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文代に促されて降車した樟葉は、呆然とその建物を見上げた。旅行鞄を抱える両腕に、おのずと力がこもってしまう。
会社の駐車場で拾われてから、十分も経っていない。
かくまわれる先がこんなとんでもないところだと、どうして事前に教えてくれなかったのか…と、佐々木に向かって内心で愚痴ってしまう。
樟葉を乗せた車は、しばらく幹線道路を進んでいたが、道を曲がって急勾配の坂道を上りだした。葉を落とした街路樹が道の両側から枝を伸ばしてアーチを作るなか、坂を登りきり、道なりにまた曲がる。
車はじきに街路樹の切れ目の一角に入り、一棟のマンションの正面に止まった。
煉瓦調のタイルの外壁が落ち着いた雰囲気をかもしだすそのマンションは、周囲の高層建築とは異なり、十階建てくらいで規模の小さいものだった。
都内の交通至便な位置にある低層マンション、その家賃はいったいどのくらいになるのか。想像もしたくない。
まだ車内にいる運転席の女性と、窓越しに何か話している文代を、そっと盗み見る。
特殊な依頼を仲介できる人だとは聞いている。それゆえに、セキュリティの厳重なところにオフィスを構えているとも知ってはいた。だが、まさかそれがこんなとびきりの一等地とは思っていなかった。
こんな場違いな場所で数日を過ごすことを想像すると、気が遠くなりそうだ。
車が地階の駐車場へと去ってゆくと、文代が樟葉に歩み寄ってくる。
「あ、建物は古いけどセキュリティは最新の設備が入ってるし、うちでおあずかりした
横がスペイン大使館で、もうちょっと先がアメリカ大使館だから、怪しいのがうろちょろしててもそっちで捕まえてくれるしね」
樟葉の表情を安全面への心配と誤解したらしい文代にそう気遣われたが、かえってビビりますと正直に言うわけにもいかず、樟葉は曖昧に笑って返した。
文代に伴われてマンションのエントランスに入る。
その先の自動ドアの横には管理室があり、二十四時間警備員が常住し、来館者をチェックしているという。
いかつい身体に似合わぬ人なつこい笑顔を向ける警備員の前を、かちこちになりながら通過する。
エレベータに乗ってから、文代のオフィス兼住居が最上階を占有してると聞かされても、もう驚く気もしなくなっていた。
エレベータを降りた先には、廊下をどう見回してもドアは二つしかなかった。エレベータに近い側がオフィスの出入り口だということで、文代はもう一方のドアを開けて、「お疲れさま」と樟葉を中へと誘った。
玄関を上がると、廊下は左右に伸びる。左側に進んだ先のドアを開けるとリビングダイニングとなっていた。
高台にあって日を遮るものがないので、大きな窓からは陽光がよく差し込んでいる。廊下と同じく白い壁に、窓と反対側にしつらえられたダイニングのキャビネットは白、窓側のリビングの家具は黒に統一した室内全体は、散らかっているわけではないが雑然とした空気が漂っており、確かに人が居住している空間なのだと分かる。
リビングダイニングの右壁にドアが一つ、左壁には二つある。「赤城さんのお部屋はこっちね」と、文代は右側のドアを開ける。
こわごわ覗き込んだ室内は十畳ほどで、家具に木目のものが使われていて、淡いオレンジのラグマットとあいまって全体にくつろいだ雰囲気になっている。
小さい冷蔵庫の上と出窓に、小振りのゆるキャラのぬいぐるみが何体か置いてある。
「え…?」
思わず振り返った先で、文代が微笑していた。まなざしが緩むと表情にやわらかみが出るが、細めた瞳の奥までは笑んでいない。
「赤城さんが丸っこいゆるキャラ好きだって、佐々木さんから情報いただいてました。
ここで何日も外に出られない状態が続いてきついから、おあずかりする方の好きなものをできるだけ用意させてもらってるの。だから、冷蔵庫の上にソフトせんべいも置いておいたから」
「真司さんてば、そんなことまで喋ってくれちゃって…」
いくら顔見知りとは言え、これだけ趣味嗜好を知られると少しばかりきまりが悪い。
「ちなみに、ソフトせんべいが好物なのがうちにもいるから、頼み事があったらそれで釣ればいいわよ。戻ってきたら紹介するけど。
あ、クローゼットはこっち。下にスペースがあるから、そこに鞄が入ると思うわ」
家具と同じく木目の扉のクローゼットを開けて、ハンガーを渡してくれる。
「あ、ありがとうございます」
そこで玄関ドアの開く音がして、「ただいま」とハスキーな声が聞こえる。
「お疲れー」
文代が隣室の方に向かった間に、樟葉はそっと息を吐いた。
とりあえず、コートをかけたハンガーをクローゼットにしまい、その足下に荷物を置いてみる。ちょうどよく収まったのに満足しながらその扉を閉めたところで、コートを脱いで戻ってきた文代と目が合う。
「赤城さん、立ち話もなんだから、こっちに来てもらえる?」
促されてリビングに戻ると、ソファに初対面の女性が座っていた。頭の形が分かるくらいのベリーショートの髪で、先刻車の運転をしていた人だと分かる。
文代が彼女の正面のソファに樟葉を誘導し、自分は彼女の隣に落ち着いた。
「赤城さん、これが妹の文香です。
こっちの部屋に一緒に住んでるんで、私が手の離せない仕事で出かけてる時でも、ここが無人になることは絶対ないから」
文代が指したのは、樟葉が通されたのとは反対側の壁の窓側のドアである。おそらく、ダイニングに近い方は文代の私室なのだろう。
それにしても…と、樟葉は「はじめまして」と会釈する文香にお辞儀し返しながら、失礼にならない程度に二人を凝視する。
座っているので正確には分からないが、文香は結構な長身だろう。それでいて、頭が小さく手足がほっそりしている。顔の造作もすべてが小作りで、細いメタルフレームの眼鏡がしっくりくる。ベージュのタートルネックにブラウンのロングスカートという控えめな装いが、彼女をつつましやかに感じさせる。
背丈は平均より少し高め、グレーのパンツスーツに適度にめりはりの効いた曲線を浮き立たせ、服装の地味な色彩でも生気を相殺できない文代とは、まったくもって似ていない。
その一方で、背筋のぴんと伸びた、凛とした雰囲気のある居住まいは二人に共通していて、確かに姉妹だと納得させられる。
文代がにやりと人の悪い笑みを浮かべて言葉を続ける。
「この子、あらゆるゲーム機持ってて、ソフトも大量に持ってるから、退屈したらさっき教えた方法で釣って出させればいいわよ」
「釣って…ってなにそれ」
「ないしょ」
たわいないやりとりを聞いている限り、姉妹の仲は良いようだ。
その様子を見ながら、文香がその姉のように怖い人でないといいけれど…と、樟葉はこっそり思っていた。
その後、いろいろな説明を受けてから部屋に戻った樟葉は、空気が抜けるかのようにベッドの端に座りこんだ。
かくまわれる立場上、外部との連絡は禁止ということで携帯電話は没収、インターネットも接続不可能と申し渡されたが、不便なのはそのくらいではないだろうか。
ケーブルテレビのチャンネルはありあまるほど入っていて、ゲームも文香から借りられるから、暇つぶしのネタには事欠かない。
マンションには二十四時間対応するコンシェルジュが常駐していて、買い物も出前も部屋の内線から直接依頼できる。
おまけに、部屋にユニットバスとトイレが付属しているので、その気になればほとんど文代たちと接触せずに過ごすことができる。
それだけ快適な環境でも、自由に身動きが取れないというのは予想以上に息苦しく、既に樟葉は逃げ出したい気分になっていた。
だいたい、文代以外の「お迎え」が来る、なんていう話は全然聞いていなかった。「危険は何もないから」という話だから安心していたのに、どう見ても怪しい連中に連れ去られかかったのだから、何がどうしてどうなっているのかを早く問いつめたいものだ。
ずっと緊張していたせいで、喉がひりついて痛い。おそるおそる冷蔵庫を開けてみると、エビアンの小さいボトルが入っているので、ありがたく一本いただくことにする。
ベットの端に座り、ペットボトルの蓋を開けて中身を一口含む。冷たい感触が喉を染み渡って、思わず大きく息をついた。
ペットボトルを傾けながら、ここへ来る前に聞かされた情報を反芻する。
――世の中には、然るべき理由と然るべき報酬が揃えば、依頼された対象に依頼理由に相応の代償を負わせることを生業とする、隠れた存在がある。
代々女性が継承してゆくその存在は、自身を「
引導人の配下には、「空蝉」と呼ばれる存在がある。彼らは、その頭領の指揮下で依頼された対象についての精査を行い、引導人の仕事を支えているという。
引導人の仕事については、あまり公には語られない。その成果から誰が依頼したのか特定できてしまう案件が多いため、あえて隠されているのだ。
それでも、噂はおのずと広まる。
まだ時効制度が存在した頃に、時効を過ぎてから自首した犯人がいた。その人物に、犯罪を隠蔽してきた良心の呵責の色は全く見られなかった。それどころか、TV局のインタビューにも平然と応じて、被害者に非があったから生命を落としたのだとまで言い放った。
しばらくしてその男の消息が途絶えたため、ある記者が追跡に乗り出す。
じきに、男はある病院にいることが分かった。患者として、ではない。声帯と手足の腱を切られ、生ける治験の道具として飼われていたのだ。その肩には、名刺代わりの蝶の文様が、黒い線で刻みこまれていた。
その記者がこの件について、その後掘り下げることはなかった。
道義的には許されることではない。
だが、猿轡をかませ、両手両足を縛ったままの被害者を自宅の床下に隠し続け、もし再開発によって自宅を立ち退くことにならなかったら決して自首しなかったであろう男に対して、科された代償としては苛烈とは言えないのではないか…と、事情を知る人々の間では囁かれている。
さて、引導人の依頼は「
その連絡人へコンタクトを取れる、数少ない存在のひとりの懐に、いま樟葉は転がりこんでいる――改めてその事実を噛みしめて、樟葉はぶるりと震えた。
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