第10話 突然の別れ②

泣いて泣いて、泣き果てて、私の涙は枯れ果ててしまった。

もうお化粧もグチャグチャ。

もうアムジャドと会えない、その気持ちが、胸をズタズタに引き裂いた。


イマードさんは、とにかく日本だけの恋人にこだわった。

私とアムジャドは、国へ帰っても、一緒にいるという選択肢をとった。

でも結果、イマードさんの思惑通りになって、私達は今、一緒にいる事ができなくなった。

「アムジャド……」

その名を呼べば、胸がいっぱいになる。

「アムジャド……アムジャド……」

枯れ果てた涙は、また搾り取るように、目からポロッと落ちた。


そんな時だった。

空港にいる人が、私を見かねて声を掛けてくれた。

「あなた、大丈夫?」

「はい。」

ビショビショのハンカチを持って、何とか返事をした。

「どうしたの?」

そのご婦人は、私の隣に座った。

「その様子だと、好きな人とでも、別れてきたの?」

その言葉を聞いて、また涙が出て来た。

「あらら。図星だったのね。」

私はまたハンカチを目に当てて、泣き始めた。

「相手は日本の人?それとも、外国の人?」

「……外国の人です。」

「そう。国境線を超えられなかったのね。」

それを聞くと、また涙がほろほろ出て来た。

「相手も私も、国境線を超える覚悟で、ここに来たんです。」

「あらま。じゃあどうして、付いていかなかったの?」

「付いていかなかった、じゃないんです。付いて行く事を邪魔されたんです。」

「誰に?」

「お付きの人に。」


あの大金が入った封筒を思い出すと、悔しくなってくる。

イマードさんは、私が大金を払えば、アムジャドと別れると思っていたんだわ。

そんな風に思われていたなんて。


「その人は、身分のある人なのね。」

「はい。」

「だとしたら、絶対迎えに来てくれるわ。」

ご婦人は、にこにこ笑っている。

「……迎えに来なかったら?」

「自分から飛び込んでいけばいい。」

あまりにも突拍子のない意見に、私はポカンとしてしまった。

「自分から飛び込んで、拒否されたらどうするんですか?」

「あら、あなたさっき、相手の人も一緒に来て欲しいって、言ったじゃない。」

「はい。」

「大丈夫よ。愛があれば、全て乗り越えられるわ。」


-愛があれば、全て乗り越えられる-


「ありがとうございます。」

私はご婦人に頭を下げた。

「いいえ。決して、希望を捨ててはダメよ。」

「はい。」

「じゃあね。」

ご婦人は、そう言うとどこかへ消えてしまった。


希望を捨てない。

アムジャドともう一度、会える希望を捨てない。

うん。そうやって生きて行こう。


「帰ろう。」

荷物を持ち、空港の外に向かって歩き出した。

お母さん、あんなに劇的なお別れをしたのに、帰ってきたら、何て言うかな。

外に出て、タクシーを拾った。

さっきはアムジャドとの新しい生活で、胸が興奮でいっぱいだったけれど、今は冷静になっている。

そう。もしかしたら、医者になる道を途中で捨てるなって、神様が言っているのかもしれない。

「うん。そうかもしれない。」

私は窓の外を見た。

飛行機が飛んでいる。

アムジャドもあんな風に、行ってしまったんだろうか。

「アムジャド。」

前はアムジャドの名前を呼ぶ度に、切なくなっていた。

でも今は、彼の名前を呼ぶと、強くなれる気がする。


タクシーが家の前に停まり、私は再び家に帰って来た。

「ただいま。」

「千奈!」

お母さんが玄関の前まで、走って来てくれた。

「へへへ。戻って来ちゃった。」

「戻って来たって?」

私は荷物を持って、家の中に入った。

「連れて行ってもらえなかったの。」

「そんな……」

私はソファに座った。

「でも、結果よかった。」

「どうして?」

「だって、このまま医学部辞めたら、お父さんとお母さんに、申し訳ないもの。」

私はお母さんに、笑って見せた。

「千奈。お母さんね。あなたが選んだ道だったら、相手に付いて行ってもいいって、思ってたのよ。」

「大丈夫。愛があれば、また会えるから。」

私は、心から微笑んだ。


心機一転。私は今まで以上に、勉強に精を出した。

「アムジャドは、国へ帰ってしまったね。」

先生とはたまに、校内の中庭で、話をする事があった。

「はい。」

「君は、付いていかなかったんだね。」

「はい。」

私は前を真っすぐに見た。

「なんだか、強くなったね。千奈ちゃん。」

「そうですね。アムジャドとの出会いが、私を強くしてくれました。」

先生は、下を向いてため息をついた。

「ずっと後悔していたんだ。千奈ちゃんに、アムジャドを紹介した事。」

「どうしてですか?」

私は先生の方を見た。

「僕がアムジャドを紹介しなければ、千奈ちゃんはこんなに傷つくことはなかった。もしかして、僕と一緒に平穏な毎日を過ごしていたのかもしれない。」

先生の優しさは、変っていない。

思えば、先生のその優しさに惹かれて、一度は付き合おうって決めたんだっけ。


「先生、私。アムジャドと出会った事、後悔していません。むしろ、紹介してくれた先生に、感謝しています。」

「千奈ちゃん……」

「確かに、先生とあのまま付き合っていれば、穏やかな生活を送っていたかもしれない。でもアムジャドと出会って、分かったんです。」

ふいに、アムジャドの笑顔が浮かぶ。

「身を焦がすような、一生に一度の恋って、こう言う事なんだって。」


アムジャド。

今あなたは、どうしているかな。

お仕事で大変な思いしてない?

って、アムジャドの仕事も何か分かないまま、別れてしまったけれど。


「千奈ちゃん。これから、どうするんだい?」

「これからですか。」

私は大きく深呼吸をした。

「何も。今は医学の道を、ひたすら歩むだけです。」

「分かった。千奈ちゃんがそう言うのなら、僕も応援するよ。」

私は思わず笑ってしまった。

「先生は、『俺のところに戻って来い。』って、言ってくれるのかと思っていました。」

「ははは。確かに思ったよ。でも、千奈ちゃんはそう言っても、断るだろ。アムジャドを想い続けますって。」

「はい。その通りです。」

そして二人で笑い合った。


この広い空の下に、アムジャドがいる。

それだけで、私の心は満たされる。

アムジャドも頑張っているのなら、私も頑張れる。

そして、一人前の医者になった時、堂々とアムジャドに会いに行こう。

こんなに立派になったよって。

今までずっと……アムジャドを想っていたよって。


そして私は、大学と家を往復する生活に戻った。

以前はアムジャドがいなかったから、大学と家の往復なんて、胸が空っぽで虚しかったけれど、今は違う。

心の中に、アムジャドがいるから。


「森川さんは、何科を目指すの?」

「私は内科かな。」

「へえ。森川さんは、もっと専門的な科を目指すんだと思ってた。」

同じ大学の子は、産婦人科とか耳鼻科が多かった。

大人しい子が多いと言うか、親が医者だというお嬢様が多かったから。

「私ね。将来医療の届かない地域に行って、治療を受けられない患者さんを多く診たいの。」

「それで、内科。そう聞くと、森川さんっぽいな。」

そう言われて、私は嬉しかった。

もっともっと勉強して、いろんな患者さんを診る事ができる医者になりたい。


家に帰って来て、靴を脱ぐとお母さんが、玄関に迎えに来てくれた。

「ただいま。」

「おかえり。」

挨拶を交わしても、お母さんはしばらく玄関にいる。

「お母さん。もう私が帰って来た時、出迎えに来なくてもいいよ。お母さんも忙しいでしょ。」

するとお母さんは、作り笑いをしていた。

それが私の胸に引っかかった。

「何か、あるの?」

「いやね。あなたが荷物を持って、彼氏の元へ行くって言った時の事、忘れられなくてね。また同じ事を言いだすんじゃないかって。」

「もう、そんな事言わないよ。」

「あら、今度の人はそんな人じゃないの?」

「いないよ、そんな人。」

人知れず、お母さんを心配させたあの時の事を、後悔していた。

もっと違う方法で、お母さんに伝える事ができたのかも。

「お母さん。私には、別れた彼しかいないの。」

「……そう。」

私は笑って見せたけれど、それはお母さんに届いていたのかな。

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