第9話  犬はなんのために生きるか

 二人が「樫木どんぐり記念館」に着いたとき、柳瀬は松永武子が死んでいたベンチのそばで、小柄な老女と話をしていた。小さくてやたらと騒がしい犬を連れている。

 「お待たせしました」みずるが挨拶しても、老女は柳瀬を開放してくれなかった。かわりに犬が、みずるに向かって吠えたてた。聞こえてくる会話から、老女は武子の知人のようである。ベンチに花を置いてあるのも、老女の仕業のようだった。

 小さな犬が宇藤木に吠えようと彼を向き、あわてて老女の足に隠れた。

 見ると、宇藤木がじっと犬を睨みつけている。大人気ない人間である。

「あんな目にあうなんて、ほんとにねえ、ほんとに」依然として老女が同じことをくどくどと繰り返している。ようやく言葉が途切れたと思ったら、宇藤木が口を出した。

 「その犬は、まだ若いんですか」

 「えっ」老女は突然声をかけてきた大男に戸惑いながら、「そうなんです。孫が譲り受けてきてくれたんです、ごめんなさいねえ、うるさくて。まだ子供なのよ」


 隣町に住む高橋芳子と自己紹介した女性は、それまで十年飼っていた犬を病気で亡くしたあと、この騒がしい子犬を飼いはじめたのだと説明した。

「前の犬は、透析まで受けていたのに、ダメでした」

「ほう。失礼ですが、お金がかかったことでしょう。がん保険は入っても犬保険に入ってないことは多い」

 宇藤木の変な言葉には注意を払わず、高橋は自分のことをひたすら語った。

「透析が必要なぐらいだと他にも病気が出るものですからね。ここあも手術が必要と言われたんです。でも、娘には楽にしてやれと反対されまして」

「それは気の毒な」宇藤木が動物に同情するとは考えにくいが、みずるはつっこみを自粛した。

「いえ、あの子の天命だったのよ。ただね、あの時はわたしすっかりうろたえちゃってね、久しぶりに武子さんに会ったときに、長々と愚痴をこぼしてしまったの。ほら、わたしあの人とは古い付き合いだったでしょう。昔は店を手伝ったりもしていたから。イカ焼きを焼いたりとか」


 この言葉には宇藤木、みずる、柳瀬の三人が揃って反応した。

「そうだったのですか」

「え、バイトをしてたんですか」

「最後にお会いになったのは、いつ?」

「お店に行ったのは十年ぶりぐらいでしたけど」少しも焦らずに高橋は答えた。「夫が亡くなってからこっちに戻ってきたの、半年ほど前のことよ。武子さんと最後に会ったのは、亡くなる少し前。それからひと月も経たないうちでしょう。それは、驚いたわ」

 柳瀬がやさしい口調で聞いた。「松永さんとは、どんなお話をされましたか」

「だからつい、手術費用に困っているのって、泣きながら訴えちゃった。いまになって考えたら、仕方ないことなのにねえ。あの時は、わたしもちょっとおかしくなっていたのね。そうしたら」

 高橋はうなずきながら三人を見た。

「あの人、わたしも透析をしていると言って、『その苦しみはわかるから、少しだけ待ってちょうだい』って。ほんとうに神様のようなひとだった。若い頃からよくできた人だったけど、歳をとってますます磨きがかかった」


「松永さんが、お金を都合してくれたわけですか?」

「いいえ」高橋は首を否定の形に振った。「だから、その前にここであんなことになってたのが見つかったの」高橋は顔を伏せた。「かわいそうに。本当にお気の毒。あんなにきっぷのいい人、めったにいませんよ。誰があんなことを」

 宇藤木はさらに聞いた。

「ではわんちゃんは、間に合わずに……」

「ええ、そのあとすぐ、旅立ちました。仲の良かった武子さんに続いて、ここあもだなんて、わたし悲しくて、悲しくて。ずっと外に出られなかったのよ」

 高橋は顔をあげたが血色も良く、とりたてて弱っていたようには見えない。

「そしたら、家にいるばかりではよくないって、孫がこの子を連れてきてくれたの。以来ずっと一緒に歩き回っているの。ねっ」

 彼女は小さな犬を持ち上げて顔を覗き込んだ。

 犬は迷惑そうに首を振ってから宇藤木とみずるの顔を交互に見ると、きゃん、と甲高く吠えた。

「ね、かわいいでしょう」高橋は幸せそうな表情を浮かべた。「この子がきてくれて、わたしもね、このままじゃいけないって気になったの。ここあの生まれ変わりと考えるにはあまり似てないけど、きっと武子さんとあの子が、私に贈り物してくれたんだって思うことにしているのよ」



 平日の昼前だったせいか、記念館の喫茶室は他に客がいなかった。みずるたち三人は隅に座をしめ、とりあえず打ち合わせをはじめることにした。

「立ち直りのはやいばあさんだ」宇藤木がぼそっと言った。高橋芳子を指しているようだった。「ここあもあの世で呆れてるぞ」

「松永さん、犬にまでお金をあげるつもりだったのかな」みずるが言うと、

「家族の誰かと勘違いしていたのかも知れませんよね」と柳瀬が言った。

「ほんとね。さっきのひと、きっと犬を人間扱いしていたでしょうから」

 

 おどろおどろしい絵柄の黒いTシャツを着た女性が、いい香りのするコーヒーを運んできてくれた。漆黒の髪を複雑な形に結えてある。顔立ちは彫りが深く、肌の色はみずるに負けないほど白かった。

 彼女が去ってから、みずるがつぶやいた。

「なるほど。アビーちゃんか」

「どうしましたか」柳瀬の問いにみずるは、「いえ、難波くんがこの店にこだわる理由がわかった気がしたの」

「そういえば、難波さんは少し遅くなるそうですよ。聞き込みをして、松永浩一さんの家にも寄ってから行きますって。宇藤木さんが探していたキーマンは、僕が見つけましたから!って興奮していました」

「どうせ、毎度お馴染みの空振りでしょ」

「でも、いつも元気ですよね。感心しちゃうな。上司の諸治係長も、難波さんは異様に打たれ強いんだって褒めておられました。あれが褒め言葉なのかは、ちょっとアレですけど」

「まあ、性癖ですよね」


 宇藤木は黙ったまま、柳瀬の渡した資料パート2を熱心に読んでいる。

「なにかいいこと、載ってるの」みずるが聞くと、

「おもしろい。実におもしろい」と、返事した。

「やめてよ、変な湯川先生の真似なんて。コーヒーがおいしくなくなる」

「これはミスタースポックを演じる久松保夫氏の真似のつもりなんだが」

 宇藤木はようやく顔を上げてコーヒーを一口飲むと、

「柳瀬さん、おかげで欠けていたピースが順調に埋まってきました。あとは当事者にこっそり探りをいれたいんだが……いい方法が思いつかない」

「感づかれて、逃げられるおそれあり?」みずるが聞いた。

「そう。派手に動くと察知されそうだ。だからといって先に拘束してしまうほどの証拠がない。難波くんに期待したいところなんだが、やめておいたほうが、いいかな」


「いったい、難波になにを頼んだの」

「つまり、犯人は武子さんを拉致してそのまま殺したと見られているんだけど、ひとつの仮説として、彼女をいったん自宅兼店舗に連れてきたのではないかと考えた。あるいは犯人が拉致後、単独で家に入ったかも」

「なんのために?」

「探し物のため。武子さんは犯人に都合の悪い写真か動画を隠し持っていた可能性がある。殴ったのは、保管場所を聞き出そうとした。それにあの店は、アーケードから外れていて、隣は夜になると人がいなくなる。案外、人目がないんだ」

 そして彼は柳瀬の方を向くと、

「柳瀬さんによれば、亡くなる直前の武子さんが、たまに店にくる電気屋の店員さんに防犯カメラについて相談していたそうなんだ。専門店の連絡先とかも」

 柳瀬がそれを聞いてにっこりした。


 「これは完全に想像だけど、犯人はもしかしたら、一度ぐらいは住居スペースに侵入しようとしたのかもしれない。それを感じとった武子さんは、家族にも内緒で防犯カメラを設置したのではないかと思いついたわけ。難波くんにはそれを調べてくれと頼んだ。もしかしたら、あの店のどこかにカメラをまだ隠してあるかもしれない。そしてそれは、なにかを記録していたかもしれない。ネズミとかゴキブリじゃないことを祈ろう」

「ネットワークカメラとかかな。犯人がまっすぐカメラを見てる画像がネットに散乱してたりして」

「おいら犯人、よろしくな、とかね」と宇藤木が手を振って見せた。

「でもあの人は、自分ではパソコンを使っていなかったし、家族にもカメラのことは打ち明けていなかったんでしょう。それに、セキュリティ会社とも契約していなかった」

「あ、それは理由を聞きました」柳瀬が言った。「一時いろんな会社が売り込みに来ていて、どこか一つに決めるのがつらいと武子さんが言い、すべて取りやめとなったそうです」

 みずると宇藤木は、ぐったり背もたれに倒れかかった。「その時に入っていればね」

 

「それはそうと」みずるは、急に姿勢を直すと宇藤木を向いた。

「犯人って、だれ?」

 宇藤木より、梁瀬がびっくりした顔になった。

「どうせキミのことよ。ここまできたら、もう心の中で決めつけているんでしょう」

「えっ、そうなんですか。すごいな」

「こいつはそういうやつよ、油断しないで」

「あらやだ、困った」宇藤木がそう惚けようとした時に、「おはようございます!」

 大声をあげて、難波が入ってきた。

 

「あ、おねえさーん、ぼく、アイスコーヒー」と声をかけてから、

「すごいでしょ、見つけましたよ、武子さんに防犯カメラを売った店とそのモデル名」

  と、得意げな顔をして難波が印のついたカタログをテーブルに広げて見せた。

「これを2台、買ったようです。すぐ使えるよう、販売店はセットアップした状態で発送した。電池式で工事がいらないんですよ。僕も買おうかな。センサーが付いていて、人の動きを感知した時だけ録画します。毎夜、入れ替わり立ち替わり違う女の人に襲われそうな僕にぴったりと、思いませんか」

 みずるは難波の言葉を無視して、彼に聞いた。

「いままで、家族が気づかなかったの?店の中に入って掃除とかはしてたんでしょ」

「それはよくわからないですけど……ただ、あれから店はほとんど手付かずのままなんだそうです。とりあえず、松永さんの奥さんに家を探す許可と鍵をもらってきましたから」

「なんてこった難波くん、きみにしてはめざましい手際だ、すばらしい」


 宇藤木が大袈裟に褒めると、難波は身悶えしてよろこんだ。

「え、やだなあ。そうですか。そんなに褒められるって、すっごい嬉しい」

「松永さんの奥さんって、綺麗なひとでしたか」

 みずるが柳瀬に聞くと、彼女は首をひねりつつ、「ごく、普通の方でしたよ。お若い感じではありましたが。たしかお嬢さんがまだ、中学生だったかな」

「それか!」

「ちがいます、誤解です。僕は元来、職務熱心な男なんです」

 彼は運ばれてきたアイスコーヒーを懸命にすすり上げながら、否定した。「それより、もうお昼ですから、先にご飯を食べません?」

「いいや。先に店を調べるんだ」

「そうよ。逃げるでしょ犯人が。あ、そうだ。犯人の正体はどうなったの」

「ちょっと待って。もう一人だけ話を聞きたい。それから公開します。そのあとみんなで『はあーい、犯人さん』って押し掛けるのもいいな。逮捕状もなにもないけど。逃げ出したら認めたことにしよう」

 軽口を聞いていた柳瀬が目を白黒させた。

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