第2話
大きく動かした肩は、水中を進むための原動力となる。
しなる腕、あがる水しぶき、わずかな呼吸。
最後のひとかきをした指先が、プールの端にあたった。
カナデは水中から顔をあげると、軽く頭を振って、右耳を傾けた。
水面が降りそそぐ日差しを弾くが、それらを特にきれいだとは思わない。
もう慣れてしまった光景だ。当たり前の、ありふれた景色。
「おつかれ」と少し離れたところで声がした。
同じように泳いでいたはずのモモが、2レーン分離れたスタート台の隣に立っていた。
「もう泳がないの?」
「まさか。休憩。カナデも休めば?」
「もう一本、泳いでから」
短く答えて、再び水のなかに身体を潜りこませる。
泳いでいる間は、ただただ無心でいられた。
5ヶ月前、いきなり学校が休みになったこと。
終業式も卒業式も行われず、先輩たちは卒業してしまったこと。
多くの部活動は活動禁止になったものの、水泳部は条件付きでかろうじて認められたこと。
(ありえない、泳げないなんて)
カナデにとって、夏は「泳ぐため」の季節だ。
幼いころから今の今まで、泳げない夏など考えたことがなかった。
──「戦争が起きているらしいよ」
ここに来る前、モモが教えてくれた。
──「それもかなりヤバイやつ。だから学校が休みなんだって」
たぶん、よくある噂のひとつ。
とはいえ確かめる術はなかった。
自分たちの世界は狭く、大人たちはもうずっと口を閉ざしていた。
いや、案外大人たちも本当のことは知らないのかもしれなかった。
だって、先生も両親も、休校の理由を聞くとこう答えるだけだ。
──「すべては神様が決めたことだから」
神様──この世界のすべてを決めている人。
でも、どんな顔をしたどんな人物なのか、実はカナデはまったく知らない。
それは、カナデ以外の仲間も同じで、もちろんモモだってそのひとりだ。
そのせいか、モモはたまに大人との──つまりは神様がくだされた約束を破ろうとする。
「これ、あげる」
3往復泳いで顔をあげると、モモがすぐ真上にいた。
驚いた。こんなの先生に見られたら、即部活動中止だ。
「なんでここにいるの。あっち行きなよ」
「でも、離れたままだと、これ渡せないじゃん」
モモが手にしていたのは、飲みかけのドリンクだ。
「飲まないの?」
「いらない。味しなさすぎ」
カナデが受け取ると、モモはふらりと離れていった。
バスタオルを肩から落としたあたり、また泳ぐ気になったのだろう。
ただひとりの水泳部仲間──9月から学校が始まったら、モモ以外にも部員は増えてくれるだろうか。
大きな水音を聞きながら、カナデは飲みさしのボトルに口をつけた。
まったり口内に残るような、クセのあるライムの味がした。
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