が表向きのオフィスを構えている場所でもあるから、ここには空蝉の中でも選りすぐりの人材が配属されている。

 さらに近所を警護の厳重な大使館に囲まれているなかで、そのすべてを出し抜いてここへ出入りするのはまず無理だ。

 「相手の骨を切るためでも、自分の肉を切らせすぎだって。

 で、あっちの車の追跡は?」

 「うまくいった。文香のおかげよ」

 「ロングスカートで地面に這いずったんだから、うまくいってくれなきゃ困る」

 「で、着いたところはバラシ屋だったって」

 「はあ?」

 文香の声のトーンが上がる。

 「なんでそんなとこが拉致りにくるような人をあずかったっ!」

 「こっちが理由聞きたいわよっ。

 依頼受けた後に多賀さんに二人の身辺調査やってもらって、どっちも変な筋とのかかわりはないってのは確認してたんだけど」

 「それなりに、やるべきことはやってたんだ」

 「そりゃ、性善説だけでやってけませんからね、この商売。あと、赤城さんの反応にずっと引っかかってたから」

 文香も大きく頷く。

 「あれは怪しい。姉さんがやたらガンつけまくってびびらせてるってのをさっぴいても、あのびびり方は普通じゃない」

 「すっぴんでも眼力強いのは認めるけど、実の妹がそこまで言うかな…」

 声が苦笑で震えてしまう。

 仕事柄、意識して険しいまなざしを作っているところはある。だが、それなりにプライベートで顔を合わせている相手に、いつまで経ってもびくびくされるのは気持ちのいいものではない。

 まして、齧歯目を連想されるような年下の同性に、話しかける度にああも引きつった顔をされ続けると、それが先方の疚しい気持ちに起因するとしても、何やら申し訳ない気分になってしまうのだ。

 「ああ、あと佐々木さんとの打ち合わせの録音データ確認したけど、赤城さんをピックアップするのは『一時半』で約束してた。私が時間を覚え違いしてたわけじゃないわ」

 「つまり、あの連中に依頼した奴は、姉さんが赤城さんをピックアップする時間を知ってて、それより前に拉致ろうとしてたってことか」

 「そう、だから余計話がややこしくなってくれた。

 あと、あの合言葉ね。昨日の夜にいきなりメールで来て、それからどうがんばっても佐々木さんと連絡取れなくて、しかも合言葉が役に立っちゃってるのが、ものすごく気持ち悪い。

 合言葉で確認を取るっていうのも、合言葉の中身も、全部ひっくるめて」

 文香が渋面を作っている。自分も同じような顔をしているだろう、と文代は思う。

 一時を少し過ぎた頃に、二人は樟葉の会社裏の駐車場に到着した。文代だけ降車して周囲を巡回している時に、偶然「赤城樟葉さんですね」と喋る声を聞きつけたのだ。その出所が後部ドアを開け放したセレナだと判ると、文代は慌ただしく文香のところへ戻った。突然の事態にでも対応できる機材は、常時車内に積んである。

 樟葉が裏口から出てくるのを文代が見張っている間に、文香はセレナにGPS発信器を取り付け、その移動経路の追跡と車のナンバーの照会を依頼するメールを秋津に一斉送信したのだった。

 「ひとんとこの依頼者をかっさらってこうとする馬鹿に、後でお説教してあげようかと思って、軽い気持ちで文香に頼んだだけなんだけどねえ。まあ、とりあえず、バラシ屋から情報引き出せないかがんばってくる。

 で、そのまま本宅でしてくるから、帰るまで赤城さんをよろしくね」

 「了解」

 不意に、モニターの群れのほうから電子音が鳴り響いた。二人は視線をそちらに移して、映し出される画像に集中する。

 モニターの中で、先刻までベッドに腰掛けていた樟葉が、立ち上がって移動していた。

 「それにしても、よく出来てるわね、これ」

 「あっちのカメラから送られてくる画像を解析して、何か動き出したものがあったらアラーム鳴らすようにしてある。警備会社の仕事やった時のノウハウを有効活用した」

 姉を手伝う傍らで、在宅勤務のシステムエンジニアとして仕事を請け負う文香が、得意げに解説する。

 モニターの中で、樟葉は冷蔵庫の前で止まってその扉を開けて、閉めた。そして、元いたところへと戻ってゆく。

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