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猿川西瓜

第1話 雪の道に何がありますか

 僕は女子大を目指して歩いていた。


 毎週土曜日と日曜日に、大阪から岐阜へと通った。土曜日、始発で大阪から出てきて岐阜駅で電車を降りると、しんしんと冷えた朝の空気が心地よかった。吐く息に、重みがあった。

 目指すは女子大。そこで、僕はデジタル・アーキビストの資格取得講座を受けるのだ。


 あえて残雪を選んで踏んだ。スチロールが砕けるような音がした。

 雪が溶けて灰色の水たまりになっているところは避けた。マンホール近くにある凍ったところも避けた。

 残っていく自分の足跡と、泥。僕はそれらにスマホを向けた。

 白い息が画像に入り込んだので、息を止めてもう一度撮影する。

 道端に時々ある小さな雪だるまも、スマホでいちいち写真に撮った。

 二十歳を過ぎても、こんな学生みたいなことをしていていいのだろうか、と思う。同級生たちの大人びた顔を思い出すと、気分が落ち込んだ。大学に進学して、スーツを着て、正職で働く友達。僕は相変わらずの非常勤だ。

 でも、やめられなかった。撮ること。記録すること。


 何か思うところがあって何気なく撮ったなんでもない写真。それを、ただ撮っただけでそのまま保存していたら、デジタルデータである写真でさえも、どこか色あせてしまうことに僕は気がついた。

 写真に、撮った場所の通りの名前やその時の気温まで細かく入力する。雪の玉が五段に重なっているものや、小さな雪の壁が歩道に沿ってどこまでも連なっているものもあった。それすらも詳細に、いつ、どんな大きさで、今自分はどこにいて、これが何であるかを写真のデータに付け足す。一番重要と思ったのは、その時に個人的感想を残すことだ。例えば、五段に積み重なっている雪だるまは、複数人が関わって作っているところがイメージできる。親子というより、仲間同士でふざけている姿が思い浮かぶ。中学以上の男の子か? 女の子なら、もう少し丁寧に作りそうだし。

 たとえ的外れでも、その時湧いてきた言葉を記しておくと、自分だけでなく他人にとっても臨場感を持ってデータを見ることができる気がする。文も、写真なのだ。スマホのちょっとした写真に、情報を追加すればするほど重みが増してくることが不思議だった。

 情報を、きちんと「記録」にする意味は、大阪の地域図書館で働いているうちに覚えた。この作業を繰り返していると、どんなことでも大切な一瞬に思えてくる。僕はこの感覚が好きだと、働いて初めて気がついた。


 撮影を切り上げて、僕はまた女子大へと歩き出した。開講時間よりだいぶ前だが、誰も来ていない部屋が好きだった。人が入ってくると、会話がなくても緊張してしまう。

 最初は、きちんと最後まで休まず授業を受け続けることができるだろうかと心配だったけれども、無事に皆勤賞を得ることができそうだった。この資格が、自分みたいな人間にどんなメリットをもたらすか、正直わからなかった。あと10年くらい経てば、何か重要なことにつながるような気がするばかりで、具体的にどうかと問われたら、口ごもるかもしれなかった。


 僕が目指す資格、デジタル・アーキビストとは、名前の通り、資料を情報化し、記録・保存する専門的資格で、主に図書館や博物館や文書館等に勤める人が取得する。古地図や古文書を電子化したり、伝統舞踊を様々な角度から撮影したり、360度の球体カメラで建造物の中の様子を高解像度で写真に収めたりして、後世へ伝えることを目的としている。

 講義は、デジタル・アーカイブの意義や活用例の座学から始まり、カメラやスキャナーの使い方、データベースソフトウェアを使用したメタデータの付与、著作権法など法律関係から、撮影の許可書の書き方や企画とプレゼンの仕方まである。最近出来たばかりの資格なので、普及を目指してか受講料が格安だった。

 授業を受ける会場は岐阜にある女子大だったが、僕が抱いた淡い期待もむなしく、女子大生らしい姿は皆無であり、ただパソコンに向かうおじさん、おばさんの姿があるばかりだった。でも、ただのおじさんやおばさんではない。全国の図書館や博物館で働くスペシャリストたちだろう。


 パソコンが四〇台ほど並んだ教室に、予定通り一番に到着した。パソコンルームの排気音と、少し錆びたような匂いが僕は好きだった。どこか防音室めいていて、空調がちょうど良かった。この機械の匂いの次に好きなのが、働いている図書館の書庫の匂いと静けさだ。


 マフラーをほどいて、パーカーを脱いで、教壇から一番遠い隅のほうの席に座った。

 今日はデータベースの応用演習で、最後から二番目の講義だった。資格の取得まで最終段階といったところだ。試験はなく、すべて受講すれば資格がもらえる。楽なものだった。普段からOPACのデータ入力等業務全般こき使われているので、僕にとってほとんどの講義は聞き慣れたものだった。周りの受講生は頻繁に先生やティーチングアシスタントを呼んでパソコンの基本的な操作について質問していた。スペシャリストであるおじさんおばさんがパソコンに悪戦苦闘してるのは、僕にとっては意外なことだった。参加者は岐阜以外からの人がほとんどだった。北海道から来ている人もいるし、僕は大阪だ。全国の各地域によってはパソコンをあまり使わなかったり、まだカード目録の所とかあるのだろうか。僕は職場の図書館で雑用係をやらされていたので、パソコンについては他の受講者よりも少し詳しかった。僕の先輩であり、見た目はとんでもなく知的な美人で憧れるのに、話し始めたら「冷たい系の大阪人」。かなり強い言葉の力を持つ女上司――上月こうづきさん――がいて、企画展示やちょっとした冊子の作成の手伝いをさせられていたので、画像編集ソフトやデザインソフトがある程度操作できた。


 いつも二番目に来る男がいる。僕の隣の机に満寺までら君が座った。なんだろうこの微妙な距離の近さは。僕は「こんにちは、満寺さん」としっかり挨拶した。満寺君は含み笑いをしながら「おはようございます、石威いしい君」と言った。僕はその声に、思わず俯いた。

「やっぱり苦手だ……」と心のなかでつぶやいた。

 僕の事、絶対に、下に見ている。

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