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 合言葉なんて大袈裟だと思っていた。

 あの瞬間までは。


   *


 昼休みが終わったばかりのオフィスに、電話が響く。若手社員が飛びつくように受話器を取り上げた。

 ほどなくして、その社員が「赤城さん、親戚の方からお電話です」と声を張り上げる。部長から頼まれた書類を作っていた赤城樟葉くずははキーボードから手を離して、保留中の電話に出た。

 「もしもし」

 『赤城樟葉さんですね』

 聞いた覚えのない、若い男の声が問いかけてくる。

 「はい…」

 『佐々木真司さんから依頼を受けた者です。裏口でお待ちしてます』

 一気にそう告げると、電話は切れた。

 受話器を下ろした樟葉は立ち上がって、部長の席へと急いだ。打ち合わせどおりに「親戚が救急搬送されたので」と言って早退の許可をもらい、同僚に作業中の仕事を引き継ぐと、更衣室へと急いだ。

 制服を私服に着替えてから、通勤用のトートバッグと共に、数日前からロッカーに入れておいた旅行鞄を引っ張りだす。中には、指示されたとおり一週間分の着替えを詰めてある。

 こんなものを持っていたら、早退を予期していたのがばれてしまう。少し廊下の様子をうかがい、人がいないのを確認してから小走りにエレベーターホールへと向かった。

 幸い、誰とも会うことなく、一階のエントランスに降り立つ。頭の中で必死に組み立てた言い訳を使わずに済んだことに安堵しながら、ビルの裏口を出た。

 外には、ブロックいっぱいに広がるビルと同じ幅を持つ駐車場があり、社用車やテナントに荷物を搬入するトラックがぽつぽつ停まっている。

 幹線道路に面した正面口のほうからは喧噪が聞こえるが、中途半端な時間帯のせいか、この場が虎ノ門のオフィス街の一角なのを忘れるほどにのどかだった。

 二月の寒気がコートの奥にまで入り込んできて、少しぶるりと震える。旅行鞄を下ろしてマフラーを巻き直した。

 鞄を持ち直した頃に、左側の車の合間から現われた人影が徐々にこちらへ近付いてくるのを認めて、樟葉は考え込む。タイミングからするとあれが「お迎え」なのだろうが、聞いている話と違う。

 その二人組の男たちはどんどん近付いてきて、彼女の前で止まった。どちらも二十代前半くらいで、ベンチコートにジーンズがこの界隈には不釣り合いだった。

 「赤城さんですね?」

 頷くと「佐々木さんから頼まれた者です。こちらへついてきて下さい」と片方の男が告げ、同行を目で促してきた。

 どうにもおかしい。

 佐々木が依頼した相手を、樟葉も知っている。その相手がこの場に来ないのなら、代理なのだと告げてくると思うのだ。その名前を出してこないのが引っかかる。

 「あの…『カケジヤソデノ』?」

 知った顔が迎えに来なかった時にはこれを言って確認しろ、とメールされてきた合言葉を投げかけてみる。声も身体も、緊張に震えた。

 二人が、いぶかしげに顔を見合わせる。冗談だと思っていた合言葉が機能したのだと、樟葉は理解する。

 何かを察知して、血相を変えた男たちが間合いを詰めてくる。思わず後ずさる樟葉の視界が、不意にさえぎられた。黒いコートの背中が、男たちとの間に割りこんできたのだ。

 その襟と、コーム一個で後れ毛ひとつなくまとめ上げられた漆黒の髪の間で、際立つ襟足の白さに、同性ながら一瞬目を奪われる。

 「『カケジヤソデノヌレモコソスレ』。遅れてごめんなさいね」

 背中の主が一瞬だけ振り返って、あわただしく告げる。正しく続けられた合言葉に、樟葉の身体の力が抜けた。

 闖入者と対峙した男たちは、明らかに動揺していた。

 「なんでこいつが…」

 呻くような呟きが、片方の男から漏れる。

 「この方、うちの依頼者クライアントなんでね――お引き取りいただきましょうか」

 男たちへと放たれた声は、静かだが有無を言わせぬ圧力を伴っていた。樟葉をかばう背中からもぴりぴりとした空気を感じて、思わず首をすくめた。

 「俺らは、この人の保護を頼まれてるんだ」

 もう一方の男が、噛みつきそうな勢いで反撃する。

 「ご本人の了解がないようだけど?」

 せせら笑うかのような切り返しに男たちは言葉に詰まり、顔を見合わせた。舌打ちをすると、樟葉をかばう女性を睨みつけてから踵を返して、駐車していた黒のセレナに乗り込んだ。

 その車が発進し、遠ざかるのを確認してから、やっと女性――佐野文代は樟葉のほうへと向き直った。

 目鼻立ちのくっきりとした面差しながら、相対する者の内面にまで斬り込んでくるように冴えたまなざしがその華やかさを打ち消し、峻厳な印象を与える。

 同時にそれが、彼女が探偵という職業にあるのを納得させる要素ともなっていた。

 何度か飲み会で同席して、印象ほど怖い人ではないとは判っているが、樟葉は彼女が苦手だった。

 「大丈夫?」

 かけられた声は心配げだが、向けられる視線は嘘を見過ごすまいとしているかのように感じられて、どうにもいたたまれない。

 「あ、はい、大丈夫です」

 なんとなく腰が引けて、答える声がうわずってしまう。

 二人の横にシルバーのプリウスが停車する。思わず身体を硬くした樟葉に、文代は「これはうちの車だから心配しないで」と告げながらそのドアを開けた。

 足を踏み出すと、膝からかくんと力が抜けた。よろめいた彼女を、文代が横から肩を抱くようにして支える。支えられたまま歩いて、後部シートにおさまると、樟葉は足全体が細かに震えているのを感じた。自分が思う以上に緊張していたようだ。

 樟葉が落ち着くのを見届けた文代はドアを閉めて、助手席に収まる。ほどなくして車が動き出した。

 「それにしても、どこからどう来た連中なんだか。赤城さん、佐々木さんがいま何を取材してるか聞いてる?」

 「それが、いま調べてる件でとばっちりがいくかも知れないから、しばらく佐野さんのとこでかくまってもらえ…としか、私も言われてなくて」

 「あらら。

 彼女さんをさらいに来るなんて、どう見たってまっとうな筋じゃない。佐々木さんってそういう危ないところに首つっこむ人でないと思ってたんだけど、どうしちゃったんだか」

 「さあ…」

 佐々木と文代の間で細かな打ち合わせが終わってからこの話を持ってこられた樟葉も、文代と一緒に首を傾げるしかなかった。


   *


 空になったコンビニ弁当の器を片付けると、多賀は畳にごろんと転がった。満腹感とコタツの暖かさで、ほどよくとろんとしてきているのを申し訳なく思う。

 ここのところ、当番の日はずっとこんな具合だ。緊急事態に備えて待機している役回りだから、ぐうたらしていられるほうが結構ではあるのだが、その時間の分まで給料をもらうのには気がとがめる。

 コタツの上で、スマートフォンが鳴った。

 多賀は即座に起きあがり、届いたメールの内容を確認した。そして、スマートフォンを持ったまま部屋の隅にある畳用パソコンラックに向かい、パソコンのスリープを解除して必要なソフトを起動する。

 画面が出てくるのを待ちながら、壁のスケジュール表を見た。いま動けそうなメンバを確認すると、多賀は電話をかける。相手は呼び出し音一回で出た。

 「多賀だが、メール見たか?………向こうさんはまだ動いてないから、今のうちなんだが………………頼んだ」

 さらにもう一件、電話する。

 「多賀だ…もう調べてるか。分かった」

 電話を切ると、パソコンに表示された地図の上で、標的ターゲットを示す赤い点が動き始めた。同時に、手の空けられそうなメンバから、次々とメールが飛び込んでく

る。標的の進む道が赤い線で刻々と描き出されてゆくのを横目にしながら、急いでスマートフォンにキーボードを向ける。

 メールの送信者の現在位置と、ディスプレイ上の赤い線の流れをつきあわせ、各自にどう動いてもらうのが最適なのかを判断し、指示を返信してゆく。

 この午後は長くなりそうだ、と手を動かしながら多賀は思った。

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