姉と夏

九十九

姉と夏

「何処行っちゃったのかなあ、お姉ちゃん」

 鬱蒼と木々が茂る山道を一人歩く少女は、不満げに呟くと流れる汗を乱暴に拭った。


「ひと夏の思い出作りに、山へ行こう! そらちゃん!」

 声高らかに、突拍子も無く言い放たれた歳の離れた姉の言葉に、少女が眉間に皺を寄せて訝しんだのは、既に数時間前の事。

 時計上での早朝から車を走らせて大凡二時間。着いたのは昔住んでいた田舎町の少しだけ大きな山のすそ。

 田畑ばかりの懐かしい田舎町の山を前に、長時間の車移動独特のぼんやりと霞む頭で少女が車から出ると既に姉の姿は無く、ただ一言『宙ちゃん、頂上においで』と記されたメモだけが残されていた。

 よく分らない事態に首を傾げつつも、先に行ったのならば直ぐに追い付くだろうと歩を進めた宙だったが、いくら歩いても姉の姿は見えない。

 僅かな不安に携帯を見るが、音楽が流れるメモ帳と化した機械では事態を打開させる事は難しく、早々に見るのを止めて山頂へと歩みを進めた。


 少女は再び流れた汗を拭うと一度立ち止まり、頂上へと続く道を睨んだ。

 都会部から考えれば随分と涼しい場所ではあるが、季節が季節だ。高い気温と独特の湿気に纏わりつかれながら足早にと歩き進めれば、普段は外に出ない少女の身体からはじんわりと汗が滲んだ。

 殆どの時間をパソコンやゲーム機の前で過ごしている少女からしたら、どれだけ緩やかであっても坂は坂だ。急勾配ではないとは言え、慣れない山道は親の仇の様に憎い。しかもここ最近は世界情勢による休校の影響で、快適な環境の自室に篭りっきり状態だったので、明らかに身体は鈍っている。

「お姉ちゃんみたいに運動しとけば良かった」

 少女は呻くように呟くと、大きく溜め息を吐いた。

 木々の隙間からは夜でも煌々と光る空が見えるが、密集した枝葉のお陰で山道まで光が届かない事が幸いだ。これで眩しい光を浴び続ける状況だったら、とっくに引き篭もり質の彼女の心は折れていただろう。

 少女は再び溜め息を吐くと、姉を探すために歩を進め始めた。



 それにしても、と少女は歩きながら考える。

「お姉ちゃん昔はインドアだったのになあ」

 昔の姉は今ほど突拍子のない行動はしなかったし、外で遊ぶよりも家の中で遊ぶ方が好きな子供だった。テレビの前で一緒になってゲームを遊んでいた頃が懐かしい、と少女は目を細める。

 今も一緒に遊ぶ事はあるが、やはり昔ほど、姉はインドアでの遊びに興味を持たなくなった。

「何時からだっけ?」

 姉が外で遊ぶようになったのは何時からだったか考えて、すぐに首を捻った。思い出せない。姉が小学二年生の夏休みの頃だったような記憶はあるが、詳細なところは曖昧だ。

「昔は内気な方だったのに」

 宙と同じような性格だった姉は、何時の間にか快活で社交的な性格に変わっていた。小学校の中で交友関係が出来た故の変化だったのか、外の世界への見識を広めた故の変化だったのかは分からない。

 その頃の事を思い出そうとして、けれども霞が掛った記憶は奥底に沈んでしまっていて明確な姿が見えない。

「消えた2020年の夏、なんてね。うん、後でお姉ちゃんに聞こう」

 少女は早々に思い出す事を放棄して、当の本人に聞くことに決めた。



「宙ちゃん」

「お姉ちゃん?」

 さんさんと、目が眩むほどの光が降り注ぐ山の頂上に姉は立っていた。開けたその場所には地上を覆う木々など無く、ただ廃れた屋根と椅子が置いてあるだけだった。

 ぴこり。

 唐突に、場違いな通知音が携帯から響いた。

 少女の手元、木陰の中で緩やかな光を放つ画面には通知が表示されている。ここ数年、毎日送信されている『世界終末通知』だった。

「宙ちゃん」

 慣れ親しんだ声が何時もの様に少女を呼ぶ。

 少女は、光の中に佇む姉の姿を瞬きもせずに見つめていた。どうしてか胸騒ぎがした。姉の向こう側にある筈の景色は光に覆われてしまって、形が見えない。

「どうしたの、お姉ちゃん?」

 優しい声音、褐色の肌、笑う時ほんの少し下がる瞼。何時もの姉の姿なのに、宙は僅かな違和感を覚えた。何かが違う予感がした。

 例えばそれは、あの時の――。


 ふと、少女は思考を止めた。

 ――あの時。あの時とは何時の事だったろうか?

 何かを。大切な何かを忘れている気がして、けれども記憶を探ろうとすれば耳鳴りが大きく響いて、少女は木陰で蹲った。

「宙ちゃん」

 優しい音が少女の脳を揺らす。

「お姉ちゃん」

 少女は蹲って頭を抱えたまま、縋る様に右手を伸ばした。

 瞬間、冷たく柔らかいものが少女の指先に触れたかと思うと、少女の身体は光差す地上へと引っ張り出されていた。

「っ……!」

 驚きの表情を浮かべ、少女は姉を見た。けれども強すぎる光のせいで、宙の頭の幾分か上にある姉の表情は窺い知れない。

「お姉ちゃん?」

 少女は途端に不安に駆られて、姉を呼んだ。姉は微笑むばかりで返事をしてはくれない。何時でも、どんな時でも、必ず返って来る姉の声が聞こえないことが恐ろしくて、少女は自身の胸元を握る。

「おねえちゃ……」

 幼子が泣いて縋るような弱弱しい少女の声に、僅かに空気が揺れた。

 束の間の静寂。不意に姉の手が少女の頭を優しく撫でた。

「あ、れ……?」 

 この光景に見覚えがある、と少女は首を傾げた。記憶の何処かでこびり付いて離れない筈なのに、明確な形が掴めない記憶がある。

「宙ちゃん。私と宙ちゃんが初めて会った日は、何時?」

「……初めて、会った?」

 果たして何時だったか、と少女は思い出そうとして、直ぐに違和感に気が付いた。

どうして今、『何時だったか思い出そうとした』のだろうか。姉は宙が生まれた日に立ち会った筈なのに。そうしてそれを少女は知っていた筈なのに。

 それは良く晴れた日の午後。父と二人、母と生まれて来る子の無事を願いながら椅子に座って待っていて、産声を聞いた後に――。

「……あれ?」

 少女は記憶の中の視点の差異に目を見開いた。

「お父さんと待っていたのは、私?」

 それならば生まれたのは誰なのか。

 宙が生まれてからずっと少女の家は二人兄弟だった筈なのに、宙が下の子であった筈なのに、どうして。

 どうして、記憶の中に姉の姿は無く、少女は『弟』の誕生を祈っていたのか。

「おとうと?」

 呟いた瞬間、耳鳴りが止む。同時に目を焼くほどに熱い何かがこみ上げる。

少女の頭の中で、記憶の箍が外れた音がした。



 じりじりと、肌がひり付くほど熱い夏だった。あれはそう、少女が小学校二年生の夏休みだ。

 あの頃は未だ世界の終末騒ぎなど無くて、五月蠅いくらいに蝉がそこかしこで鳴いていた。誰も彼もが数年後に隕石が落ちて来るなんて思っていなくて、今ほど空は眩しくなくて、夏休みには家族で外へ出かける人達が沢山居るような、平凡な夏だった。

 ――そんな平凡な夏に、少女の弟は崖から落ちて死んだ。



「お姉ちゃん」

 濁流のように押し寄せる記憶に喘いで、縋る様に少女は姉を呼んだ。悲しい、寂しい、暗い、冷たい、痛い。心が、頬が、痛くてどうしようもない。

姉は微笑むと、そっと宙の身体を抱きしめ、小さな背を撫でた。

「大丈夫だよ、宙ちゃん」

 初めて出会ったあの日も『其』は未だ幼かった宙の身体を抱きしめて、そう囁いたのを少女は思い出す。

「ああ、でもこっちの記憶は要らないね」

 姉はそう言うと、するりと宙の頬を撫でた。ふつりと頬の痛みが消え、どうして痛かったのか記憶が曖昧に霞む。

「大丈夫、ね?」

 少女の耳元で布が擦れる音がした。抱きしめていた姉の腕が解けるように形を変えて、『其』に戻って行くのが分った。


「私がお姉ちゃんだったんだね」

形を戻した『其』に包まれながら、少女は呟く。

 内気だったのも、ゲームが好きだったのも、インドアな遊びを好んでいたのも。記憶の中にいたお姉ちゃんは全て、『姉』では無く、『幼い弟のお姉ちゃんだった宙』だったのだ。

「お星様はお願いを叶えてくれたね」

 少女が呟くと、姿を変えた『其』が、再び優しく頬を撫でた。

 

 

 幼い弟は、姉の後ろを常に付いて歩くような子だった。姉が歩けば弟も歩く、姉がゲームを取り出せば弟も一緒にゲームを遊ぶ、そんな姉弟だった。

 弟が死んだ熱い夏の日、家族揃って山へと遊びに来たあの日も、弟は宙にくっ付いて歩いていた。

 事故が起きたのは、頂上が見えて走り出した宙を追い掛けて行った矢先のこと。姉に倣って頂上から景色を眺めていた小さな身体は簡単に柵から擦り抜けて、そうして少女が瞬きをする間に落ちて行った。

 それから後の事は曖昧で、もう今の少女には上手く思い出せない。

 ただ覚えて居るのは、雨が降る夜、弟が落ちていった場所で星に願った事だけだ。己が姉でなければ良かったと、居なくなるのは姉で良かったと、そう願った事だけだ。



 『其』は在りし日を思い出す。

 吹き荒ぶ風は獣のように唸り、叩き付ける雨によって山からは泥の濁流が流れ出す中、小さな命が叫んでいたのを。

 だから、其は小さな命に尋ねた。

『それが、あなたの願いですか?』



『ねえ、宙ちゃん。この星から逃げちゃお』

 漂いながら『其』へと姿を戻した姉が、少女の手を取ってそう言った。

「逃げる?」

『もう直ぐ落ちて来るでしょう? 隕石』

 隕石落下の報道があったのは、数年前の2020年の夏だった。

 全ての時計は丁度その頃止まってしまって、今では『世界終末通知』が唯一の今の時間を知る手段だ。その頃から暦も、少なくとも一般人の暦の感覚は麻痺してしまったので、今は何度目かの2020年の夏だ。

『お姉ちゃんね。隕石が落ちて来るから、植物とか動物とか回収しに来たんだけど、それも全部終わっちゃてね。後は宙ちゃんだけなんだ』

「私?」

『お姉ちゃんね、宙ちゃんが大好きだから。だから内緒で回収しちゃおって思ってたけど、やっぱり宙ちゃんの意志が大事かなって』

「内緒でやろうと思ってたの?」

『うん』

 悪気無く無邪気に頷かれてしまい、少女は眉根を下げた。昔から、姉にはこう言う所がある。

「うーーん」

 大きな分岐路を前に少女は唸った。

 このまま隕石が落ちて滅ぶとして、身勝手に願った自分が落ちるのは多分地獄だ、と少女は思う。あの柔らかく小さな身体に会うことは出来ない。

 

 それならば答えはシンプルだ、と少女は『其』を見上げた。お星様が願いを叶えてくれた様に、自分もお星様の願いを叶えたら良いのだ。

「いいよ。……それが、あなたの願いですか?」

 一瞬の静寂が流れた。

少女は、『其』が人の身体であったなら瞠目していたような気がした。

『……うん、お願いお星様』

 そうして少女の想像は、きっと合っている。だって、少女と『宙のお姉ちゃん』はずっと一緒に居たのだ。多分、ちょっとやそっとじゃ、宙の願いを叶えてくれた『其』は変わらない。

『これからずっと宙ちゃんと居られないのは寂しいから。だから一緒に逃げて、私のお星様』

「いいよ、お星様。一緒に逃げちゃお」

 少女は微笑んで、『其』の手を取った。


 それは幾度目かの2020年の夏の事。

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姉と夏 九十九 @chimaira

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